・・・・ 夢舟亭 ・・・・ |
<この文章は商業的な意図をもって書かれたものではありません> 夢舟亭 エッセイ 2012年10月18日 中国映画「山の郵便配達」 三度ほど観たこの映画を、中国人作家のノーベル文学賞受賞のニュースで思い出した。 良い作品の常か、これも小説として原作があったものを1999年中国が映画化した。 背景となるのはその頃の中国、湖南省山岳地帯の郵便配達員の親子の話である。 現代の郵便配達というが、険しい山や谷伝いの人さえ滅多に通らない細道を縫って、村から村へと数日かけて歩きながらの、大変な仕事なのだ。クルマもバイクさえ走りようがない地形が連なる、中国の山間地域。 長年この道一筋に続けてきた父の誇る仕事を、働ける青年に達した一人息子が引き継ぐことになった。 その朝から話は始まる。 今回の配達地域は、三日がかりの徒歩の旅となる。 無理がたたって身体を痛め、定年退職までどうにか勤めあげた父親は、仕事上の細かな点までを息子に指示する。道順から道々の注意も、大切な郵便物の区分けや整理して背負い荷に包むことも。 そうして朝。息子は重い郵便物の荷を背にして、希望に眼を輝かせつつ田畑の小道を出立する。 庭先から、その後ろ姿を不安な思いで見送る父と母。 父親のこれまでの徒歩の旅にはいつも「次男坊」がいた。といっても、人間ではない。飼い慣らした愛犬のことだ。 今、新米配達員のわが息子を託すように、その犬の尻をたたき供に行けと促す。けれど犬は、なんで今日は父親が行かないのだ、なら自分も行かない、というように後戻りしてしまう。 その様子に、犬など行かないなら行かないでいいさ独りで平気だ、と息子は先へ急ぐ。 けれど、単独での山の配達行脚に、この犬は有用欠くべからざる役割があるのを重々承知している父親は、困ったやつ(犬)だと思案。けっきょく、犬が慣れる辺りまでと、旅に付き合うのだった。 こうして母独りをおいて、息子はこの仕事を退いた父と犬を供に、山岳地帯の村々をまわる郵便配達に向かうのだ。 中国の大自然のなかを生身二本足で歩く旅となれば、映しだされるのは山深い風景である。渓谷もあれば河もある。 中国の田舎であろうと郵便配達はれっきとしたお国の仕事、公務員職だ。 その名の仕事を始めた誇らしさもあって、息子の気持ちは弾み、若い足取りは軽い。遠地からの頼りを運んでやる配達員の自分を、村々ではさぞかし首をのばして歓迎してくれるだろうという自負の想像も湧く。 しかしはるばるたどり着いた最初の村に、人気はない。 拍子抜けする息子に、まさか大歓迎でも期待してたか、皆農作業で忙しいのさ、と父がいう。いまに「次男坊」の吠え声に、誰か駆けつけるだろう、と。 やがて父のいう通りに、現れた村人の一人へ、老いたわしは退職さ、今度からはこの息子が配達にくるのでよろしく、と頼む。 と、間もなくそのことを知った村人老も若きもが大勢集まってくる。 そして父親へこれまでの慰労と感謝をこめた言葉と笑顔を現し、見送るのだった。 父親は、おまえのことを歓迎しているのだよと照れを誤魔化し、陽に焼けた顔をほころばす。 こうして親の仕事の、言うにいえない多くのこと−−、それは配達先の人々との関係、郵便物に対する村人の思い、道中の険しさと死守すべき郵便物その対処法、果ては父母のなれそめまでを・・・ 幼いころの息子は、不在の日があまりに多かった父へは、なつけなかった。 その父の苦労を、目の当たりにすることで人生観や仕事観、そして人間観などといった父という一人の男の真の姿を、息子の眼と肌身そして心で理解し直すことになる。 父もまた、いつの間にこれほど成長し頼もしくなったのかと、息子を見直す旅となる。 親子二人が、この旅のどんな事態や人から、何を感じ思い出を生むことになるのか・・・観る私たちは追体験する。 