<この文章は商業的な意図をもって書かれたものではありません>
文芸工房 紅い靴 エッセイ
2005年12月03日
義経・弁慶・勧進帳
1年の最後の月、12月。
その14日といえば、ニホン人にとって最大にして最高のロングランである、47名の浪人武士の話があります。
忠臣蔵、赤穂浪士。赤穂の「義士」とまで讃えられて300年ほどのあのお話。
大河ドラマやオールスター出演劇の定番でもある。
世人の目をあざむき陰に忍んで、やっとの思いで示した行動、仇討ち。
それに心の輝きを見て取った江戸市民が拍手を送った。
以来多くのニホン人の涙さえも搾り続けてきました。
書物に、歌舞伎や浄瑠璃、浪曲講談、落語、芝居に、歌に、映画にドラマに。
戦後の一時期、戦勝国アメリカに禁止されたのに未だ当たり出し物として健在なのです。
意味するものに賛否もろもろご意見は有りましょう。
それはともかく、ニホン人に感動を与え続けていることはたしか。
やはり人ってものは、カネ儲けの名手へより、こうした心意気に拍手を送るもののようです。
自国ニホンの話は、なぜか欧米の物語から比べると地味で爺臭いと嫌う若者もあるようです。
ですが歳50にもなれば、自国に根をもった物語には心が響くものを感じるようです。
ニッポンの素晴らしさを「勤勉でクルマや電子機器を大量に造る国」としてしか見られない悲しさを感じることは多い。
だがなかなかどうして、この国の歴史や文化はそれほどに乏しく精神が幼い国ではないのであります。
もっともっと多様な文化の堆積があって、ここ数十年の工業物産であるクルマなどを寄せ付けない質と分厚さを感じるものがあるです。
さて前置きが長くなりましたが・・
歌舞伎やお芝居そして映画やテレビのドラマ化される忠臣蔵と並んで、いやそれ以上の出し物があります。
それが、安宅の関、で有名な、勧進帳。
近年、忠臣蔵も勧進帳も、いまひとつ演技の上手さを感じないものが多いので、ドラマ化をあまり見ないでおります。
見ないで居たのだけれど・・討ち入りと、安宅の関、だけは見させていただく。
なぜかといえば、先に述べたごとくここにわが国ニッポン人の心のより所、あるいは人間観が宿っているように思えるからです。
2005/11/27(日)夜NHKが、義経、の山場もそうしたシーン。
飛ぶ鳥を落とす勢いのあった平家。
その繁栄は、平家でなければ人にあらずというほどの平家の世であった。
されど栄枯盛衰が人の世であってみれば、壇ノ浦における源平合戦を最後に、平家は亡び、世は源氏のものとなってしまった。
それには源義経の大活躍があったことを、後の世に生きる我らも知っている。
幕府を鎌倉に興した源頼朝は、弟義経の活躍を称賛はすれども、いささか疑念を抱いた。
そして功多き義経が、頼朝に追われる身となった。
武蔵坊弁慶以下の一行を従えて奥州に逃れる義経。
その途で、安宅の関にさしかかったのである。
彼ら皆は、山伏姿。
このあとさらに北上して平泉へ身を寄せる考えなのである。
二月の北国、日本海岸沿い。
今の石川県辺りなのだろうか。
武蔵坊弁慶を山伏のリーダーとした一行。
もちろん源義経も笠をかぶって小物使いっ走りほどの姿で、列末尾に続く。
だがすでに安宅の関には兄源頼朝のメールが「要注意」と届いてる。
「義経一行を見つけた場合は捕らえよ」と。
この関所の責任者関守は、富樫左衛門。
関所の中では関守以下役人たちが、通行を願う山伏姿の義経一行を検閲するシーンとなる。
さあ義経一行は安宅の関所でいかなる策を講じるであろうか・・・。
