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紅い靴
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<この文章は商業的な意図をもって書かれたものではありません>


夢舟亭 エッセイ    2008年03月08日


     クルマ


 先日、イタリアのフェラーリ社のクルマの贋作偽物が見つかったという記事があった。
 美術品やお金ではなく、クルマの偽物というのは、申し訳ないがおもしろい。

 なにせ歴史あるフェラーリの名車だ。
 あの手作りメーカーのクルマといえば、きわめて高性能なス−パーカーだ。

「だ」、と断言してしまったが。
 私はクルマについて語れるほど専門の知識はない。
 ただイタリアのランボルギーニ社とこのフェラーリ社ぐらいは知っている。
 そのくらいの目の保養は関連BS番組で今も楽しんでいる。

 先日もフランクフルトの自動車ショウが特集された。
 ランボルギーニ製の1億円のがあった。
 それがただのモデルサンプルではなく、すでに年間の限定生産数十台はすべて予約済みという。
 庭から溢れ湧きでるオイルマネーの方々などが、自転車のように求めるのだろうか。

 またあのてのクルマについては、名車ポルシェを先頭に一連のスーパーカーブームが起きたことがあった。
 息子たちも小さいころにミニカーを集めていたのを思い出す。

 出張先で買い求めては帰宅時にポケットから出すと、息子たちは驚喜の笑顔を見せたものだ。
 流線スタイルのスポーツカーが多かった。
 ざくざくと大小色別でおもちゃ箱に増えていった。

 夕食のあとなどに、おとうさんはどれがいいと思うと問う。
 私はランボルギーニのカウンタックがお好みだった。鳥の羽根のようにドアが跳ね上がるモダンさがなんとも心憎いデザインに感じた。

 すると、それはぼくだからべつのにしてよ、という。
 そうなればフェラーリだって次男以下が、好みの予約が歳の順に選ばれているはずだ。
 そこで私はこういうときのご指定が決まっていた。

 お前たち知らないだろう。何ていったってねクルマはこれなのさと指さす。
 通称カブトムシ。フォルクスワーゲンのテントウ虫のような背中まん丸スタイルのあれ、ビートルだ。
 今では製造してない。
 現代風に一新されたニュウタイプが世界を走っているようだが、私のご指定はいうまでもなく旧タイプ。

 当時子どもたちはもちろん、一家であのタイプにはお世話になった。
 自慢の愛車だったのだ。
 私が独身時代二台目に乗り換えてからの自家用で、空冷水平対向4気筒のたしか1500CCまであがっていた。
 家族の外出には定員数もかまわず家族みなで乗り込んだものだ。

 どどどど・・と農耕用発動機のようなエンジン音で走った朱色の頑丈ボディーはとっても不体裁。
 タイヤの直径もやたら大きく、小型トラックのものほどあった。
 それが砂利道が多いころに細かいデコボコを吸収してくれた。

 ボンネットやバンパーなどとにかく独特曲線の頑固ものだ。
 当時でもあれほど時代的スタイルはなかった。
 だのにそれがすべて私には魅力なのだからどうしようもない。

 ずっと若かった、デートのある日。
 町で見かけた中古車店の展示場にオープンカータイプのカブトムシがあった。
 値札を見ればとても若僧が入手するなど無理な額だ。
 けれど青空を屋根にして二人で乗り込んだ。

 もちろん走るわけにはゆかないが、しばらく並んで坐った。
 周りを見て、頭上を見上げて。
 ああこういうのっていいねと、一緒になった先の目標のひとつにした。
 その後わが家で入手できたが、ハードな屋根であって頭上に空は見えなかった。

 オープンタイプ(カプリオ)を入手したのは、さらにさらに後年だった。
 同じメーカーとはいえ、カブトムシではなかった。
 すでに母も息子も一緒に乗ることはなかった。


 そんなわけでクルマでは、カブトムシを製造したメーカー、フォルクスワーゲンになにかと縁をもってきた。
 だから購入目標となってからは、ワーゲン社がいわく因縁をもつポルシェ社との噂も嬉しいものだった。

 ポルシェ社のクルマのスタイルは、メカニカルの極地とでもいえる無駄を排した感じが私はファンだった。
 たしかに何十年も前のデザインが、今もって基本的に変えず。
 だのに古さを感じさせない。
 もっとも私などの薄給でどうにかなるというクルマではない。

 フォルクスワーゲン社のカブトムシは、戦中独軍がポルシェ博士に依頼した大量生産向きの丈夫な小型車開発なのだ。
 その生き残りなのだという。
 そうした考え方を戦後大衆車として引き継がれただけに、あのクルマの特徴をあげるときりがない。
 スーパーカーのポルシェとの共通部品まで使われていたとかんなんとか・・。
 そこでは冷房が効かない不便さなどは問題ではなかった。

 とはいえ、そのことが何より辛かったと、当時の同乗の思い出を、子どもたちは今になって言う。


 そんなわけであのころ、子どもたちが見つめるなかで、私は黄色いテントウム、ビートルを指した。
 と、子どもたちは、そうらおいでなすったねと笑みうなずき、顔を見合わせるのだった。
 それだけはおとうさんにゆずるしきゃないねと。

 私は、そりゃそうさ。このなかで池に落ちても沈まないのはこれだけだからなと得意がってみせる。スクリューでもつければ船だぞ、と。
 と、すごいなぁと子どもたちは叫んだものだ。

 もっともこの「不沈ビートル」については、かなりあやしくて。
 まもなくそうでもないようだってよと情報を得てきた長男に反論されることになった。

 そうしたやり取りを憶えていないほど小さかった一番下の息子が、最近ニュウビートルに乗りたいんだとカタログを見ているという。
 でもミニカーならともかく、わが家系では自力で買えるものにしか乗れないのを承知しているのだ。

 そういえば家族が何人かで揃って出かけるとき。私が運転席にすわってハンドルを握らないことが多くなった。
 

 それでもときには、わが手でハンドルを握る数少ない、あの時の二人で並ぶ遠出。
 春風に乗って、今年もまた息子ゆずりの皮ジャンパーを着込んで、屋根開けて。
 鼻炎にメゲず走りまわることになる。





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紅い靴
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紅い靴
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