・・・・ 夢舟亭 ・・・・ |
文芸工房 紅い靴【小説】 2008/05/31 あんた ドアが開くと男が挨拶もなく入ってきた。 せまい店のなかに一瞬夕陽が差しこみ、カウンターの内と外で向かいあう女ふたりが、まぶしげにふり向いた。 「あーら、いらっしゃい」 声をかけたのはカウンターに肘をついていた若い方だ。 男は、ビール、と一声かけて、壁沿いの向かい合わせのテーブル席へゆく。 ビールの小瓶とコップそれに小品の皿を手早にそろえトレーに載せ、男が着いた椅子の隣に腰をおろす女。 「あんた、楽しそうね」 瓶を手に、さも冷たそうに小指をぴんと跳ねて握り、すり寄ると厚めな化粧顔を傾げる。 男は握ったコップに注がれて満ちるのを待つ。 突きあげて太い喉をならし、泡噴くコップをほぼ一息で空ける。 「ふぇー。うンめぇ」 でしょう、というふうな女の目。 男はその視線には合わさず、白く濡れた唇を腕でこすった。 底に残る白い泡のうえからまた注がれる。 二杯目を空ける。 コップの内がわを泡がゆっくり滑りおちる。 さぁもっと行こうよ、というふうに女は露わな白い腕で、残り少ない瓶をかざす。 男はそれを待たせてシャツの胸ポケットから、たばこの白い小箱を取りだす。 一本を引きだしてくわえ、小箱はテーブルに置く。 片方の目尻にしわをつくっては、二本指ではさみとる。 女は瓶を置くとプラスチックのライターを持ちだして、ひねる。 「ね。何か良いこと、有った」 それにも応えず、小さな炎に顔ごと寄せる。 吸って、点くと指ではさんだまま、薄汚れた手で鼻のあたまを掻く。 ふうと、白い息を前の空席に吹く。 別の手で空コップを持ちだすと、それに合わせて持ち換えた瓶から注ぐ女。 男は口にする前に乾杯ふうにかかげる。 琥珀色の液が白泡を上面いっぱいに押しあげている。 「良いこと、か。おれべっつに良いことなんて、無ぇな」 あおるように飲んでは、煙を吸う。すると白い息がぽかぽか吐きだされる。 「そぉお。良いこと無いっか」 空になった瓶をカウンターに向かって振る女。 カウンターには冷えて曇った瓶が、音もなく置かれる。 男から顔を反らさないで持ちに立った女は、次になにを問うか思案する。 男は、気のなさそうに、吐いた煙を眺めている。 「ね。オンナできた」 立ち動くと長い黒髪が顔にぱらぱらと掛かり、それを掻きあげる顔で真っ紅な唇がニッとわらう。 大きくもない目が細くなり、高くもない鼻がまるく膨らむ。 「オンナぁ。おれがか」 「うん。目っけた」 糸口をつかんだとばかりに繰り返す。 だが男は茶黒い瓶口から噴く冷気を物珍しげに見入る。 「あれぇ、まだぁ。ね、めっけらんなかったんだ。くー。あんたって、だめねぇ」 女は引き締まった尻でドンと男を押し、豊満な躯すべてを振動させておかしがる。 男はその気安さと、弾むような肉感にたじろぐ。 「おれ。おんな探しに競馬に行ってるわけじゃねぇからな」 鼻のあたまに浸みだした汗を腕でこすって口がとがらせる。 「おウマんとこへ、また行ったのぉ」 この話をもっと続けようと、目と言葉で引っぱる。 「行ったいった。んでもダーメ。ぜーんぜんだったぁ」 語尾で大げさに肩を落とす男の肌黒い顔に四角の歯が白い。 「あんたも好きよねぇ」 ケケケッとする。 「でもさ……」 「なんだよ」 「あんたみたいな人も居ないとねぇ……」 「つまんねえってか。前に来たときも、たしかそう言ったな」 持ちあげたコップを止めて女をちらり見する。 清潔とはいえないシャツの袖がつっぱって破れるほどに、肩から腕の筋が太い。 その手指で顎の辺りを二三度撫でる。いい加減な剃りの髭がじょりじょりとする。 「前に来たときもおなじく言ったっけ。ふふ。