・・・・
夢舟亭
・・・・


夢舟亭 エッセイ 2007年09月01日


   サラリーマンはァ〜


 私はお目にかかったことがないのだが、衣食住すべてを親に寄生パラサイトしたり、引きこもり巣ごもるニート若者という人種があるらしい。
 天職との巡り会いを待っているのだともいう。
 それまでただひたすら待っているのだろうか

 その一方で、中高年世代までふくむアルバイトフリーターとか請負派遣社員といった、非正規日雇い系の雇用者も増えている。
 そうした不安定な就労で薄給低収入、格差の底辺下限は下がる一方だとか。
 今後さらに生活しにくい状況になるだろうという報道を紙面に見るのは、どちら様もご存じのごとく。

 ごく普通の正規の社員各位様方におかれましても、あそこは芳しくないようです、退職者を出したというのだがそこのご主人は家族を置いて海外単身出向とか、社の併合統合で某氏がハローワークへ行ったらしい、と隣や向かいとの朝夕の挨拶。

 職場にすわってみればまた、同輩や先輩後輩のあの人かの方の、仕事着姿が軒並み消えてだいぶ経つ。
 さて今ごろどこでなにをしていらっしゃるものやら。

 不思議にも、職場では、辞めた人の話をすることは滅多にない。
 ということは、明日にも忘れられるのが職仲間なのだろうか。

 これが死ならどうだろ。
 思うと複雑な気持ちになる。
 ひょっとすると、生きている間、在職中に、すでに忘れられるのではなかろうか……と。

 そう言う私だって、今履歴書を書くなら、空欄がないほど転職繰り返しの若い時期がバレる。
 職歴こそ限られるものの、社名社業の幅はひろい。
 つまりは多くの人に忘れ去られながらきた。

 ふり返れば30年ちかく、ひとっ所に留まってきて今。
 サラリーマン業その立場を飲みこんで悟ったふうに過ごしているのは、若いうちの履歴遍歴埋め尽くしで養った職業観のおかげだ。

 昨今の厳しき雇用状況のなかで、戦場の飛びくる矢弾をかいくぐって未だ存命で居る私に、家人は見事というほかないわねぇとあらためて目を丸くする。
 それへ、まぁ綱渡り上手なだけさと笑う私。
 それは、辛さも悩みも切なさも超えてきた、変な開き直りかもしれない。
 前述のようなサラリーマン受難のおり、ただ何となく運が良いということで過ごせようはずはないのだから。

   ・

 非営利団体ならいざ知らず。
 売上利益目的のビジネス事業を大勢の組織で行うなかに席をおいては。
 一個人の思いや私情などが顔だす隙はない。

 組織においては、何ごとも上意下達。
 行うべき指示命令の号令一下。
 それへ遵守必達の義務が強要される。
 その強要に応えることが仕事である。
 仕事に対する給料という、報酬はこの忍耐の換金だ。

 個人の悩みや疑問、あるいは不都合があったとて。
 取り合ってもらえようはずはない。
 個人尊重とか民主的で自由オープンな意見を尊重し、皆のコンセンサスを待って、などと言っていては、厳しい競争に遅れてしまうのだ。

 他社より先んじて目標を達成するためには、異なる意見の収束や一分一秒を急ぐ即決と行動が、何より求められる。
 個人ごときの不都合で、組織全体に迷惑影響を与えてなどいられない。

 組織の中では個人が苦心して練った意見や方法や案アイデアの、一つ一つなど上位責任者の鶴の一声や場の雲行き流れで、あっさあり退けられることが少なくない。
 所属する集団組織の大目標と、そこにすがって生息する駒サラリーマン一個人の、思いや望みが等しいはずもない。

 複雑に絡み、入りくむ人間関係の、協調活動の先の利益という最終目的を得るためには。
 そちこちで部分的仕事をする一個人が、大道本筋から離れた私的不満事を優先してもらえようはずがない。
 あくまで全体益最優先で、突き進んだ末のそちこちから、流れ込む利益がサラリーマンの財布に落ちる給料一滴の、源流だ。

 さてサラリーマン一個人のがわの最大目的はといえば。
 自分とその家族の生活を守ること以外にない。
 生きる糧を得る、つまり給料確保だ。

 それにはまず職に就き、できる限り継続すること。
 職が無くては個人の思いも夢も生き甲斐も、まして家族の衣食住も保てない。
 そうと分かれば、仕事にどう取り組むべきかは自ずから出る答えだろう。

