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夢舟亭 エッセイ 2007/01/06 若さのこと (X-japan) 台風の長雨と、秋晴れの繰り返しのなかで、秋は日に日に深まっております。 すでに十月。 この月の月こそが、美月。 音楽の話などを。 そうねぇ。わたしにとって音楽ってファッションかしら。 生活に添えた花か、おつまみかな。 ふ〜んふふ〜んと、楽しい曲ならなーんでも好き。 というふうに音楽をいろいろ楽しんでいるものだ。 ところで好きなメロディーやリズム、音色、声音、雰囲気、響き、言葉が、人それぞれあるものだ。 それを、なぜ好きなんだろうと思ってみることはあまりない。 あまり意識しないけれど。 好きな理由があんがいあるのではないだろうか、と思う。 胎教ということも言われるように、生まれる前から、あるいはおぎゃあとこの世界にあらわれて。 親の教えや家庭環境によって。 または自我の目覚めのあと、もろもろの経験がきっかけになって。 無くて七癖に似て、意識することもなく見聞きして憶えて。 自分的音(楽)の感性なるものに刺激を与えて。 心のずーっと奥底に根付いて、芽生える。 そういうものが自分的な感性などとなって、好みを選んでいるのではないだろうか。 若い頃にモーツァルトの音楽作品に傾倒していたひとが。 大人になってあと不治の病に蝕まれていることが分かって。 そこからがらっと価値観が変わってしまって。 ピアノ伴奏の野口雨情の曲などの日本的な歌曲しか聴かないくなったりするが。 あの静かな語り歌にしか耳を傾けなくなったというその深層で、共鳴しているニホン的なものとは、本人にとってなんだろう。 またそれ以前のモーツァルトは、このひとにとって何んだったのか。 聴くこちらがわだけでなく、音楽を創るがわの人もまた。 自分的音楽観とか好みというものがあって当然だと思うのだ。 何か表現したいという思い。 何か言葉ではうまくいえないが、沸き上がってくるものがあろう。 湧いてきた自分的メロディーをより快いリズムにのせて表現したいとき。 喜怒哀楽の情を人声の男声女声、混声で。 太鼓叩いて笛吹いて。 元気いっぱいのマーチで。 たて琴つまびき、ほろほろと。 弓で擦る忍び泣きの音色にたくして。 壮絶なまでの叫びや、生きるつらさ。死別の悲しみ。 恋の切なさ、愛の喜び。 人生讃歌・・などなどを。 古来より、詩として生まれ、曲となって歌われてきた。 曲に込めた創作の心が、やがて魂の音として。 程度の差はあれ。 聴くがわの感性に共鳴したとき。 曲は生き物のように、作者から離れ、独立した命をもち。 思いもよらぬ時と空間を超えて。 人の皮膚から浸透して入り込み、体内の骨肉も心までを共鳴させるのではなかろうか。 そういうことに鋭敏な年ごろというのもある気がする。 ある晴れた日曜日の、朝。散歩をした。 近所の、若者が住む二階の部屋の開け放された窓から。 いつもと変わらず、若さあふれる音楽が流れていた。 私は幾分騒音的不快さを感じてみあげた。 とはいえ快晴の空に漂う、出来立ての酸素を胸いっぱい吸い込んだいなか生活に満足している私だ。 天候の良さに喜びも感じては不快さなど早々に退散してしまった。 澄みわたった碧空に向かって深呼吸をしてみる。 と、若者の部屋から、搾るような叫び声の歌が流れてきた。 その若者向けの歌、日本語の詞が、なぜかすーっと耳に入ってきた。 聞こえた言の葉、歌詞を私なりの勝手な解釈で聞き取ってみると・・ もう独りで(は、あまりにきびしくて)歩けない 時代の風が強すぎて (若い自分は)傷つくことなんて 慣れたはず だけど今は (お願いだから)このまま抱きしめて(いてほしい) (傷つき、ぼろぼろになって)濡れたままの心を (自分が着いて行けそうもない)変わり続けるこの時代に 変わらない愛があるなら 涙(を)受け止めて(ほしい) もう壊れそうな 溢れる想いだけが 激しく せつなく 時間を埋め尽くす(時代の過酷な)風が過ぎ去るまで また(涙が)溢れ出す ・・そうした歌詞のように聞いた。 なんとも辛い思いを歌っているではないか。 そういえば、男はつらいよ シリーズ映画の山田洋次監督が。 TV番組で「今の時代ほど若者に過酷な時代はないと思う」という。 選別、より分け、区分されて。そこからとり外される者の悲劇が蔓延しているというのだ。 また深夜の歓楽街で自主的に補導を続ける水谷という夜間高校の先生がいるが。 