だーってそうじゃん。映画だってテレビだって、真面目なだけで面白くない俳優ってつまんないよ。あれ一番楽な役だと思わない」 言ってることが分からんと顔をひねる男。 「それにウチだって、真面目男ばっかしじゃ客増えないし、商売にならんもん」 うくくっと籠もった抑えわらい。それがすぐにプワーッと吹きだす。 胸元のふたつの膨らみがぶるんぷるんとする。 「えいっ。じゃぁおれは不真面目な、ただのカモか」 男は怒るふうに、タバコを灰皿に押しつぶす。 小皿の柿ピーをつまんで口に放り込み、カリポリ。健康的に飲みくだす。 「こう見えても、おれだって」 もうひとつの小皿には楊子が刺されたチーズ数切れ。つまみあげて裏も表もながめまわす。 「好きなの、居たけど」 言いたくないが口にした、というふうにチーズをふくみ、もぐっもぐっと噛む。 「そうか。居たこと有んだ。さぞいい女だったんだろね」 クックッと身をよじっておいて、垂れた髪を左右に振り払う。 「それってさ、釣り落とした、サカナだよね」 ひと差し指をまっすぐ伸ばして、男の鼻先でピンク長爪を上下。念をおすように言葉を区切る。 肩がむき出た薄服の胸元で、谷から二つの山にかけてぷるんとする。 「エッラそうに。おめえなんかとは」 「ぜーんぜん違うってわけ」 「ウソだと思ってんだろ」 薄い唇が尖がって目の玉がぎょろり。男はムキになってみせる。 女は前に垂れた髪の奥で、上目使いの二重まぶたに茶目っ気をあらわす。 だが男のふくれ面に向かうと細目になって、微笑む。 紅くぶ厚い唇が丸く弛むこの感じを、日ごろふと思いだしたりする男はさほど気にするはずもなく、憎めない。 「あんた、そんなふうにムキになるのって、可愛いね。ねぇ、ママ」 女がふり向いた先には壁に貼り付いたボトル棚がありカウンターがある。 間に黒いドレスの中年女が立つ。 背高でやせ形、面長。尖んがった鼻先と、あご。キッと結んだ唇。目の縁を青黒く濃くはね上げて。痩せた胸を反らすように背筋が伸びている。 腕を組み、ぴんと伸ばした指先でタバコをはさみ。すうっと唇にもってゆく。斜めに吹く煙は、細い。 若い女の問いかけに応じる素振りはなく、どうでもいいわようまくやんなさいというふうだ。 「ね。何か食べない」 気分をかえるように女は問う。 「いつもの」 聞こえたママは無言で隅の冷蔵庫を開ける。 「で、どんなンなの」 女は内輪話でもするように、ふっくらな腕を男の背にまわして、手先で肩をぱたぱたと叩く。 「どんなって、あいつか。あれは、ばかだ」 男は顔をゆがめる。 「あれぇ、ばかなのぉ」 白い丸顔の紅い唇がぽかっと開く。 「ああ。ばかもばか、大ばか。このおれを、見限りやがった」 男はコップに向かってばかの数だけうなずく。 「ばかって、どんな」 女は首を大きく振ると、指先で髪を耳の裏がわまで掻きあげた。太めの躯のわりに、首は細くうなじは白い。 「おれをコケにしたんだ」 「あんたを、見限ってコケにしたから、ばかか。ね、あんた。ふられたんだ」 「ふられた!? ふったのは、このおれの方だよ」 力む口調に合わせて、そうなのぉと接近する女。 垂れて頬に触れる黒髪がくすぐったい。男はぶるっとして壁際に離れる。 女は素知らぬふうにビール瓶を取るとまた躯ごと男に迫る。 男のよこ腹を女の胸の柔らかさがふんにゃと押す。 「分かったわかった。ふられないふられない。ふったのはあんたの方ね。さぁ飲め」 「そうだよ。ふったのはこのおれだ。分かってんのかぁ」 ぐぐーっとビールをあおる。 傾けすぎたコップと唇のすき間から洩れて柄もののシャツを濡らす。 女は白っぽいハンカチで男の不精髭の周りから下に拭きなでる。 「で、さぁ、その人。