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夢舟亭
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エッセイ 2005年12月29日


     「音」を楽しむ人々(オーディオファン)


「音楽をよく聴きます」と一口に言われてもジャンルは広く、戸惑うものです。
 ジャズ、シャンソン、カンツォーネ。
 アメリカンポップス、フォーク、、ロック。
 ヨーロピアンポップス。
 ラテン、タンゴ、マンボ、ハワイアン。
 歌謡は演歌にj-ポップ。
 民謡・・ときりがない。

 ジャズと一口に言っても。
 アフリカ系アメリカ人にルーツがある音楽と言ってみても。
 これがまたその年代の変遷により演奏スタイルの多いこと。
  ニューオーリーンズ・ジャズとかディキシーランド・ジャズとか。
  スウィングからモダン。いわゆるビバップ。
  クールあるいはウエストコーストだとかハードバップだとか。
  ファンキー、ソウル、フリー。
  アフロ・キューバン、ラテン・ジャズ 、ボサノヴァ。
  クロスオーヴァー 、フュージョン・・。
 あぁ、ジャのズは多岐に渡って際限なくこれからも拡がるだろう発展途上の音楽らしい。
 すでに何世代かの変化を越えて、多くの軽音楽ポップスに影響を与えて、リズムをリードしてきた。
 同じように世界の音楽は種々枝分かれしているようだ。

 だから「音楽を聴く」といっても、どれをどのくらい聴くのか。簡単に言い交わせない。
 とくに好みがあるとなると、特定されたそれを了解するには聴いてみるしかない。

 ポップなものは作者も演奏者の国籍も、歴史が浅いだけに特定できる。
 だがクラシックとなれば、古今東西世界に作曲者が点在している。そしてなにより楽譜を同じくして、世界中で演奏され録られている。

 もっともそういう古典的作品の年代などさかのぼることがまた聴く楽しみなのだ。
 時代背景や歴史につれて音楽そのものが変わってきているのを味わえるのだ。
 誰の、何が、お好きですか? と音楽ファンの対人関係が始まったりする。

 ジャンルの広さに迷うのもまた音楽を聴く楽しみである。
 どんなものを聴かれますか? と問いつつ交わすことで、意外な音楽を知り、好み愛聴の曲が増える。
 そして好きな者同士がまた語り合うことになる。
 作曲者のこと、演奏者の特徴、別な曲、曲に対する考えやエピソードなどなど。
 これこそが音楽を聴く楽しさだと思うのだ。

 そうした会話の中で意外に多いのが、販売会社やレコーディングや録音状態や音質程度など。
 なかにはそのレコードやCD製作企画のプロデューサー名や録音エンジニア、あるいは録音スタジオや機材まで論じる人が居るのだ。

 なにせ現代の音楽環境は必ずしもコンサートステージではない鑑賞がほとんどだ。
 つまり録音や録画されたもの、つまり電子的媒体を介在した再現音楽を楽しむ場合がほとんどだろう。

 録音という過程は、その始めはマイクロフォン、つまり音を電気信号に変える機器からはじまる。
 この種類や設置位置によって、私たちが耳にすることになる音はかなり違う「という」。
 また録音は記録でもあって、録音年代、つまり演奏者の年齢によって音も演奏も違って聞こえることになる、と「いわれる」。

「いわれる」と書いたが、音楽を源にして「音」を楽しむ人たちの会話ではそういうことが頻繁に交わされる。
 音を楽しむ、というよりも「音にこだわる」というべき人たちだろうか。
 そして、こだわる「良い音」とは、元の音に似た正確で生々しい音、という意味だ。
 良い音で音楽を聴きたい、という思いに取り憑かれた音楽ファン。
 通称オーディオマニア。最近ではオーディオファイルと言うべきらしい。

 1980年ごろ世に現れたCD(コンパクト・ディスク)で音楽を聴くのが、今では普通になった。
 その以前に演奏を録られてレコード盤で売られた古いものも、今コンピュータ処理によってまるで剥げ落ちた絵画の色を修正するように、綺麗な音に磨いてCDになって売られている。
 すでに演奏者は他界しているのにCD時代の演奏家の録音の様に生々しい音に生まれ変わっているのだ。
 今のそうした技術をもって、雑音など見事に消滅してしまう現実を私も耳にした。

