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夢舟亭
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夢舟亭【エッセイ】   2010年06月09日




   リセットスイッチ



 暦のうえではそろろろ梅雨。雨の季節です。

  遊びに行きたし傘はなし〜

  ぴっちぴっちちゃっぷちゃっぷらんらんらん

  雨は降るふる城ヶ島の磯に

  雨降りお月さん雲のうえ

 雨降りの日、いまどきの子どもたちの遊びは、やはりあのゲームかな。
 あのゲーム、ほらピコピコ、電子ゲーム。つまりテレビゲーム。
 もうすっかり社会のヒマつぶしのアイテムとして、子どもばかりかオトナのもの。
 ある意味で、遊び相手はテレビスクリーンのなかの、人工人間が敵。
 いや、インターネットを介した見ず知らずの人同士が、スクリーン上のアニメ戦士となって対戦するゲームも人気があるようです。

 ゲームとなれば敵の姿を見つけたら、即、殺らねばならない。
 うっかり遅れるとこちらが殺られてしまう。
 また持ち時間や残存エネルギーもロスってしまう。

 ですから敵の国籍や氏素性などもちろん知ったこっちゃない。
 なにせ、なぜ相対して戦うのかの、意味や目的など考える余裕はありません。
 そもそも、なぜ向こうのキャラクターが自分にとって敵なのか。いや敵と言ってよいのかさえ、実は分からないのであります。しかし、とにもかくにも、殺されるまえに撃ち殺すことになっているのです。

 と、堅苦しいことを言いだせばキリがないわけで・・、まあそこがゲーム。なにもそぉんなに難しく考えることはない。
 なにせ話はゲームなのですから、まずは少しでも早く敵を抹殺して先に進もうと、個室に孤独なゲーマーの軽快な指さばきは目にもとまらず休まないわけです。


 さてそのてのハイテクなゲームからみれば、将棋や囲碁、カルタやトランプカードなどの類のお遊び。これは生きた人、生身の人間を相手にしなくてはできません。
 もっとも、これはこれで互いに金品を「賭ける」オトナの勝負事として問題になったりしますが。

 そういう種類のゲームにオセロがあります。
 白黒の丸い駒を敵味方それぞれが挟むように並べるあれです。
 緑に黒ラインの升目が描かれていて、替わるがわる並べてゆくオセロゲームです。
 自分の駒色で相手の駒を縦、横、斜めにサンドイッチに挟みこむ。と、敵駒を裏かえして自分の色にしては、持ち駒が増える。逆に挟まれると自分の駒は減る。

  いや、そこに打つのはまずいな。
  いや待てまて。こうすると、相手はこう来るな。
  では、こう打つ。と……ああこれもだめか。じゃぁ、ここはどうだ。

 攻め取られ苦戦のなかから、どうにか切り返すためのあの手この作戦を考えて、駒を打っては進む。やがて盤の升目ぜーんぶが駒で埋められるとゲームはお終い。
 その時の駒数が多い方が勝ちというわけ。

 これはお遊びといえど、なかなかどうして性格や癖といった人がらがゲームの進め方に映しだされるものだという。
 ゲーム終了のときの駒数の多さ勝ち敗けもさることながら、守るも攻めるも戦略を練るその面白さこそオセロゲームの心髄だというわけ。
 その醍醐味が解かるかなと腕を組み相手を選ぶ人もあるとか。

 さて、このゲーム好きな、わたしの知人のお話しですが・・

 その人はとても善い人なんだけど、お相手になりゲームの進行中には、とくに勝ちそうな形勢のときは絶対トイレに立てないのです。それはなぜか?
 トイレへ行って、さっぱりすっきりの顔でもどって盤上を見ると……

「いやあー、驚きましたよぉ!」
「ええっ!? なにか、有りました?」
「いえね、今、ほらそこの窓から、ネコがひょっこり現れましてね」
「ネコがぁ?」
「そう。ニャオンのネコです。あいつったら、まあよくうちに来るんだよねぇ。で、見てみてこれ。困ったやつです」

 と、指差す先。オセロゲームの盤面は駒がガッチャガチャ。
 かき回された白黒の駒はもはや配置がわからず。ゲームの続行は不可能な有様なのです。

「あいつがねぇ。その窓からぴゅっと降りたかと思ったら、ここに四つ足で上がって、前足をこうして。後ろ足で蹴散らして。すっと行っちゃったんだなぁ。またその素早いったらない。思いますにあのネコはよほどオセロのこの白黒丸の駒が嫌いなんでしょうなぁ」