今どうなってるワケ」 「あのアホか。へっ、どっかのサラリーマンとくっ着いちまったぁ」 酔いが回ったふうに、投げやりな口調になる。 女は瓶を片手で持ち上げたまま、背を丸めると肩が小刻みに上下する。 「おお。可哀想ぉ。悲しい酒になっちゃったね」 クックックックとしてから、わらっちゃまずいなというふうに唇を隠す。そしてまた上目使いになる。 「ここ、わらう場合かぁ。客がカネ払ってわらわれちゃ合わねぇよ。いやな店の馴染みになったな、おれ」 「いやな店で悪かったね」 息が耳に吹きあたるほど間近でいうと、またクククっとする。 その度にわき腹の柔らかさが押しては退く。 「悪いと思ったら、まけとけよ」 「よく言うわ。でもさ。あんたってどんなタイプなんだろ」 「タイプ。おれの好みか」 素面の者にはちょっと言いずらいなぁと、瓶をもぎ取って女にさし向ける。 女は了解してコップと新しい瓶とを手にしてきては、はち切れるような腰をまた下ろす。 「あんたの、その人ってどんななのさぁ」 注そがれると、ちょっとだけ口を濡らす。 そして男の肩にあごをのせて問う。 長い髪がまた男の頬をなでる。 「ベラベラベラベラってうるっせえ女はいやだな。清純、物静かなのがいい。太ってねえでさ」 「はいはい。やせ形ね」 女はわらいを無くして身を退く。 腕を男の肩から椅子の背もたれまで退く。 「あいつは、見るからに賢そうで。わらうとタレントの、ん…何んてったっけな。あれに似てんだぁ」 「賢い!? ね、それ女の魅力」 「あったりめぇ。ばっか笑いの女なんて、魅力ねぇもの」 男は、さもしてやったりというふうに顎を反らす。コップを薄暗い灯に透かして、乾杯の体でいる。 「言ってくれるなぁ。そりゃ、あたしはさ」 女は男から距離を空けて、腕を胸で組み、真ん前を向く。 ふっくらとした白い両膝を組むと、豊かなゆえに隠しきれない白い肢体を無理にも覆うつもりで、短いスカートのすそを引っ張っぱる。 男は隣のその動作を見まいとして目線をあげる。 「あたしだって、居たんだ」 「い、居た。何が居たんだ」 「オトコさ。当然じゃん」 「へえ。おめぇにね」 コップの底から湧きあがる泡の粒つぶを数えるようにかかげて、口だけで驚く。 と、丸い厚化粧の眉間に、たてのしわが不満そうに寄る。 「そぉよ。カッコいい、センパイ。エレブンのエース」 こちらもあんたとなんか全然違うんだというふうに、顎をひいては隣を見下す。 女が語を強めるたびに白く伸びた足の股がもりもりとはみ出す。 「エレブン!? あぁサッカーか。先輩ね。そいつ頭良いか」 「アタマぁ。男はね、頭じゃないよ。あんたさぁアタマとかカシコイとか、ヤだなぁ。女はお色気。男は強さ。力、男らしさよ」 身を乗り出して白い肘をくの字に曲げ、男の鼻先に突き立てる。 「チカラ!?」 「そぉ。頼もしさ。頼り甲斐とか、逞しさじゃん。へなちょこ男なんてなぁんの役にも立たないの。なにがあたまよ」 女は顔をひねって腰でにじり寄り、男の頬にピンクの指先を上下する。 歪んだり尖ったり変化する紅い唇が、薄暗い店内でちょっと悩ましい。 「あんた男でしょ。大丈夫なのぉ。しっかりしなっきゃ」 男の膝をぎゅっとひねる。 あやうく飛びあがるほどの痛さを、どうにか我慢した男は、そのあと気持ちがいっぺん弛んで肩をおとす。 「おれさぁ。小せぇ頃からばかだったもんでな。頭のいいヤツに弱いんだよぉ」 男は首をうなだれて、いっそう肩をつぼめ、側頭をぴしゃっと叩いてみせる。 「おまえんとこの学校どうだったかな。おれの田舎は、テストの点数の良い順に、名前をばーっと掲示しやがった。尻っぺのおれなんてぜーんぜん間違っても貼られねぇ」 「貼られない!? あんたの名前なんで無いの」 「頭から五十番までしか貼んねぇから。