夢舟亭 エッセイ  2003/03/27


    落語「ねずみ穴」より


 昔は皆地主に土地を借りて農作業をする小作人だった。
 とはいいうものの、では江戸の町の市民はといえば、落語で描かれる八っあん熊さんらは、大工や行商などしている。
 彼らは長屋に住んでいる。
 今でいうなら、アパート部屋を借りて暮らしいるようなものだろうか。大家さんはアパートの家主だろう。

 ほかの出演者であるところの若旦那は、大店の息子だ。
 大店とは商家であり店経営。そこには番頭はじめ多くの店員、小僧たちを雇っている。
 雇うというより、住み込みで養って、仕事ほかを教えながら手伝いさせている。

 地方、いなかでは農作業の小作がほとんどであり、そこから地主になるという道は無い。
 けれど、江戸などの都市にでれば、努力次第では大店も開けたと聞く。
 もちろんその努力は並大抵ではなかったろう。
 もしそういう道を選らぶとすれば、なにがしかの資本、元手が必要だったことは、今と変わらないと思うのだ。

 この話の時代は江戸の後期のころだろうか。
 二十年まえに歳の離れた農家の兄弟が父を亡くした。
 そして微々たる財産を分けあった。
 兄はその金をたずさえて江戸へ出て、みごとに商家を興した。
 一方、弟は母親のもとに残り、大人になるにつれ、呑み買い打ちで金を使いはたす。

 そして二十年後のある日。
 兄の店に弟が訪れた。
 懐かしんで迎えれば、商いをおぼえたいから使用人にしてくれという。
 兄は、資金を貸すから自分で商売せよと励ます。
 弟は渡された包みをふところに、右も左もめずらしい江戸の町なかへ……。
 話は弟を中心に進む。
 そんな噺、ねずみ穴、です。


    ・

 兄(あに)さん。久しゅうごぜいます。わしゃあ・・

 む!? おう、おまえかぁ。客だというから誰かと思えば。
 いやぁなつかしいなあ。さあ上がれあがれ。
 あれから何年かなぁ。

 はい。兄さんがいなかを出て以来だから……もう二十年には。

 ふっふっふ。まだこの膝くらいだったおまえがなあ。すっかりたくましくなった。
 いまどこで何している。
 おふくろが亡くなった便りのあと、音信がぴたりと途絶えちまったからなあ。

 はい。わしもいなかに居りましたが……。どうにもうだつがあがらないもんでぇ。
 そんで、こんど江戸へ上ったのは、たったひとりの兄さんの元で、商いの修業を、と思いやして。
 もう、いなかは、もうどうにもなんねぇ。

 商いの修業!? おまえがか。
 む。それなら、いっそ自分でやってみな。
 おれんとこで、といっても周りの者だって兄弟だとなれば気を遣う。
 それはおまえの為にもならない。
 だいいちおまえ、使われの身では、取っただけの金が手に入らない。
 見習いには給金などないものだ。

 そりゃあ兄さん。わしも出来るなら自分でそうしてぇ。
 だが何分、元手が一銭もねえす。

 父っぁまが亡くなってから、おふくろとおれたち兄弟はあればかりの財産を分けた。
 おまえとおれとで幾らもない金を分けて、おれは江戸に、おまえはあちらに残った。

 そして兄さんはこうして店を興した。

 店を興したなんていうが、言うに言われない苦労の末の話だ。
 あればかりの金はどれほどの元手にもなりゃしない。

 そんでもこうなれば大したもんだ。
 いなかの者も、江戸に出てきた皆が驚いて帰ってきたよぉ。

 そうか。
 まぁこの世にたったひとりの弟の門出だ。
 おまえも頑張ってみるというなら、元手のひとつも貸してやる。
 さあ持ってけ。

 ええっ! 元手を、わしに貸してくれるって。
 ありがてぇなあ。

 まあ少ないが、持ってけ。
 これはあるとき払いでいい。

 ドケチで堅物で、血も涙もねえ男だったと、江戸から帰ったいなかの皆が悪口いうが、そんなことねぇ。ありがてぇ。
 やっぱり血を分けた兄さんだぁ。
 はい。この金はきっとお返ししますで。
 そんじゃ。これで。


    ・


 やっぱりなぁ。血を分けた兄弟にかなわねぇってことだな。
 兄さんがこうして元手を出してくれた。
 しかしなんだよ、おれも心を入れかえてがんばらねばけねえや。
 兄弟だからって、そうそう甘えられるもんじゃねえ。

 ふところのものを撫でながら、江戸の町をゆく男。
 ときどき包みを両手で出しては拝む。

 それにしても、江戸の町ってものは大(でか)いもんだぁ。
 行く娘っこたちもはぁ綺麗なもんだぁ。
 いい匂いもするしよぉ。腹も減ったなぁ。
 江戸の酒ってもんは、どだなぁ味だんべぇなぁ。
 さてこの町でおらぁ何をやるかだ。
 はて兄さんはいったい幾ら貸してくれたんだ。
 ……あんれぇ。
 落としたかな?


