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夢舟亭
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文芸工房 紅い靴【エッセイ】   2010/03/02




    商い



 3月、そして4月は、人生路の変化点でしょうか。
 ここまでの生活から新しい進路、未知の世界への旅立ちの時期でもあります。

 私は、地方、つまり田舎に暮らしてすでに長いのですが、社会へ出たと同時に都会生活をおくりました。
 若さもありました昭和の中頃、当時の東京は今ほどではなかったにせよ、田舎育ちの者にはスピード感はすさまじく、人やクルマのあまりにも多い流れとその動きのめまぐるしさにめまいさえ感じたのでした。
 それも若さゆえか、すぐに慣れてしまったものです。

 けれど近年は都会に出たりすると、かなりの疲労感が残ります。
 ですからそのあとの休日には、静かな森林を散歩するのです。そしてどうにか自分を取りもどすことが出来る。
 これはまあ私が根っからの田舎者であるという何よりの証拠なのですけれど・・・

 生まれ育った土地というものは、若く活力のある時期には忘れているものですね。
 けれど上の桁の歳を重ねるにしたがって、どんどん自分の中に故郷臭とでもいうようなものよみがえって来る気がします。
 都会住まいの老齢の知人もそういうようなことを言ってきたのを思い出します。そうであるがゆえか日本の叙情歌「ふるさと」に涙さえしてしまうとか。


 よく田舎は人情味があって良いねと言われます。
 また田舎は人間関係がわずらわしいとも聞きます。
 もちろんそうおっしゃるひとはたいがいが都会人。

 私が都会に住みはじめたころに、都会は不要な人間関係を気にしないで良いと考えていました。だから田舎では顔見知りに挨拶を欠かさなかったのに、隣室のひとなどに一切しないで過ごしていました。
 すると、田舎出ならばさぞ純朴で人情味もあるのだろうと思ったが、なんとも薄情な若者だと、付近の方が言っていたと職場を通して聞こえてきたのです。

 こちらは何につけ都会の人たちは、他人になど興味も関心もない人たちだと誰に教わったわけでもなく勝手に信じていたのでした。
 だが間もなく銭湯などで常連と挨拶を交わしてみれば、皆が田舎出なのでした。
 なかにはなんと、私の故郷のすぐ隣町の出身という人まで居たのです。
 そうであれば、私の田舎出だという正体などとうに承知していたわけです。

 そういうときに隠せないのが言葉使い。田舎「なまり」ですね。
 とくに東北出となれば、簡単に消せるものではないようです。

 話ことばの発音や言いまわし濁りぐあいは、身体の骨組や肌の色や顔つきのようなものなのでしょう。
 生まれ育った国や地方地域の風土がDNAとして、体内の細胞組織に植え込まれてしまっているのでしょうね。

 誰しもそうですが、自分の生まれる地を自分では選べません。
 ですが都会風文化全盛の近代の社会では、教育の高さや年齢などを問わず、田舎出が示す言動が笑いのたねにされることが少なくありません。
 地方の都会化とか情報化などといわれるようになっても、笑う人、笑われる人はいつ無くなるというものではないのでしょう。

 ですがまた、そうした差別的な蔑視を卑下せず逆手にとってしまって、自分の特徴個性として売り込む俳優タレントなどもあったのでした。

   *

 最近はすっかりご無沙汰している同じ田舎のある知人が、会うとよくお父さまの思い出話をします。

 この人のお父上は、県下この地域で初めて輸入式タイプライターを行商して事務機販売の店を大きくした人なのです。
 終戦後、事務機の商売に目をつけてわが人生を賭けたのでしょう。

 当時、タイプライターのサンプル試用機を手にした。
 そこまでは良いがさて運転免許はもちろん自家用車などは無い。そうなれば戦後間もない東北の一地方である県内はあまりにも広い。

 だのにそのお父上は、役所や種々事務所へ、そうした機器類を背負って出かけて巡ったというのです。まるで修業僧の行脚です。
 自らはじめた商売とはいえ、こうした行商の苦労を、店が軌道に乗ったあとまで続けたというのです。
 ということは乗り合いのバスや列車を乗り継いで訪ね巡ることが多かったわけですね。

 私の知人であるその彼が都会で学業を終え、息子として家業を継ぐために帰郷した。
 すると父上は彼を行商行脚につき合わせたのでした。

 父子が一緒に出かけるとき、父は乗り継ぎ車中のほとんどで、隣席やそのまた隣、向かい席に後ろ席と、声をかける。
 行き先を訊ねたり、天候時候の挨拶や、世間話、風説を楽しむ。ときには政治や経済の雲行きなどなどを、延々と語り交わし続けるのでした。それも地元言葉で。
 学卒間もない彼からみれば、ばかっ話です。
 ですが車中で話し興じる皆は盛り上がり場は明るく沸いて、笑いが尽きないのでした。

 何度かのそうした商売道中のお供で彼が解したのは、知る人ぞ知る東北弁ずーずー弁行商男のピエロ。それが自分の父の仕事中の姿であったというのです。

 都会生活を身に着けていた若い彼には、そうした父の田舎っぽい世間話の響きと野暮さが、扱っているタイプライターという先進の洋式事務機イメージとかけ離れ過ぎて、たまらなく嫌だったのでした。
 なにより笑われる側に居るのは自分の父なのですから。