あとは問題外ってこと」 「生徒、何人居たの」 「全部で学年三百かな……忘れた。かなり居た。でもあいつは、十番目よりいつも上。いつもだ。あたま良いんだから」 「いつも、か」 「そう。いつも。一つでも順番下がると悔しそうにして隅で唇噛んで。震えながら壁にらんでた」 「へーい」 「良い所のお嬢さんだもんな。頭の悪りぃおれなんてぜんぜん見向きもされんかった。一等賞の秀才野郎だけが相手になって慰めてた」 「ぷっ。見向きもされなかったはイイや。あんた暗い酒だねぇ」 落ち込んだ雰囲気を吹き飛ばすように、女は膝にのせていた瓶を持ちあげ、むき出しの肩でさぁさぁと男をこずく。 酔って鈍ったか、男は感知せずの無反応で、うなだれたまま。 「中学のときに。セーラー服に髪が長くて。赤いカバンかなんか下げちゃって。おれの隣の席だったもんでさ。お早うって、えくぼがぺこ。おれ参っちゃってさぁ」 あーぁと見上げた男の唇は締まりがない。 「中学からねぇ」 半ばあきれた女は、両手で瓶を握り持てあましながら、まじまじと男の横顔を見る。 今もなのかと、お義理で傾いで覗き、訊きかえす女。 ああそうだとうなずく男。 酔いは本物かもしれないと思いつつ、そうかぁとうなずいてやる。 「ずーっとだって言ったろ」 「ばっかね」 いい歳してつまんないこと言ってないで、さぁ飲みなさいと置かれて手つかずのコップを、瓶の口でたたく。 「目ン玉がぁ大っきくて。くりくりっとわらって……」 テーブルで泡が溢れるコップをただ握って、深いため息ひとつ。 「あたまがいいその人を、今も好きってわけか」 「そういうこと。んでもあいつはけーっきょく、頭良いヤツんとこへ行ったぁ」 「あんたは、あたま、ダメか」 この客ちょっとシンドいなというふうに、カウンターの女に目配せする。 私は知らないよと反らす目線が突き放している。 女は首をひねって髪を後ろに回し、手首の時計を確かめる。と、もういっちょう行くかとばかりに、泡の消えた自分のコップをあおる。 「でも……おれ、がき大将だったから。あたまはだめだけど力は有ったから」 「えっ!?」 女は目をしばく。 「だれにも、あいつを、いじめさせなかった……」 何んの話しよと、顔をしかめて口元のコップを止める。 男はろれつも怪しく、しどろもどろに続ける。 「分かんねえかな。このおれがな、この腕でよ、守ったってことだよ。おめえ言ったろ。男はちからだって。あれだよ」 「守ったぁ。その腕でお姫様を守ったか。ぷっ。かわいいこと言うね。あんたって、武士ねぇ」 「武士!? おれは騎士だ。ナイトだ。二十歳過ぎてからだって、なんかかんか相談にのってやったし」 「相談!? どんな」 「たとえばクルマの免許とるのに、教習所通い途中ハンパにして、おれが付きっきりで教えたり。その方が安いし早いだろ」 「へー」 「それから……あいつんチの改築。大工や建具屋とか左官に掛け合ってやったり。おれそういう知り合い多いから」 「……」 「あいつの親父、事業に失敗して死んじまった。だから男手が無ぇんで何かとな」 「助けてあげたんだ。あんたエライんだね。やっぱり武士ね」 「だっから騎士だよ。何てったって……おれ好きだったし」 寄りそっていた躯を離してしかと見つめる女は、ちょっとほろり気分。 「マジで結婚したかったんだね」 「でも、あっさり断わられた」 「あちらは嫌いだったてワケか」 「ちがうって。嫌いでねぇって。まだ好きになってなかっただけなんだ」 「おんなしじゃない。なに言ってんのぉ」 女は屈んで口をおさえるとクックッと躯がふるえる。その動きで髪が垂れる。 「好きでも嫌いでもない。