 男が驚くのもあたりまえ。包みには銭三文があったのみ。
 今で言えば幾らだろうか。
 お菓子も買えないっというから百円にもなるのだろうか。


 ばかにしくさって!
 やっぱり、いなかの皆がいうとおり、兄さんは鬼畜生だ。
 店の元手を貸すだとぉ。こればかりの金で何ができる。アメ玉だって買えやしねえ。
 なぁにが兄弟だ。くそー!
 ああ血のつながりなんていっても、うっかり頼れるもんじゃねぇや。
 この世の中に、三文元手でできる商いなんてあるわけがねえ。
 そぉか。面倒なことにならねえうちにと、三文でおれを追い払ったなぁ。
 ちくしょうめぇ。


 男は、ほかにだれひとり知ったもののない江戸なかにあって、ひとり途方に暮れた。
 大川ばたに立って、流れゆく水面のゆれを目でおった。
 兄が居ると思えばこそ、ここまで出て来た。だがこうなっては仕方ない。
 しかしそこは辛抱の兄をもつ男だった。


 よくよく考えてみればだ。憎いと思うあの兄さんだってなぁ、二十年前には、ひとりっきりで、見ず知らずのこの江戸に出てきたのだったなぁ。
 そうして辛抱して、あそこまでになったんだ。
 ほんなら、おれだって何か出来ねえということもなかんべえ。
 何も無しで始まれば、ダメで元々だでな。


 そこは若さの成せるプラス思考だ。
 度ケチ兄に借りた三文で、さっそく屑ものの俵なんかを手に入れた。
 それをほどいて、藁(わら)屑に戻し、いなかでおぼえた藁細工の草履など造る。
 それを売り、元にして、乾物とか豆腐油揚げなどを、利を加えて、また売る。
 橋の下や寺の境内などに移り住みながら、子どもの小遣いのような微銭を増やしてゆく。

 そこは山野の小屋暮らしだっただけに、さしたる苦にもならなず。
 貯める増やすの一念で、三年ののちには、ボロ長屋の一部屋を借りるまでになる。

 そこからまた朝に納豆、昼に油揚げ。
 夕方には豆腐と、売り歩く。
 夜になると、うどん屋台を引く。
 と、けっして身体を休めない。

 三文ばかりでばかにされたと思えばこそ、憎き兄。
 あの身代に、まだ追いつかないと、けして気をゆるめず。
 さらに三年。
 やがて路地裏に店を出す。
 ひとり、またひとり。人を雇う。

 やがて妻をめとり、娘もひとり授かった。
 そして、ついには、知るひとぞ知る商家として、大通りに大店(おおだな)を持ち、蔵を三つ備えるまでになったという。


 ごめんくだせいやし。

 あれ。これは、たしか……

 えぇ、えぇ。わしでごぜえます。弟の・・

 はいはい。ご成功なことで。
 主人ともよく話しておりました。
 だれか、旦那さまを呼んどくれ。大事なお客さまですよ。
 さあさあ奥へ。

 へぇへぇ。相変わらずのご繁昌で。では。

 おう。おまえか。
 また立派な旦那になったな。
 ふふ、おまえなどといっては失礼だが、まぁよーく来てくれた。

 いや失礼なのはこっちのほうでやす。ご無沙汰しておりゃす。

 無沙汰はお互いさ。
 それにしても、さぞこの兄を恨んだことだろうよ。

 恨むだなんて、そだこたあねぇ。

 ふふふ。恨まぬことがあるものか。
 たった三文で何が出来る。
 けどな。聞けばあの頃、おまえには、まだいなかで遊んでいた弛み気分があった。
 そこへ両とまとまった金など渡したら、都の酒にも女にも使ったにちがいない。
 いや全部とはいうまい。
 だが元に手を付けて遊んだら、もう商いどころではない。おしまいだ。