 ところが音楽ファンという人種は面白いもので、昔の雑音を含むままの方が、自然で良いのだ、などと言ったりする。
 わざわざ古いレコード盤を探し求めては、ザラザラという雑音混じりの音に高額な代価支払って惜しまない。


 私はそういう話を聞くとなぁ〜んとも嬉しくなる。
 古めかしいレコードの黒盤を手に、友人や家族相手に悦に入った狂人的御仁の得意顔が見えそうではありませんか。

 余計な事は一切排除した効率至上主義の世の中で、無駄でばかばかしいほどの、無理とも無駄とも思えることを承知で、こだわる。
 そういう余裕というかゆとりに、微笑ましくも楽しくも感じるのは私だけでしょうか。
 おっ!? 居た居た。ここに人間くさい方がと、微笑みがこぼれるのです。

 そういう私など、レコード盤はゴミやカビ取りや盤面磨き手入れを思うだけで気持ちが疲れてしまう。
 だから今ではレコードプレーヤーは一切使わないで、棚上げのまま。
 CDの手軽な扱いと機器操作のし易さを一度憶えてしまったら、レコード盤とカートリッジ・ピックアップ針先の汚れに気づかう苦労に戻ろうとは思わない。
 音楽好きの人にそんなことを言ったら、それは真の音楽ファンではありませんな、と言われそうです。


 そのCDですが、レコードの音と違って甲高い音がキンキンするからいやだという意見を読んだことがあります。

 CDの原理的に考えればその意見の人の耳は正確なのだそうです。
 CDに記録される音は、唸る音や風圧の様な低い音から、耳を刺すほどの針先の様な高音まで、録って再現できる音域はレコードを凌いでいるという。

 音域もそうだが、記録された音を正確に拾い出して音に換えるという仕組みも、CDの精度は、レコード針がレコードの微細な溝を機械的な動きとしてなぞる動作の及ぶところではないという。

 CDは極細でマイクロな点の有無をレーザー光で読みとる。
 記録される点、音(楽)情報は、数値(デジタル符号)に変換してCD面に書き込まれている。
 デジタル符号とは、音楽の瞬間しゅんかんを、時間的に分解する。
 その時々の音の量を数値に換える。
 そこで50となれば50と書き込まれる。
 ここが肝心なのだが、50は48でも49でも51でもない。

 50は、50と読むほかない。
 50と読めなければ再度読むか、読めないと判断してしまう。
 中途半端であいまいに誤魔化して読むことがない。つまりいやでも50しか再現されない。
 ここがいわゆる「デジタル」な堅さであり、正確さなのだ、という。
 ということは、CD方式の正確さは私の性格とは、かなり違う。

 その点旧来のレコード盤を聴くときは、レコード盤面に刻まれた細い溝をなぞるカートリッジ。その針先の動きは、どうしてもあいまいになる。
 微なる溝の中で、溝に従って追従する左右蛇行の揺れとして、刻み記録されたレコード盤面の音を拾う。
 こうかな、こうだね、と針先が溝を追って行くそのあいまいな感じ。
 それがいわゆるアナログ。
 この左右の揺れの程度をどれほど正確になぞることが出来るか。が記録されたレコード音の再現の精度ということになる。
 この気分的であいまい感のある、まあいいか、かのレコード盤。アナログ。
 50は絶対に50以外ではありえません、という仕組みのCD。デジタル。

 こうした再現精度の差こそが、「音にこだわる」方々の耳を喜ばせられるかどうかの度合いを決定づけている。


 デジタルが光の精度なら、アナログ方式は機械メカ式。
 アナログ方式で精度を追い求めようとすると、精密になぞる高い性能の機械が必要。
 つまりそれ相当のお金と調整能力を要するらしい。
 だから私などはアナログ方式のレコードでは、もはや不安で音楽に没頭できない。

