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夢舟亭
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夢舟亭 エッセイ
自分流
2006/06/20
時の流れは早いもので、泳ぎ始めるきっかけをつくってくれた町の医師は、とうに逝かれてしまった。今その医院ものこっていない。
あの時、思いもよらない健康診断結果を相談するとその医師は、スポーツをなさいと微笑まれた。
働き盛りの世代に入っていた私は、スポーツなんかする時間はとれそうにないですと、出張りかげんの腹をなでた。
すると、そうでしょうねぇ、汗を流すのがいちばんなのだがという。
仕方なし顔で、当面の食事の注意などするのだった。
まぁそんな辺りがあなた世代の答えですよねぇ、というふうにカルテにペンを走らす医師。
その表情に、わが健康への無自覚ぶりを思う。
そこで、どんなスポーツがよいでしょう、と問うてみた。
まぁ、スイミングなんかなら、身体に無理がかからないのでよろしいですね。
エネルギーの消耗多いのでおすすめだが……と、私の顔も見ないでカルテをそばに控える看護婦に渡す。
次の患者を、という意味だ。
この世代の男がスポーツ不足と言われたとて実行するはずもないわい、というふうなのだ。
礼など言って去るべきところを、ふむスイムかぁ、と口走った。
看護婦さんが、泳げるんですかぁ〜と、意外な顔をした。
私は、当然でしょう、というふうに笑った。
私はそういう間の抜けた成り行きでコトを起こすことがある。
そんないきさつで勢い付いて。
スイミングスクールの玄関をくぐったのが、厳冬2月。
抜き足差し足。かなりおよび腰でスポーツクラブの受付窓口に立った。
簡単な決まりの説明など受けるも上の空。
やめる理由も見つからず、うなずいて。
以来、週2回。隣市のプールまで通ったのだった。
そうして数年の後。
時代の流れか、世の中が良くなったお陰か。
わが町に、季節を選ばない温水プールが設けられた。
あれはバブル期だったろう。
ホームグラウンドならぬマイプールと決めて、毎週欠かさず通っているというわけだ。
あれ以来通算20年の上。
泳ぎ続けていられるのが嬉しい。
今ではテニスコートとプールは、観光地のホテル必須アイテムだという。
たしかに県内温泉地も大きいところを見るとたいがい設置されている。
泳ぎは、子どものころに沼で犬かきをしたはず。
だのに習い始めてみれば2メートルも泳げなかった。
背中にスチロールの浮きを付けて、壁縁につかまって、バタ足から始めた。
コーチの指導に従って片道25メートルを、ばしゃばしゃと泳ぎ切るのに3ヶ月も要した。
次に100メートルは、半年もかかったろうか。
でもその後の500メートルまで伸びるにはさほどかからなかった。
出来ると面白いのは何ごとも同じ。
泳ぎは、距離という結果が見える。
近年ではなんと連続最長2kmをノンストップで泳げるまでなっている。
ただ一心に行う性格が、欠点か長所か。
クイックターンなども見よう見まねで覚えて泳ぎきっている。
もっともシゴトだって10年越えるなら、どんなこともたいがい一人前になろう。
だから自慢するほどもないだろうけれど。
寄せ来る年齢に逆らわず無理せず。
連続1km、のんびりマイペースで週二回、楽しんでいるというわけだ。
肝心の肥満お腹のほうは、泳ぎ始めて数年、会う人に見違えられた。
ほっそり顔を見た何人かに、この身体に何が起きたのですか、と問われたのを憶えている。
とはいえ、痩せることだけを目標にしては、なかなか辛いものだと思う。
私は、早朝マラソンをしたことがあるのだが、水泳のようには続けられなかった。
自分に合ったスポーツを見つけて、無理なく楽しむことが健康の元だと思う。
先年、ドキュメンタリー番組でスポーツ機材メーカーの方の話を聞いた。
語るには、昨今の売れ筋客層は学校やその生徒やスポーツ選手などではない。健康維持指向の大人たちが圧倒的に多いのだという。
それはまさに私などであり、プールのサウナで出合う人々なのだ。
泳ぎにかぎらず、歩く、走る、打つ、投げるに汗する楽しみ健康管理に興ずる時代であることに納得。