 いや兄さんのいう通りだ。
 わしゃあ、まだいなかのなまぐさ心が抜けてなかった。
 江戸の、右も左も見るものがめずらしいもんな。
 まんずおもしろそうで、うまそうで。わしゃあ使っちまったはずだ。
 とはいうものの。ふふ、よくもまあ……。

 うわっはっは。三文とは、参ったか。

 はあ。おらぁ兄さんにやあ参っただぁ。
 さあ、これがお借りした三文だ。
 そしてこちらの二両は、利息分だ。納めてくだされ。

 ほう。兄弟には貸すものだ。
 三文が、二両にもなって戻ってくるとは。うわっはっは。
 さあ、呑もう。

 兄さん、ありがたいこってすが。
 おらあ店が心配で。
 ほんだからこの辺で、おいとましやす。

 いまじゃ立派な大店の旦那ではないか。
 番頭や店の者も居ろう。任せておけ。
 さあ、この兄の盃を受けてくれ。今夜ほど嬉しいことはない。
 心配だというなら、もしおまえの店が火事にでもなったというなら。いまなら三文なんんてぇことはない。
 わたしのこの店をおまえにすべてやろう。わっはっは。

 それほどまで言ってくれるなら、兄さんに、甘えっかな。


 こうしてその夜兄弟は、いなかの話、昔の思い出を肴に、こころゆくまで酔った。

    ・

 兄弟はいい気分で、並べた床に入って……、何どきだったろう。
 半鐘が響いた。
 じゃんじゃんじゃーん。
 火事! 火事だぁ。

 おい、起きているか。

 兄さん。火事はどこかね。

 店の者がいうには、どうもおまえの家の辺りだと。

 そりゃいけねえ。兄さん、すぐに帰りますんで。

 そうか。気を付けてな。


 戻ってみると、隣り町からひろがって、男の店の辺りは火の海。


 ああ、こりゃいけねえ。おい番頭さん。

 あっ、旦那さま。
 品々はみな蔵に運び終えて、いま隙間をくまなく土壁で目塗りをして塞ぎ終えました。
 火は蔵に入らないと思います。

 おう、そうかそうか。

 と、ひと安心すると、一番蔵の屋根の瓦のあいだから、煙が白くもやもやと。

 そうだ、番頭さん。ねずみ穴は塞いだかや。穴から火が入るぞ。

 ああっ! すみません旦那さま……ねずみ穴は、まだで……。

 ば、番頭さん、それじゃぁ火が入るじゃないかぁ……ぁ……。

 そういう間もなく、蔵は見る間に燃え上がってしまった。
 残る蔵は二つ。
 だが二番蔵からも煙が。
 そして最後の蔵からも、白煙が発った。
 やがてすべてが火にのまれ、三文の銭から築きあげた店のほとんどが、燃え落ちた。


 ごめんくだせえやし。

 あれ、これはこれはまあ。なんでしょう裏口からなど。
 このたびは、大変なことでしたでしょう。お見舞い申し上げます。
 それでもご家族が無事なだけ救いでしたねぇ。
 あれ、このお嬢ちゃんは?

 こんりゃご丁寧な。ああ、これはわしの、ひとり娘でやす。
 これ、あいさつせえや。

 こんにちは。

 おほほほ。かわいいこと。まあお上がりを。
 誰か、旦那さまを。

 おう、来たか。いや大変だったなあ。
 で、どうだい。

 いやあ兄さん。すぐに商いは始めたものの……
 客は減っちまって。
 おらぁ、どうにもなんねえ。
 使用人にも、ひとりふたりとひまを出した……。
 いまでは家内までが寝込んでしまってなぁ。

 そうか。うん、さぞ大変だろう。
 だが、済んじまったことは仕方ない。
 なぁに何も無かったところから三文ではじめたおまえだ。
 またやりなおせばいい。

 そこで兄さん。はなしはほかでもねんだが……。
 金を、少し貸してもらえねぇかと。

 銭か。ん、いかほど欲しい。五両もあればいいか。

 兄さん。三文のころのわしならともかく、店ひとつ興したおれのいまでは……。
 そう、五十。いや、百はねえと。

 百!? そんなには貸せないなぁ。

 そうはいうが、兄さん。
 泊まったあの晩。兄さんは、万一のことがあれば、おらに店をまるまるやってもいい、と云ったでねぇか。

 はっはっは。
 わたしがそんなことを口にしたか。
 まあ、それは酒のうえのことだ。
 大店の主がいちいち酔っぱらいの話を真に受けてどうする。
 貸せないものは、貸せん。
 わたしもな、何もないところから店を興して、これまでにした男だ。銭も身上も第一。客も使用人も大事だ。
 儲けの読めない大金をむざむざどぶに捨てるような使い方はできん。

 それじゃあ、あんまりだ兄さん。血を分けたたったふたりの兄弟ではねぇか。

 聞き分けのわるい旦那だな。さあ泣き言をいってないで、帰れかえれ。


    *

 こっちが景気良いときは、親兄弟でなくとも良くしてくれるもんだ。
 けんど一旦わるくなったと見たら、兄弟だっていい顔しねぇ。
 あぁ……どうにも、困っちまったなあ。

 お父ちゃん、こまったの?