「親父。せめてスーツとネクタイ姿かなんかで、新聞でも静かに読んで乗ってろよ」
 そう口走っては、油付着のよれよれ作業着の父と離れてすわったというわけです。

 そのお父上は、目当て目的の先の、せっかくのお客の事務所を訪れても、一向に商売の話をしない。
 動きの具合を点検させてもらっている父の周りに、仕事の手を休めてまでして集まり寄ってくる客先の人たち。それらを相手にここでも、げらげら、べたべた、くちゃくちゃ、けらけらと、話しに興じて笑いを残して。ではまた、と退きあげる。
 仕事らしいことといえば修理や部品交換するのが関の山。
 彼の目には、売り上げとか利益などにはいたって無頓着な父に見えたのです。

「親父よ。いったい何しに、わざわざこんな山奥まで来たんだよ。もう近代的なビジネス感覚をもって商売しないと時代に乗り遅れるぞ。少しは儲けを考えろよ」
 帰路の夕べの車中で、父をなじった彼。

 しかし、自分は世間様を先生にしてここまで来たんだ、という父。
 あっさり聞き流しては、車窓にからからからと笑い吹きまくだけ。


 そんなお父上が老いて、逝った。
 遺した家業を彼が引継いで、社長になった。

 世は電子化の波が打ち寄せていた。
 事務機業界もその技術革新の波はおなじ。いわゆる電子計算機、コンピュータの時代です。
 どこの事務所もハイテク機器が占めていった。
 となれば、わが世を得たりと、社長となった彼は近代化経営を推進した。先端技術重視の商売の旗を振る。

 OA、オフィス機器、ハードやソフトといった派手なアルファベット文字が言葉が、仕事のなかで飛び交う。
 それに合わせて店舗を改装。旧機械式なタイプライターの店から、打って変わってモダンな看板を掲げる。
 彼の思いの躍動ぶりを反映して輝いた。

 父の時代には地味だった事務機の商売業界も、事務商品に無縁だった新参ライバルも春先の竹の子のようににょきにょきと開業してきては、競争はいっそう激しくなった。
 彼は望むところだ負けじとばかり、一流メーカーと協力支援の契約を交わし、エンジニアも雇って、華々しく業務拡大をアピールした。

 だが・・・、なぜか減ってゆく顧客と問い合わせ、注文。

 優秀な技術と迅速なサービスこそがわが店の自慢。であってみれば、乞い願っても客の方から願い押し寄せて来るはず、という目算が崩れはじめた。

 目減りする一方の客を少しでも押さえようと、客先を訪ね御礼挨拶の頭を下げに若社長。店上階の部屋から出て、自らが巡り出した。
 それは父上時代からの古参社員の助言からであって、若い彼としては良しとしない、だがやむをえない策だった。

 さて、客先に行ってみれば・・
 古客の皆は、旧店の名を憶えていて懐かしがる。
 ではあるものの、歩きセールスで疲れも見せず笑いかけて来た当時の父の話ばかりが出る。
 彼が自慢したい新鋭ニューモデルコンピュータ、マシン性能やメーカ自慢の特徴、あるいは研究開発の秘話などをしても、そんなことはどうでもいいよという。
 たまに興味深げな顔で立つ若い人に説明しても、難しい話だない、と笑いにすり替わってしまって、まともには耳を貸さない。
 宿泊費用まで投じて呼んだ同行のメーカーエンジニアなどは白けて声も出せず。

 そんな状況のなかで−−
「おう。息子かぁ。久しぶりじゃねぇか。顔見せねえと思ったらすっかりコンピュータ屋になっちまってはぁ。
 あのな、技術的にどうだとか言われてもサ、おらたち素人には判断できねぇべよ。
 あのころのおれだちは、あんたの父さんを信じて持って来るモノにカネ払った。
 それを裏切らねぇだけの商売だったから、つき合いが続いたんだな。
 カネ払うってことには、売る人の言うことやることが信じられねがったらはぁ、無理な相談さぁ」
 つるりと禿げ上がった男がにこにことしてそういうと、

「ってことはよ。あんだが持ってくるモノにカネ払うには、あんだと心を割って話しが出来っかどうかだべな。前の社長は商売ってものはそういうこったと、教えでくれねがったがゃ。とにかく性能がいいからはいオーケーというもんではねぇ。前はまえ。でも今はいまだ。これがらの取引きは、あんだの気持ちが通じたときから始るってわけだな」
 長の名の付く白髪の役職男が茶をすすりながら、そんなふうにして彼の肩を叩いたというのです。

 その帰路の自家用車中、社員の運転する後ろシートで。
 彼の瞼に、何のこだわりも無く次々に地元言葉で声掛けては、屈託無くからからと皆を笑わせていた父の日焼け顔が、クローズアップでよみがえったというのです。

 このままの経営では親父には勝てん。
 客の顔も見えないような所からただ売らんかなで、モノの良し悪しだけ論じても、ましてパンフレットを送り込むくらいでは商売は話にもならずだめなようだ。

 思えば父は、乗り合い乗客たちから、そうしたノウハウ人心の複雑さを学んでいたのではなかろうかとこのときおぼろげにも、父の商いが掴めたのだという。

「東北人はなぁ、玄関先まで来た人を滅多に拒んだりしねのなぁ。
 だからそれを、優しいとか、人が好い、とかいうかもしんねぇ。
 んでもぉ、それは考えなしだとか相手を見てねぇということではねんだぁ。
 なめられやすく見えるけど、それをいいことにうっかり人間扱いしねぇで騙したりでもしたら、もう二度と心を開いてはくれねんだどぉ」

 彼が、父の生前のことををあらためて訊ねると、老いた母は父が遺した数少ない言葉として、そんなことを呟いたのだそうです。




                          作:1999/09/21
                          修:2010/03/02




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