・・・・ 夢舟亭 ・・・・ |
夢舟亭【エッセイ】 2000/01/18 お立ち酒 ふさふさとしてしなやかで黒い頭髪。 でもよく見ると、ほんのちょっとだけ白いものが散在し始めている。 そんな長髪を後ろに絞り込んで垂らしたアーティスト風な彼。 おでこをとんと叩いて、目を細めると私に言いました。 「結婚したからといってサ、なにもここを改造されたってワケじゃないんだから。 ふふ。綺麗なひとを見ればふと心がうばわれる。 これ、どうしようもないんじゃない」 ときどき呑み交わす友人の彼が自らほのめかす異性関係。 オトナの割り切った遊びなのさと言う。 キミも若さを保つために恋愛しなければダメよ、と。 テレビにコマーシャルで流されるほどの、ちょっとは人に知れた会社に勤めて二十年の彼は、中年で妻子持ち。 本人が言ったのか知れ渡ってしまったのか。 つき合った遊んだ別れたといわれる娘(こ)を私も聞き知っている。 二十歳を越えて間もない娘や三十代中ばの女性たちのいく人かを。 どんな関係なのかなどは、酒飲み交わす場とはいえ詳しくは訊けないが、男と女のものであったと勝手に報告する。 楽しいゲームかなぁ、とじつに快活無邪気に笑い声を発する。 罪などという気持ちを持つこと自体このゲームは失格なのさ、と。 そうかぁ、と聞き流すこの私も一人前の男として、さほど驚くこともない。 まあ有るだろうさという思いでうなずいていたのだ。 その彼が、先日呑んだときこんな話をした。 オトナつき合いの有った彼女が結婚したという。 仕事上の義務であり立場のために、彼はその宴席に招かれ列席した。 式はクライマック。 新郎新婦が、それぞれお相手の両親へ花束を捧げるお馴染みの場面。 これまで育て上げてくれたご苦労へ感謝するあのシーンだ。 生真面目小心そうな花嫁の父のすがたは彼の目を何度となくとらえはした。 その父親が、上座の客である彼の席に余興の時間に来ては、実に丁寧なあいさつと深い礼をもって注いでくれた酒。 とても良い娘さんで会社も惜しんで手放したんです、とかなんとか儀礼を返したという。 会場では童謡唱歌が流れるなかでしずしずと進む二人をスポットライトが映し出す。 式のほうは、このひとつを終えるだけとなった。 式次第と着席者名が記入された固い紙を、タバコを点けたライターの灯りにふと見た彼。 そこで新婦の両親の姓がちがうのに気づいた。 同席のひとに訊けば、母の役は新婦が親しくしている父の妹だという。 彼女の家庭は父と娘だったのだ。 式の最後まで知らなかった仮にも、元恋人。 どこまでも無頓着でいい加減な自分を密かに笑いつつも。 この時このあとを境に、自分のなかが急冷されていったと言います。 受けた花束を抱えて立った両家の父から、来席の皆に御礼の言葉となった。 客の皆が立ち上がると新郎の父が手短に話し終えた。 新婦の父からもお礼を申し述べますとマイクを譲った。 ここまでは予定通りだったろう。 しかし感無量で極まった花嫁の父は、言葉など流ちょうに出せそうにないのがすぐ分かった。 父さん! 若い新婦、つまり彼の元恋人は、新郎の両親の目前から実父に駆け寄った。 それへ二度ほどうなずいた父親。 判ったわかった、と目がしらを平手で拭ぐう。 その濡れた手を自分の手にとって、もう一方の手のひらでしきりに拭ぐう娘。 いいよいいよと娘の手を払いのける父。 けっして一流会社重役風情にはみえないその父は、皆の前で感情をどう収めてよいか思案に暮れている。 話慣れしているふうには見えない。 思えば彼は家庭内のことなど訊いたこともなかった。 あんな幼い娘と費やした一人の男の時間は、見せかけの優しさを装い誘って。 軽くころがしては、つまみ喰らったにすぎない。 仕事を楯にとり関係して、ぽいと精算したのだ。 式場内が静まりかえっているその間、一、二分。 彼は回想してみた。 しかしあの前後の彼女の表情さえ今思い出せない。 来客でもなく職場上司の立場をも越えて、他人には言えない特殊な時間を共有した者として。父と娘の窮地に見入った。 そのとき。招待状からこのときまで一切新郎になど湧かなかった嫉妬心が、素朴実直な父親に感じた。 すまないねぇ、と肩をおとす父。 それを、大丈夫よ、となだめる。 その仕草には、親への申し訳なさの混じった力づけが現れて愛らしい。 おそらくは二人の最後にして最大の、精一杯のやりとりだろう。 愛娘への父が慈しんできた様子がいやというほど想像できた。 目の前の父娘二人の動きが、撮影フィルムのように彼の胸に焼き付いてゆく。 まもなく父親は、むっ自分は一体何をしているのか。父としてこうしてはおれないというふうに、顔を上げて姿勢を正した。 一歩まえに出て、かっきりと場内に頭を下げて、起こした。 話はどうも苦手なので勘弁してもらって、唄にします。 マイクを両手で握りなおす小柄なからだ。 父親は今の気持ちを朗々と歌いきったのだといいます。 ♪〜 おまえお発ちか おなごり惜しい 名残りなさけの くくみ酒 またも来るから 身をたいせつに はやり風邪など ひかぬよに けして上手いわけではないその、お立ち酒という民謡が歌われると、ざわめいていた宴席が水を打ったように静まった。 そのなかで彼は、不覚にも潤んでしまった。 涙の両目でトイレに逃げゆくことも間に合わなかったという。 かといって立ってもいられなかった彼。 会場でただひとり、坐りこんだ。 足もとへ視線をおとすと、すみませんでした、という言葉が洩れたという。 *お 立 ち 酒 (宮城県民謡) |
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