 なーんてことを言う。
 それも澄まし顔のおトボケ目でいるのです。
 不思議なことにそのネコは、あの方が負けてる時だけ現れては、ガチャガチャをやるのですよねぇ。
 そのネコの正体ですが、いまだ相手する誰一人として、見たことがないのです。

 わたしたちオセロ仲間は、ネコ助けのこのガチャガチャを「ネコのリセット」と言い交わして、よく冗談のネタにするのです。

 そう、リセット! ほら子供たちがゲームをやっていて、飽きて大あくびなどが出ると言うでしょう。
「おい。やりなおそうゼ」と。そしてリセットスイッチをポンと押す。
 ここまでのゲームを無かったことにして、新たにスタート。あれがリセット。
 いとも簡単に「御破算」する。あのとき押すスイッチで、いっさいの事が何の苦もなく消えてしまって、再度ゲームの世界を、天地創造してこの世を生みだしたという神様のように、ゲーム世界を再創世してしまうことができるわけ。
 すると、なんと先ほど殺ったはずの死者までが、生き返るのです。

 そんな現実世界ではまったく不可能な事を、なに顔色変えるでなく眉の微動もなく平然と、たった指一本でやってしまう。
 これまでの苦労も努力も、歴史の過程もそのいっさいが残らず消え去って。
 何事もなかったかのように、さっぱりすっきりとして、やり直しです。
 321回目に現れたあの悪人イメージ「A」をピッとやっつけたのと同じあの手際で、いとも簡単にです。

 そんなわけで、リセット、は今や日常わたしたちも無意識で使います。なんともスッキリ感のある言葉なのです。

 わずらわしいことが山積みすると、出来ることなら、いっそ総てを捨て去って無かったことにして、すべて忘れてさっぱりした気持で出直せたらなぁ、と思うことはあるものです。
 そりやぁ誰にも迷惑被害を与えないで済むならば、思い切り良く何も無かったようにそうしたいものです。さばさば、せいせいと……ですね。
 ああ面倒くさい、煩わしい。こんなこと考えないでいられた子どものころにもどりたいなぁと望む思いも大人ならではの苦労の中には多いものですから。

 だがしかし、よく考えれば。人間関係のしがらみ絡み合いの集積や、わずらわしさいっぱいが人生であってみれば。
 オセロ盤面ガチャガチャのように、まはたゲーム機のリセットスイッチの一押しのごとく、笑って破棄削除して済ませられやしないのが現実社会であり大人人生。


 そういえば昔読んだ本に「核戦争を待望する人びと」という物騒な本がありました。

 ある宗教の信者たちは、ノアの箱船で残った人たちのように、自分たちこそは「神に選ばれし民」だと信じていて。
 地上に生きるほかの民族すべてが、核戦争により消え去るのを待ち望んでいる、という話でした。

「ああぁ。今の世の中が、こぉんなに汚れちまった。ドーにかなんねぇかなぁ」
 と、気になって気になって仕方ない。
 ついには、今この世の荒(すさ)み汚(けが)れの極みをすべて消し去ってしまうべきだ。地上世界を新たにゼロから創造し直して欲しいものだと思うのだというわけです。

 で、何を基準に良否善悪を判断するか知らないけれど、とにかく悪はすべて抹殺せよと、「世の中リセット論」に行き着いたという。
 そこで現世でリセット力をもっているのが核、だから核戦争が起きて敵味方とも生物すべてが絶えることになる。それを望むのだというわけです。


 ああ……、わたしなどは見たことがないけれど。ポッ、と一押し。
 その後にすべて焼き尽くされてクリーンアップされた地上世界。その発火点の「リセットスイッチ」。
 核兵器、原子爆弾や生物化学兵器の発射スイッチボタンの一瞬のタッチの感触は、いったいどんなものなのでしょう。

 綺麗でふくよかなピンク色した女性の胸。恥じらいつつ手で覆いかくす乳房のように、妖しくも触れがたく。でも触れてみたいといったん取り憑かれたら最後、その妄想から抜けられない。触れずにはいられない、頭からその思いは消し去りがたい。
 悪魔のリセットスイッチとはそんな感じなのかもしれませんよ。






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