 ああこんどばかしは困っちまった。
 増えるのは借金ばかりだ。へへへ。

 お父ちゃん、お金がないの?

 小さいおまえが心配することではねぇ。大人の話だでな。

 お父ちゃん、お金ならあたちができるのよ。

 そうかそうか。分かったわかった。心配するな。
 へっへっ。こんな小せえおまえにまで心配かけちまっては、お父ちゃんもおしまいだで。

 ほんとよ、お父ちゃん。
 あたちは女の子なんだからお金になるの。
 お店のひとたちが、おはなししていたのを聞いたことがあるわ。
 お女郎さんになれるんでしょう。わたしを売れるのよね。

 ばかったれ!
 なぁんちゅうことをいう。冗談でもそったなこというもんでねぇ。
 はぁ、子どもだと思ってたら、いつのまにそうしたこと覚えたんだ。

 ううん。そうじゃない。
 お父ちゃん。あたし本気よ。お願い。あたしを売って。
 お父ちゃんにお金さえあれば、五倍にも十倍百倍にもする才覚があるんだって。そうお母ちゃんがいっていたわ。
 あたしを売ったお金を、いっぱいに増やしてぇ。
 それであたしを連れ戻しにくればいいわ。
 お父ちゃんあたしね、お家のお役に立ちたいの。

 なんともこの子は……。
 だどもおらにゃ出来ねえ。
 しかし店もこのままにしてはおけねぇで……。

 だから。ね、お願いお父ちゃん。

 そうか……。いやいけねえ。
 おめぇほんとに、ほんとにいいのか。
 そんじゃ……おまえにはすまねえが……、そうさせてもらうか。
 だが、ほんとうにいいんだな。
 ああ……ゆるしてくれるんだな。

 うん。

 よし。お父ちゃんががんばってな、すぐ迎えにくるからな。
 すまねえ。


 年端もゆかない女の子が、親のために身を売るというのだ。
 その子の云うことに従って、泣きの涙で愛娘を郭にあずけた男。

 娘を売った金を、ふところにして花街をあとにする。


 どすっ。

 痛って。

 気をつけろい!

 なーにいってる。気ぃつけろったって。ぶつかってきたのはあいつじゃねえか。
 ん!?
 ああっ!
 無え、金が、かねが無え。
 やられたっ。あんちくしょう。
 あぁ……娘が身を売ってつくってくれた大事な金が。
 ああ、盗られちまった。
 おらぁ……なんて間抜けなんだ。もうこんどはほんとに、どうしようもねぇ。
 もう、おしまいだあ……。

 道ばたに崩れ落ちるように座り込んでしまった。
 肩をおとして、涙もなく。
 うなだれたまま動こうともしない。
 放心の体のまま辺りが暮れはじめるころ。
 ……死のう、と立ち上がる。

 腰ひもを解いで、松の木枝にかける。
 垂れた先を首にかけ、地を蹴る。
 ぐぐっ、と締まる。

 ううーっ。なんまんだ……ぶ。
 く、くるしー…………………………


 おい。
 おいどうした。
 起きろ。

 くくー。うーん……。
 はっ。

 どうした。いやに唸っているから、来てみた。
 悪いゆめでも見たか。

 はーっ。ゆ、ゆめだ、ゆめだ。
 兄さん。ゆめだった。あははは、火事は?

 火事!? 何いってる。
 火事なんかどこにもあるものか。
 夕べ、礼に来て。それからふたりで呑んで。互いに昔話でいい気分になって。
 わたしの家のこの部屋に寝たじゃないか。
 それにしても、はっはっは、こいつ。火事の夢なんか見てまぁ。
 むかしからな、焼け太るっていうんだ。おまえの店はまだまだ大きくなるぞうぉ。

 はぁー、兄さん。おら、焼け太るか。
 ありがてえ!


 以上、ねずみ穴、でした。