友達で居ようって言って、どっかの優等生ンとこへ嫁いじまった。何とか大学で……一流ってとこだって。優秀な成績で立派に卒業したって。結婚式でそう言ったってよ」 「あんたばっかねぇ。結婚式って、あほでもばかでもそう言うのっ」 「おれ、一流の男を見に行った。よく分かんねえけど……おれとはここが違うような気がした。そう思ったんだ」 男は、飲むつもりもなく持ったコップを、頭にこつんこつんとぶつける。 そのたびにかぽんとこぼれて、陽灼けちぢれた髪を濡らす。 「やっパ、おれはばかだから、どうしようもねえってことさ」 「だからあんた、アタマあたまって言うワケか」 「だってガッコに通って分かったことはよ。おれはばかだってことだからな」 母親にでもなったように男の髪や膝を拭きこする。 そのハンカチをしばらく拡げたり畳んだりしていた女は、泡の消えたビールをにがそうに飲み空けると真顔になった。 「あたしの方はね……」 話そうかよそうかと男の様子をうかがう。 「三年前」 「三年前!? なにが」 面倒くさそうに女をちらりと見る。 「ほら言ったじゃん。センパイ。別れたの。かっこ良い人よぉ」 ふふっとしてから、ちょっと首をひっこめる。 男の無関心な反応に眉を寄せて、膝のハンカチに目を落とし、唇を結んだ。 その表情に、男は仕方なしで問う。 「カッコいいって……どんなだよ」 「高校なんてろくに行かないで。辞めちゃったんだよね。だって中学の頃から、先生たち怖くて、近寄らない。大人は誰も声かけられなかったんだ」 「不良かぁ。グレたのか」 「違うよ。あの人の家、親が悪いの」 男をキッとにらむ。 「家のひとが悪いって。どう悪い」 「あの人、町医者の息子なんだ。ひとり息子。サッカーが好きでさ」 長い髪に指を二本通すと、目の前で何度も擦り下ろし、それを目で追う。 「医者の息子か。良い家のコじゃん。医者って儲かるだろう。カネ持ちが何んで不満なんだ」 「それがね。勉強べんきょうなのよ、小さいうちから。毎日まいにち。寝ても起きても良い学校へ。医者になれ。病院継げ。あのひとの将来のギムなの」 「いいんじゃねぇの」 「サッカーなんて辞めろって。だから親父をぶんなぐった。気違いになりそうだったんだ、あのひと」 髪を撫で下ろしていた手を止めて声を搾って、上半身で迫り、訴える。 組んだ足が露わにはみ出して広がる。それをまた引っ張って覆う。 「ただの家庭内暴力だな。まあおれから見ると贅沢な話だ」 「贅沢なんかじゃないよ。かわいそうなの」 「そーんなもんかね」 男は顎でせせらわらった。 「あんたさ。子どもんときに毎日遊ぶ暇なかったぁ。机にしがみつくこと出来たぁ」 「ハハハーだ。このおれに訊くな。真面目でねぇ不良だからここに来るって言ったの、誰だ」 男は落ち込み気分もわすれて、大口開けて肩を振るわす。 「ホントはね。あのひと医者に成れる能力有るんだ。でも親の期待重かった。今何してると思う。二十歳前で組織に出入り。今ヤクザの顔役。人生狂ったんだな。身体は大っきいし。鼻は高く通って、顔は良いし。肩で風きって。元気か、なーんて言われてみな。もうあったし、たまんなかったんだぁ」 鼻をすすると、わらいたそうで切なげだ。 「で、おまえ、付き合ったのか。そいつと」 「あたしの…へへ、…最初のひと」 「へーえ。じゃあ……」 「あたし。このボディ自信有ったんだ。顔は自信無いけどさ」 女は男の肩につかまりながら立ち上がる。 片手をくびれた腰において左右に振ってみせる。 髪を後ろにあおってウインク。と、舌をべーっと出す。 反らした胸では、溢れそうなふたつの膨らみも上下左右に揺れる。 男は、へいへいとはやし立てる。 目を細めてその起伏をながめ上げる。と、ビールも飲まずに喉がゴクリとなる。 