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夢舟亭
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<この文章は商業的な意図をもって書かれたものではありません>

夢舟亭 エッセイ 2006年01月08日

   ドラクロア「民衆を導く自由の女神」


  赤 白 青


 博愛、平等、自由を意味するというフランスの国旗。
 その三つのカラーを随所にちりばめられているという絵のはなし。

 絵に描かれてある、人物の衣服に、戦火の煙に、勝利を信じ前進する人々の高揚した頬に。砲火硝煙のなか、銃を握りしめ青白い刀剣を振りかざし、叫び攻めよせる市民に。
 民衆を背後に従えて、先頭にひとり立つ若き女性は、醒めた目線で見返る。
 薄着で露わにした肌の自由の女神が掲げた縦三色の旗は、絵のど真ん中で風に踊る。
 ひるむな。これに続け、と。

 国旗に次ぐ市民の誇りシンボルともなっているこの絵は、過去ほとんどフランスの国を出たことがない。
 2.6メートルの高さ、3.25メートルの幅をもつ大絵。
 それが、億という輸送の費をもって、おごそかにこの街に降り立ち、顔を開いた。

 ニホンへ向けた友情のしるしなのだと、微笑んだ在日の大使が持ちこんでまでして公開した意味を説く。
 一昨年。横浜の港に貸し出された石像、自由の女神に継ぐ友情のあかしなのだと。

 ドラクロアが1930年から描き上げたといわれる「民衆を導く自由の女神」の来日公開である。

 それはフランス革命の象徴的戦闘シーンをイメージした。
 王侯貴族から市民へ主権が移りゆく様は、けっして平穏な歴史の成り行きではなかった。

 あれから百数十年が過ぎた今。
 異国であるこの地で、日に一万人もの市民が展示会場の待ち行列に耐えて出会う。
 ガラス越しに確かめる人々の眼に何を訴えかけることだろう。

 学生時代に教科書で見たことがある、とつぶやく青年。
 あの女神は描き出しのころはこちら正面を見ていたのだ、という絵ごころ有りふうな中年の男。
 過去に三つ折りにしたのか、横すじ二本の痕がなんとも痛ましいと悲しむ女性。

 惜しげもなく露わではち切れるほどの女神の乳房。それはまさしく虐(しいた)げられた市民を慈しむ母親の標(しる)しだ、とうなずく老夫婦。
 王軍の兵を倒し踏み、進む民衆を導く先頭が女性とはなんと西欧らしいではないかと高笑う男性。そうだわねぇとうなずく連れのご婦人。

 絵、その技巧、テクニックから構図。時代背景などと、今日も人々に限りない想いを湧き立たせているドラクロアの絵。

 かし付かせ労働させ、作物も税をも貢がせせしめて。
 拒否も許さず、ただ一方的に支配した王侯貴族たち。
 土地も地位も権利ももたぬ市民のすべてが、それへ不満と反感を、ふつふつと沸き立たせた。
 その憤懣が頂点で破裂した、フランス革命。

 それは自然な成り行きだったろう。
 永い王政、再度の復起にとどめを刺さんと立ち上がったのも「自由」に目覚めた人々の当然の思いかもしれない。

 親愛なる友は「お考えになってはいかがですか」と、勇気ある助言を与えるものだという。
 しからば、今、この絵を貸与された意味こそ考えてみたい。

 そこで「自由」と「平等」。
 たとえば−−
 市民われらニッポン国民の会費二十数兆円という膨大な税。お金。
 公金といわれるべきそれを、数千億円に切り刻んで、そのおカネでふさいだ穴は、ガスが噴いて、あっちこっちで発泡(バブル)した跡となった。

 バブルはいつのまにか、まるで自然に弾けてしまったような説明釈明をする人が居る。
 だがしかし、おカネというものは勝手に膨らんだり弾け飛んだりするだろうか。
 いやそうではなかろう。
 食いあさって穴を空けた者らが居るのだ。

 それはだれだッ!? どんなヤツらなのだ。
 なにがバブルだ!
 いい加減なことを言い合うんじゃないよ!

 市民が身を斬られるような思いで捧げた税ではないか。
 それを膨らました者、発酵させてた者、甘いガスにして吸って逃げた者。
 彼らは、どこかに潜んで、互いに濡れた口を拭いて隠れて。
 口を閉ざしている。
 刑場にも引き出されていないのだ。
 かくして税は散霧し、消えたままだ。

 流行ミステリーの本も及ばぬ、手品の一技にも勝てないこの怪。
 自由平等の国と言われるこの地で起きた。
 自由は、気ままのことか。
 平等とは、カネの力を振るえる者の勝手に任せることだと言うのか。

 正義も地に墜ちたか。
 神はたそがれたか。
 加害被害別なく、闇の中だ。
 不明確なまま過ぎようとすることを思えば、ぞっとするではないか。
 そんなことが許されようか。
 そしてこの先、大衆市民を欺き騙す狡き者がぬくぬくと逃げおうせるなどが、起きないと言えようか。
 市民大衆我々は、そうしたことが起きるたびに、目をつむり続けるお人好しで居られようか。

 そうした逃げ口上や目眩ます手として、誰の作戦か「不景気だ」の陰気なかけ声が湧くのはいつものことだ。
「リストラ」という不可解な切り捨て拷問が、生真面目で正直な小市民の家庭家族を責め立てる。
 小市民とは、先の血税を供出させられた人々、民衆のことだ。
 それら民衆の不安を煽りつつ落ち着きを阻害する。けして手を取り合うチャンスを与えられず、常にかき乱されてしまう。
 こうして、罪などあるはずも無い先の被害者である市民の首に、灰色の手がかかり、ぐいと締められる。

 いつの世も、人の良い民衆小市民というものは、ずる賢く振る舞う者どもの手に、あっさりと落ちて搾り取られ、掠め取られるしかないのだろう。
 あの件も、この話も。大衆の無知を良いことに。知らないだろうと思っては、ぬくぬくと逃げおうせやがる。すべては大金持ちの思うままに動いてしまう。

 実際には、わが身を省みずに底辺に苦しむ市民大衆の救済に奔走する、絵の女神などはどこの国にだって存在しないのだ。
 そんなことは元より誰も信じてはいないのだ。

 つまりフランスといえど、現実の市民革命において、それを導く絵のような女神などは無かったのだ。
 市民民衆自らが、互いに疑問し憤懣に堪えきれないで奮い立ったのだった。

 同じ人間という存在にどれだけの違いがあるというのだ、と。
 なぜ自分たちが我慢しなければならないのだ。
 いつまで目をつぶって従っていろというのだ。
 騙すのもナメるのもいい加減にしろ、と・・。

 絵の展示館から、夕陽暮れゆく公園の木立を歩めば。
 ついそうした思いをめぐらすに至った。
「民衆を導く自由の女神」という一枚の絵は、この月の内に帰国して。
 真の自由と平等を勝ち取った市民の待つ、フランスはパリ、ルーブルの壁に戻る。


                 99/03/17





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