 悲しきものは宮仕えとあるごとく。
 サラリーマンは命という一回ぽっきりの、ただ老いに向かう旅の時間の帯を、労働という商品名で切り売りして、生計をたてているのだ。

 サラリーマンという生業は、倍の金額をもってしても買い戻せない生命以外に売りさばくものがない。
 そんなものでも買い手があればまずは幸運といえよう。

 今は大会社の社長や重役といえど命切り売りのサラリーマン雇われ人なのだ。
 さぞや高賃金に応じた辛苦の責職だろう。


 組織の一員として、私心を曲げて押さえて引っ込めて従う辛さに耐えられず。
 大盤振る舞いの、餌付きリストラ人員削減策に載って。
 辞めていった仲間は多い。

 このオレはそこまでしてカイシャ組織に迎合し、へりくだる義理も恥かく筋合いも無ぇ。
 と、啖呵など吐いては、さよならも言わずに出ていったりする。
 正直言えばそれは若いときの自分の姿でもあった。

 それほど無能でもなければ、買い手のつかない腕でもないと。
 多少は人も羨もう立場を蹴飛ばして、飛び出たものだ。
 サラリーマンなら誰しも吐いてみたい一言だろう。

 だがしかし。
 それはなんとアマちゃんセリフか。鯛焼き君だ。

 買い手など付かなかったし、どうにか付いた買い手はトンでもない食わせ者だった。
 痛さに目がさめたあとの、再起の道は長く辛かった。

 この身ひとつのサラリーマンは、鉄板熱に耐えることで給料を手にしている。
 だのに自分の立場を見失う「鯛焼きくん」系の、鉄板の熱に堪えられない笑い話は、辞職退職の陰によく聞く。

 そうした啖呵捨てぜりふで出た御仁に、繁華街でばったり出会ったりする。
 が、いづれも似たようなお粗末顛末記に、笑いを隠してうなずくことになる。
 さもあろうと、口には出さず肩などたたいて別れるのが、いと切なき秋の空。

 ある朝飛び出すボクちゃんの自由さもプライドも、自分の能力を50%以上値引き評価して、それで見合った範囲の脱出自己実現を旨とすべし、と言いたい。

 能力だ経験だとのたもう気持ちはあろう。
 だが、この程度の人間は掃いて捨ててもまだまだこぼれていると、心に刻みたいものだ。
 ここは1億数千万人がひしめく、日本列島である。

 サラリーマンは、現職片隅の末席からあぶれたら、足元板一枚の下におっこちて、職無しとなる。
 明日は家族もろとも路頭に迷う。
 再就職とて35歳上限といわれて久しい。

 そういうことを意識しないでいても、痩せた肩に家族全員背負って、底の見えない谷間に張った細綱を、ふらりよろよろ冷や汗あぶら汗、渡っているのがサラリーマンだ。
 コケたらそれまで。

 まして上位上司というものは、立ちションのふとしたはずみで思い付く転勤とか配置換え、あるいは降格を神のお沙汰のように下すものだ。
 それを家族もろとも押し抱くように拝領しては、また明日に向かって歩むしかないのである。
 これは地主と小作人。農場主と農奴の関係とも思えなくはない。
 いずれにしてもこうした立場の者をどこから見たとて、まさか中流生活者とはいうまいと思うが、どうだろ。


 よく聞きくのに、「誇れる仕事」とか、「自己実現」というのがある。
 生き甲斐ある職業などもそうだろうか。
 若い人のなかには、「自分に合った仕事に就きたい」というのもあろう。

 せっかくの人生を傾注する仕事だから、打ち込むにはそれ相当の、自分にフィットした仕事をみつけて、労働のなかでも満足感充実感を得ようという気持ちは分からないではない。
 言い換えれば、恋した仕事と結ばれたいのだろう。

 私的にいえば、サラリーマン仕事へそうした期待感は望ましく思えない。
 せいぜいそういうのが「あれば儲けもの」、アマいめっけものであり、棚からぼた餅のごときものでしかないと言いたい。

 得られ、定まった職があれば、こなすべき日常業務役割をしっかり認識して、こなせ。

 その繰り返しの中で、たまたま偶然に訪れる「かもしれない」充実感や満足には、オマケだと心得たい。
 全くの畑違い分野を選ぶならともかく、時代がどうなろうとサラリーマンはサラリーマン。仮にも就いたなら、まずは黙ってとにかく働くこと。良い仕事をせよ。