 とはいえ、どの道にも楽しむ人、道楽者がいる。
 その苦労こそが楽しみだと、にんまりする人たち。
 これが真のオーディオファイルですね。

 もうこういう方々ともなると、なかにはお部屋まで音楽を聴くために、響きにこだわって大改造のリフォームに及ぶから大変。
 まるでホールか放送スタジオのように、防音や反響防止の処置を徹底施す。
 で、夜な夜な大音響とともに独り狂喜している、らしい。
 そこでは先ほどの古盤レコードも登場することでしょう。

 さて、楽チンのCD鑑賞、とは言ったが・・
 実はそこにもオーディオをマニアックに凝り楽しむだけの隙間というか、余地というか、面白さがあるのだ。と言うから話はまた分からなくなって困る。

 音楽の時間的流れなかの、ある時点瞬間の音50を、正確に50と読み出したら。
 50の音を出すしかないではないか。
 それがちゃんと読みとって出せる仕組みがあれば、もう何も要らないではないか。

 ほかにどんな手を加える必要も無いはずでしょう?
 私などはそう思うのです。

 だがしかし。
 光でデジタル数値を読んで、それに見合った音に換えるだけだと思ったのに。それだけの音の事なのに。
 いやいやそれほどシンプルな仕組みではないのですよ、という。

 つまり、良い音で音楽を楽しむための手練手管ノウハウ、術、技量、才覚、手腕、方法は、まだまだほかに有って。
 そのちょっとした知識と実践による改良で、すっゴく音は変わるのだとか。

 シンプルにあらず、という音響装置の複雑さゆえに、注いだ研究や努力と苦労、買い集めた装置の価格お金の差として。
 再現される音の質、正確さの違いは、聴く者にとって雲泥の差として感じられる、と申されますなぁ。

 これが同じモーツアァルトのシンフォニーの演奏かいな、と思うほどに迫真の音が再現されるというのです。
 それはまるでアバド指揮するベルリンフィルが、マゼール指揮のウィーンフィルかが、ほら眼前に居るようでしょう。と。

 そんな風に聞こえる装置設備、そしてお部屋をお持ちのマニアが、多数居られて。
 日夜その音質の向上のために、入れ替え向きを変え、汗流しては精進なさっている様なのですねぇ。

 たとえば・・
 ときには引きまわした電線や接続の線類に足を引っかけ、首に絡み付け。
 装置の触れてはいけない部分に感電して。
 またあるときは洋服ダンスのごとき装置に押しつぶされ。寝場所をうばわれ。
 山のようなレコードやCDの置き場に困ると嘆く家人を説得しつつ、闘いながら。
 代価のローンに悲鳴を上げる奥様の声にもメゲず。
 震度5をも超える家ごとの揺さぶり振動の大音響に不平湧く近所のささやきを、ものともせず。
 猫が触れ、子供がさわったと言いつつ装置の位置角度を整えて。その装置に耳を傾け首をひねって。

 さらにいっそうの熱をもてば・・
 社会の喧騒の、信頼性の崩壊だとか犯罪の低年齢化とか。
 次期総裁がだれだとか。
 自殺者が昨年より多いとか。
 中国と靖国の関係だとか。
 アメリカとイラクの問題や、フランスの差別騒ぎだとか、EUとトルコがどうなるとか。
 野菜値上がりとか、デフレや消費動向だとか、2007年問題が何だとか・・。
 そういういっさいに貸す耳など持ち合わせずに。

 デジタル地上波テレビだとか携帯配信音楽などと聞くと、鼻先で笑って。
 ニューオリンズのハリケーン被害の話と聞くと、誰のジャズ新曲かと真顔で訊き。
 などなど・・。

 音楽を聴く、と一言で言っても同じジャンルを楽しむと言いながらも。
 かように音を浴びて埋まって、楽しみ(実は苦しみ)の中にある人が。
 この社会にはかなり居るのだという、羨ましくも悔しいオーディオ道探求者のお話でした。

 従って、もうこの先は、アナログな私のごとき無精者が云々出来る話ではないのであり



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夢舟亭
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夢舟亭
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