その人の行いを追ったドキュメンタリー番組で。 親など想像もできない精神的苦悩が、今子供を襲っていると言う。 昼の学校生活で徹底嫌われている側にいる多くの子供たち。 夜町で身を売ることでおカネとは別な自分の存在を受け入れてくれる大人を得たいのだという。 そこに自己の存在のせめてもの有用さを確めるのだという。 自室に帰れば腕にカミソリをあてて。 またはシンナーなど薬物を吸う。 それもまた同じく自分の存在の薄さを感じて、死の淵に立って確かめるのだと。 そういう悲痛な子どもたちの声が、親も知らぬ間に個室から毎晩何通も電話で届くという。 たしか作家五木寛之さんもまた。TVで語ったのには、今ほど人の心に厳しく心がすさんでしまう時代はない、ということを言っていた。 いやいや大人たちだって。40才定年といわれ出してもう何年になるのか。 採用35才上限と言われている。 50才を越えたなら、すでに無用な人間扱い。 70歳に近づけば、積んだはずの年金さえ白い目のなかで細々遣う。 自力で生きられないとなれば、クニのためですからと、なかば冗談で死へ誘うようだ。 公営の放送ニュースで不況対策といえば人員削減というリストラ。 そう聞いても。今、だれもその幾多の働く仲間が受ける悲哀に疑問も不満も批判もない。 その陰に裏に涙する人と家族の貧苦が待っているなどは、思い描く気も起きない。当然視というより、他人に気持ちを向ける余裕がないのだと思う。 何の保障もないアルバイトや派遣の仕事。 粗雑に扱われている人間の存在価値の薄さ。 物品同様の取り替え入れ替えのなかにもがいている。 権力や政略、産業保存優先の軋轢に押されて、ぷちゅ、とひと潰しされる小虫でしかない。 そういう時代的社会の軋轢の狭間で、若さというアンテナ感性によって感じらて見いだされたことを、歌に創られ、歌われていたということなのだろうか。 (せめてあなただけでも)このままそばにいて 夜明けに震える心を抱きしめて (こんな辛い社会は)全てが終わればいい 終りのないこの夜に 失うものなんて何もない (自分にあるのは)貴方だけ 風が過ぎ去るまで もう誰よりも(あなただけは)そばに(居てほしい) これ以上(私は)歩けない 教えて(ほしい) 生きる意味を 溢れる涙の中 輝く季節が(死ぬということで)永遠に変わるまで 時代の変化や波を敏感に察知することでは若いひとたちの感性は鋭い。 以上の曲は、「Forever Love」、永遠の愛とでもいえばよいのか。 X―japanが歌うこの曲は、信じるに足るものは愛しかない、と叫んでいるようなのだ。 それを失ったらもう生きて行けないと。 それを満たすべきは、最愛の人、恋人や友人。家族であり、兄弟や両親。 なのに今。 はたしてあの子もこの子も、「このまま抱きしめ」られてるのだろうか。 近所のあの窓辺から聞こえたX―japanのグループの振り絞るような演奏音。 そこに住むフリーターである若者の思いを代弁していたのかもしれない。 X―japanといえば、演奏グループ仲間の葬儀が行われた場に万人に及ぶ若者ファンが、長蛇の列をつくった。 その空撮ニュース映像があったのを思い出す。 今どきの若者は何を考えているか分からない。 いったいどこから集まったものか。 親や教師は知っているのだろうか。 などの大人の声がニュースに添えられていたものだ。 わたしも含めてわれら大人たちが眉をひそめたあのニュースだ。 あのとき映った話題のグループこそが、この曲を創り歌ったのだと聞いた。 こうした思いを歌って共感した若いファンたちの長い行列を思い出して、あらためて聴いてみれば。 その歌詞とメロディーは、今に生きる大人世代こそが共感できる現社会とこの時代を代弁している詩ではないか。 切ないまでの「今どきの人の心を歌う」曲だと思うがどうだろう。 その曲が、世を憂いる大人や、苦境のただ中にある大人たちの心に、とどかなかった……。 この溝を一般的に「世代の断絶」などというのだろう。 しかしよくよく歌を聞いてみれば、思いや考えの断絶ではないのだ。 言ってみれば、言葉や表現の仕方が異なるにすぎないのだ。 なぁんだ考えていることは同じなんだなぁと分かる。 「Forever Love」: 作詞 YOSHIKI / 作曲 YOSHIKI 演奏:X JAPAN 歌詞参考 http://www.xjapan.ne.jp/ 2004/10/03 記 |
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