 働くとは、端、側、はたを楽(らく)にさせることであり、自分が楽を得ることではないとは、よくいう話だ。
 自己中心型の、個人尊重という誤った教育の申し子にはいささか辛い職業観かもしれない。

 この国で、90年代以降の、自由相手選択の恋愛結婚100%の時代にあって。
 なんと半分ものカップルが、後に別れているという。
 職を離れる割合増加と、比例してはいまいか。

 離婚も離職も、判断の基準が気になる。
 忍耐とか自己規制とかの、我慢力の減少を思ってしまうがどうだろう。

 素晴らしい結婚生活も、誇れる仕事自己実現も、レストランの予約の白テーブル席のように。
 すでに揃えてあり、深礼で歓迎され、差し招かれ、与えられる、というようなものではない。ということをしっかり心得たい。

 何も揃えてないところから、おのれの手で育てあげる気構えが肝心だ。
 国民皆がサラリーマンかと思うほどの今日のニッポン。
 全員に、いつも生き甲斐や誇りの時が待っていたり、出迎えてくれると思う方がオメデタいほどのばか者だ。

 苦しくとも働け。
 賃金を手にする代わりに、労働を供出しているのだ。
 賃金のほかに、まさか満足感まで二重に取ろうとすることは不埒者(泥棒)といいたい。

   ・

 よく必要とされる人間になれといわれる。
 さてどうだろう。

 私は初めから必要とされていたり、拍手列が待っていて花吹雪で歓迎してもらった経験などはない。

 まずは与えられた仕事をせっせとこなす。
 たいがいの人がそうであるように、数年打ち込めばそれなりに興味もでて、面白く感じるものだ。

 また人間にできないほどの仕事というものは、滅多にないものだ。
 見えてくれば、自分なりの工夫や考えを取り込めばよい。

 自分が生まれたときから、期待して待っていてくれる職場などはないのだ。
 へぇ思ったよりヤルじゃんか、の辺りに至ればまずは合格。
 存在価値は自分で作れ。

 もっとも、ほとんどの努力はそのかいもなく実らず認められず成功しないものだ。
 そのときは笑ってまたやり直す。

 踏みださなければ何も始めることが出来ない。印象すら残せない。
 時をロスった、くたびれたと、グチったとてこの身ひとつが財産のサラリーマンが、ほかに何が出来よう。
 誰が助けよう。

 助けるどころか、妬みだってあるかもしれない。
 メゲずただ執拗にねばり行うのみ。
 そうした繰り返しから多くを学んでは、力を付けて再三再四起きあがるしかない。
 諦めて退いてしまったら、それでお終い。
 何も無かったように、自分など存在していなかったようになるのだ。

 サラリーマンが肝に銘じるべきは、この世はこの自分が居なくとも充分まわるということだ。
 西部劇や時代劇のヒーローのように、はじめから必要とされる者などいない。

 今や首相だって大臣だって入れ替えは早い。滅多なことでは名前さえ覚えて貰えないのだ。
 たかがサラリーマン自分ごときを、買いかぶるべきではない。

 何でもかんでも消費され使い捨てられるのは早い。
 コーヒー自販機の紙コップはたった5分でポイだ。
 目にもとまらぬこの早さで使い捨てられる立場だと理解すべきだ。
 あんたが居なくても、誰も困りはしないのだ。

 だからこそ、そうした状況に嘆き逃げ出すことなく、ただぼんやり居座るわけにもゆかないではないか。

   ・

 そうしたことなど百も承知の、経験山積み世代の人でさえ。
 じつは我慢出来ないほどに、サラリーマン生活は辛いときがある。

 だから山のかなたの空遠くに、きっとこの自分だけを歓迎する幸いが棲むと思いたい気持ちも、分からないではないのである。
 一度は行ってみて、失望の路傍に立ちすくんで。
 涙ながして後悔しなければ、合点がゆかないものなのだ。
 それも修行だろう。

 今、国が再チャレンジやセーフティーネット、最低賃金底上げと言い交わしている。
 だが自分と家族はおのれの仕事、その稼ぎによってしか守れない。
 ということに変わりはない。

 誰にでも、なに不自由ない生活や天職を恵み与えてくれるような法も神も、この世にはないのである。



         <終わり>




・・・・
夢舟亭
・・・・

・・・・
夢舟亭
・・・・



[ページ先頭へ]   [夢舟亭 エッセイページへ]