山の郵便配達仕事始めの旅はこうした父子のロードムーヴィーなのである。 例により映画のストーリーを明かすことは控えたい。が、まずいえることは、欧米の文明色、ハイカラ作品に慣れているニッポン人には、この作品にかぎらず、アジア製のものには戸惑うことが少なくない。 とくにこの1時間半ほどの作品は、けして奇をてらったウケや、大立回りなどのシーンもなければ、虚仮威(こけおど)し的な騒ぎ声や演出はいっさい見られない。 だから数分に一度はジョークが飛びかうものに慣れた映画ファンは退屈し、飽きてしまうかもしれない。 いっぽう私などニッポンの東北に住む者にとっては、こういう田舎風景でも、充分世界に通用するストーリーが創造し描きうることを教えられる。 思えば、「人間関係を描いて人間が観る」のが映画というなら、人が住む地はすべて「映画の舞台になりうる」わけなのだが。 この作品は、親子、父と息子の新たな関係を築く旅だ。 男の子にとって、父親とは、生まれたときから存在する社会との間の安全柵であり、また成長にしたがって不自由の障壁である。 自力で乗り越えて自由を掴もうとすると開き難い扉として立ちはだかる。父親はそうあるべきだと思うのだ。 そうあればこそ、物心付くころからある種の不満を含む反抗心を父にぶつけるという、男の訓練をするのではないだろうか。その第一番目の相手が父だと思うが、どうだろう。 容易く通過できない不自由な傷害であればあるほど、容易くはない複雑な世との関わりの厳しさ険しさを、身をもって知ることになる。その一つひとつに立ち向かい、払いのけて生き抜く逞しさこそが身に付くと思うのだ。 口で言って分かるほど人間の子どもは物分かりが良いとは思えない。 そうして成長して己が生きる世の現実の凄まじさや、家庭をもち人の子の親としての苦労により、今度は父への不満抵抗の思いが感謝に変わる。 親のほうもまた、子の行い言動から成長を確認するたびに、手綱をゆるめつつ密かに喜ぶことが増える。そのころには頭も白く薄くなるわけだが・・・ 人の世は古今東西の別なく、時代背景や周囲を取り巻く物の違いや新旧の形は異なっても、基本的にアジアも西洋もさほど違いはないと気付く。 かくいう私も、かなり長い間欧米映画を眼にしてきたわけで、アジア作品という以前に日本映画、邦画に対しても、ダサいといった思いを隠せなかった。 そんな中とくにヨーロッパのカンヌやヴェネチアやベルリンの映画祭でアジア作品の受賞が目立つようになって以後、意識して観るようになった。 そうして観れば、今回ノーベル文学賞受賞作品の映画化「紅いコーリャン」や、同じチャンイーモウ監督の「あの子を探して」「初恋の来た道」。 ほかにも「北京バイオリン」「小さな中国のお針子」「ションヤンの酒屋(みせ)」ほか、本来好きな文学系の作品が見いだせた。 韓国映画にも、「おばあちゃんの家」「王の男」なども私的に味わい深いものがあった。 また例年のNHK主催の「NHKアジア・フィルム・フェスティバル」で紹介された多くのアジア作品にも印象深いものがあった。 こうして来て今、制作費と興行収益という欧米的な商業映画の評価人気度でアジア作品を選ばなくなったと感じている。もちろんこれは私的映画の評価基準だが。 衣食住生活物資が、街並みや建造物が、運輸交通機関ほかの「物」に溢れ埋まっ生きる社会ばかりではないアジア。そうした風景から生み出される多くの作品は、自然風景とその中に暮らす人間を、カメラが静かにしっかり撮り、描きだすことに専念する、 その点に気付き目ざめると、アジア映画はとっても興味深いものとなる。 やはり観る自分はアジアの住民ということなのか。 |
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