もはや先を争う勝ち負けスポーツのときではないということかもしれない。
それでも泳ぎ続けているというと、大会などにお出になるのですかと訊かれたりする。
マイペースを旨としている私は、無理をしないでいいんだという姿勢だから、そういう気持ちは一切無い。
時々、時間とか新しい泳法のような自分だけの目標を見いだしては、気長に挑み身につけて楽しむ。だから太りもせず痩せもせずだ。
実際痩せようと思うなら、何よりも食事節制が一番なのだ。
食べなければ内部留保エネルギー源から消費される。つまり痩せる。
スポーツは動けばエネルギーを消費するが、空腹でかえって多く食べてしまうこともある。
私の身長体重比も好ましいと言いきれないときもあるようだ。
スポーツというものは、新陳代謝促進と心身の活力維持に良いのだと感じる。
とくに「心」への爽快感としてストレスの消滅にお勧めだ。
ところで、2回に一度くらいだろうか。
私が泳いでいる隣のレーンで、速さを競おうとする人がいたりする。
それはいつも同じ人ではない。
そしてたいがいが速泳の人だ。
プールの端に立って私の泳ぎを見ていて、端に着くのを待ちかまえている。
ターンをすると、併泳してくる。
そして、さっそうと抜いて先に着く。
と、止まって、カメさん的な私がたどりつくのを、ウサギさん気分で待っていたりする。
そして私が着くと、また同じく並んで、抜いて。先で立って待つ。
そんなことが何度か続くと、私はプール中で並んだとき、やにわに立ち上がって方向を替える。
競争お断りですのでという意味で、レーンを戻り方向に泳ぎだす。
すると相手は、向こうへ着いて立ち上がり、あれぇ、という顔。
気が付く方は、その意味を理解してか、私に関心をもたずに競わなくなる。
思えば私も20年もの間には、距離や速度が上がって面白かった。
泳ぎ始めには、やはり同じく、盛んに並んで競ったものだ。
速度で勝てば気分がよい。路上の暴走クルマの徒ではないが、快感が湧く。
スポーツというものは、競争意識を沸き立たせるものだ。
そういう価値観を幼い頃から学んで育ったのだからやもうえない。
しかしまさか、オーストラリアのトップスイマー、イアン・ソープと競おうというのでないのだ。
選手やプロになることでしかスポーツの楽しみが得られない、というものではないだろう。
そもそも私などの泳ぎは、そういう世界とはまったく別なところにあるのだ。
そんなわけで、今では他人のことなど目にも耳にも入れず、ただただマイペース泳法。
みんさんお先にどうぞだ。
隣をゆくビギナーのご婦人に追いつき並ぶと、速度を落としたりするくらいだ。
そういえば、夏休みに来る小学生には、お父さんやお母さんが着きそっていたりする。
熱心な親となるとストップウォッチ片手に、泳ぐ子どもと共にプールサイドを行き来したり、コーチ声をあげている。
またそういう方の子どもさんは、たいがい見事な抜き手で泳ぐのだ。
だが、休みがあけた後で、子どもが一人や友だち同士で来て、泳ぎを楽しむ姿は見られない。
泳ぐ方々の邪魔になる水浴び遊び組のほうが、休みがあけてにもプールに通ってくる。
水しぶきをたてて、はしゃいでいたりする。
これを音楽教室の先生と話題にしたとき。
楽器の習得と楽しみの関係も、そんな感じだという。
だから続かせるための手加減は難しいという。
親の期待の大小が左右することもおなじらしい。
常に叱咤激励されながら、競争意識を鼓舞され続けると、身近な他人と比較したがる。
どうにか抜きん出よう優位に立とうと競る。
それをもってスポーツだと固く信じている。
それは子どもだけでなく、大人にもかなり多い。
そーんな気持ちは捨ててしまったほうがずっと楽しいのに。
泳げない人もいるのに自分はこんなに泳げるのだと、自己満足大いに結構。
心穏やかに、自分の工夫で楽しめばそれでよろかろう。
とはいうが、まぁそれは自分も通ってきた道なのだ。
職業として目指さないのなら、個人的な楽しみとして永く続けること。
それには肩の力を抜いて、競わず。
他人との距離をほどほどに保って、礼を忘れず。
自分を見失わず。
などと、今にして思うのであります。
(おわり)
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