「子どものころから、道歩いてるとクルマの運チャンの視線感じてたし」 「視線!? あれ子どもに判るの」 「クー、いやらしい。あんたも運転のときでれーっと見てんのぉ。女の子って小学生だって判るだから。女はね、後ろにも横にも目が有んだよ。エッチなやつってすぐ分かるの」 鼻の周りにしわ寄せると、可笑しくて嬉しそうに、目を細くした。 「ふーん。そんなものかね」 「あのひと。喜んでくれた。ふふ、可愛いがってくれて。でもさ……それ以上の気持ち、ムリだったみたい」 「ん!? 何だぁ。おめえ、乗り逃げされたの」 「乗り逃げぇ。何言ってるの。そういうのと違うよ。あたしがね、あげたの」 「あげたぁ。言いようだよな。乗り逃げだろ」 あっはっはと両手で膝を打つ男。 「何よぉ。わらうことないじゃないの。失礼しちゃうなぁ。あんたデリカシーないの。マジな愛情の話だよ」 「デリカシー、アイジョウ。何言ってんだか。ヤクザの兄ちゃんとヤッただけのことだろ。何が愛情だよ。おれの神聖な話とは違い過ぎるよ」 「えぇ。あんた言ってくれるね。ふん。何がシンセイだよ。あんたのなんか、間抜けな男がカマトト女に、適当にあしらわれただけじゃん」 「何だとぉ。このヤロウー。客に間抜けはねぇだろ。色仕掛けで男をタラし込みやがったクセに。それはインラン女のたわごとさ」 「インラン。あたしがぁ。じゃあおまえはなんだ。何にもできないインポ野郎。マドンナの前でオッ立たなかったんだろ。だらしない。客でなきゃ蹴飛ばしてやるのに」 「おう。やれるもんならやってみな。デカパイが邪魔になって、重いケツで、動けねぇだろ。ハハーだ。夕べは誰にあげたんだ」 「うっるさーい! あんた帰れ。さあとっとと帰れかえれ」 「ああ、帰るとも。へっ。なんだ一人前に。インラ〜ン」 ひょいと立ち上がってベーと舌を出す。とドアに向かって小走り。 「ばッかヤロー」 男がドアノブに手をかけた瞬間。ガッシャーン。 女が放ったコップが、ドアにぶつかった。 正月の獅子舞いでもあるかのように顔を赤くして唸り、目を剥く。 テーブルにあったビール瓶をひっつかむ。 出ていってしまった男を、追うかどうかとしばし思案。その勢いでラッパ飲みする。 頬がぶくっとふくらんで、つぎに喉がゴクッ。 牙を出しそうなほど息を荒げて肩の上下が収まらない。 と、入口のドアが音もなく開く。 ばさばさ髪と陽灼けた顔が、横に突きでた。 「インランおんなぁ」 「まだ居たのかぁ。欲求不満ヤロォー!」 ビール瓶を握りつかみ、躯に細すぎる短いスカートの裾を引き上げ、腰を振りふり出口に向かった。 店内の空気がわさっとばかりに圧される勢いで、ノブを引く。 驚いてふり向く男を見定めると、瓶を頭上に振りかぶる。瓶のビール液がこぼれ、肩から胸元そして腹部へと流れおちる。 「とっとと帰って、マスかいて寝ちまえーっ」 力いっぱい振り下ろす。 瓶は狭い裏通りの先に、泡噴きながら回転して飛んだ。 すぐに暗い路上に砕け散り、泡が一面を濡らした。 かろうじて避けた男。 「マジかぁ。客に何すんだぁ」 ほかに投げつける物はないかと次を探している女めがけて駆け寄ると、男は万歳の姿勢に両腕を押さえつける。 路地を行く中年男二人が、ばかやろう、あほかと、散った欠片を避けて通る。 「止めろって。悪かった。謝る」 「放せ。スケベ。放せって」 頭を振るたびに髪が後ろ前に振りばらける。 「ちょっと。あなた。もういい加減になさい」 二人は動きを止めてふり向く。 ドアを後ろ手にしてすっくと立っているのは、ママ。 胸で手を組んで。タバコをはさんだ指を、ここでも斜めから口元に持っていく。 女を押さえていた手を、ロープに追いつめたレスリングの選手が相手を離すように、慎重に弛める。 と、女はワーっと泣き出して身をよじった。男の胸板を叩きはじめる。 するに任せている男には、あたしだってと聞きとれた。 されるがままにして、暫くの後。 静かに顔をあげる女。 それを見届けたママは、誰も居ない店のなかに戻る。 またカウンターに立って、手を組み。長い指でタバコを吸う。 眉一つ動かさず、煙を細く吹いた。 男はまた暴れやしないかと少しずつ、路地を後ずさる。 二歩か三歩離れると向きなおり、粉々に割れた破片を避けながら、つま先で抜き足差し足。 「ね。あんた」 「ん!?」 男はつま先歩きを止めて、ゆーっくり上体をひねる。 「ねぇ。あんたさぁ」 「うむ」 女は人指し指で付けまつ毛を押えると、ばらけた長い髪を両手で後ろにひっつめる。 「あんたの女さ」 「おれの、おんな」 「賢いひとのこと」 女はママが立ったとおなじドアのところまで戻って、両手を後ろにしたまま背で寄り掛かる。 「あぁ。ふられた話な」 「そんな女。忘れっちまいなよ」 「なに言ってんだ」 「大した女じゃないよ」 「なんで」 「あんた……ワルい男じゃない。善いひとだよ」 「おれが」 「うん。いいひとよあんた。それ判んない女なんて、大したことない。忘れっちまいな」 鼻をすするとドアから一歩前に出て、男の顔を見つめる。 路地裏の両がわには小さな飲み屋が、軒にうす灯りを点してならんでいる。 そこへ風が一吹き。女の髪が吹かれて、また顔に首に絡みつく。 独りあばれて、肌まで濡れて衣服がへばりつく胸のふくらみを、手の平でへこむほど押さえた。 垂れた髪のなかから顎をぐっと突きだし、選手宣誓でもするように言い放った。 「男はさ。アタマなんかどうでもいいよ。ここよ、ここ」 「男は……気持ちか」 「そう。ハート」 男は、まずは波乱は収まったというように、ふーっと一呼吸。 その後、ふふふっと照れてから夜空を見あげた。 冗談のつもりが思わぬ興奮を生んでしまったそこまでの状況を、リセットするように頭を二三度掻きむしった。 「おめぇも……というかあんたもさ。あんただって別に悪い女ってことはねぇさ。良い女だ。だから、つまらん男は忘れちまえ」 成り行きで言ってしまって照れたか、足下の瓶の破片のひとつを蹴った。 路地の向こうに飛んで、電柱にカチンとあたる。 「ふふっ。そうぉ」 「そうだよ。何んて言うか。女のあのいちばーん大切なもの貰っちまって。それで平気で捨てる様な奴、ぜんぜんカッコ良くなんかねぇ。気持ち腐ってる」 男は分厚い胸板を手のひらでバンと叩いた。 「そうだね」 「あぁ、そうさ。あったり前じゃん。五十番にならなかったおれでもそのくらいのケジメは、分かる」 男は言い切る。 そして通りの先に向き直った。 今度はおよび腰歩きではない。 割れガラスなど気にもせず、胸を反らしてバリッバリッと踏みつぶして。真っ直ぐに行く。 いつもながら人通りの少ない飲み屋のこの小道。 そのずーっと向こうの闇には、赤や青いネオンの大きいのや小さい光の帯が、チカチカピカピカとまばたいている。 街路灯の薄明かりが、行く男の影を長く引いて映す。 女はその影が闇に吸いとられるまで見送っていた。 と、女はその闇の先に向かって踏みだした。 両手を口元に持っていくと、おもいっきり息を吸い込んだ。 「あんたさぁ。ばかなんかじゃないよぉ」 女の声は、暗く高く立ちはだかるビルとビルの谷間に、三度こだました。 それもすぐに吸い込まれてしまってまた裏通りに静けさが戻った。 − おしまい − 作:1993年4月 修:2008年5月 |
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