このシーンは歌舞伎でも特に有名であり、いろいろな解釈で演じられているようです。
一行が安宅の関所を通行するための理由としては−−
羽黒山で行われる山伏荒修行に向かう旅の途中である。
その道すがら大仏殿の建設寄付金集め(勧進)を行っている。
と、山伏一行のリーダー役である弁慶が、うやうやしく申し述べる。
この段階で、この一行が義経たちではあるまいかと疑っている関守の富樫は、であれば、と弁慶に問う。
勧進を行うとあれば、勧進帳(寄付金台帳)を持っているだろう。
何より実証物となるそれを見せよ、と。
それへ弁慶は顔色ひとつ変えず。
勧進帳というものは寄付した皆様のお心使いが記録されている。
そのお心使い額が書かれてあるからは、みだりに人目にさらすなど出来ない。
と、答える。
なるほど。さもあろうこと。
であれば、勧進帳をこの目で確かめることはすまい。
であるが寄付を勧めるには、その趣旨、曰く因縁などの説明文面があろう。
そうした文言を読んで聞かせよ。
・・とさらに迫る富樫。
そこで、いよいよ見せ場であるところの弁慶が勧進帳を読むシーンとなる。
弁慶として思えば、京の五条大橋の出会いより御大将義経様を生涯の殿としてここまで遣えて来た。
大いに補佐手助けのうえ幾多の活躍をあげて戴き、戦々を見事に果たし参らせた。
源氏に義経様ありと仰ぎ見らるるまでにお遣い申した。
この武蔵坊このうえの仕合わせがあろうはずもない。
のではあるが、今、御兄弟の一時のいさかいが起きた。
しかしそれも一時の不運であろう。
御兄殿の疑いはいずれ晴れよう。
であるからには、この場を逃れて後、何としても平泉まで逃げおうせなければならぬ。
かの地で、是非とも義経王国を再建しなければならぬ。
と、思う弁慶なのであります。
そんな思いによる命がけの大一番の山場。
いよいよ救出の一策を即興アドリブで演じる名場面です。
元々無いものを読めと迫られて窮する弁慶。
さあ、さあさあ、読んでみよ。よもや無いというのではあるまいな。
と尻尾を掴んだかの様に迫る関守、富樫。
それへ、うぉー、うむむ……っと目を剥き弁慶が苦慮する。
ふと、背負ってきた山伏籠に何も書かれていない一本の巻物があるのを思い出す。
とっさの機転で、降ろして置いた籠に歩み寄り、厳かにそれを取りだす。
押し抱き深い礼のあと、うやうやしく拡げては、うなるように読み始める。
後ろに居並ぶ仲間一行は、と見れば。
もしここで偽の勧進帳であることが関守の面々にバレたなら。
この場は武力をもってでも踏破せん。
と、山伏の六尺棒(金剛杖)を冷や汗の手で握り、気を引き締めて身構える。
それへ、まああわてるな、落ち着けと弁慶が目で抑えながら、空読みを続ける。
歌舞伎では、この巻物の偽勧進帳を疑う富樫が側に寄って、のぞき見ようとするシーンなどがある。
弁慶は、そうした疑いを反らし切り抜けながら、関所役人など多くの者の前で、見事に白紙巻物の勧進帳を、即興で創作しつつ読みきる。
こうなると、さすがの関守にも疑う余地は無い、と言うしかない。
いや疑って相済まなかった。御一行、通りゃれえ。
早々に踏みだす義経一行。
・・と、後尾の義経に目をとめた、富樫。
あいやしばらく待たれえ。その若者、義経殿に似ている。
さあ大変。大殿義経様が、義経ではないのかと、止められてしまった。
弁慶は、うむむ・・何としても切り抜けなければならぬッ。
そこで、やにわに義経の胸ぐらを掴み、殴り倒した。
さらには、振り上げた6尺棒までを義経に向けて振り下ろす。
お前のごときつまらぬ小僧を連れ歩くことで、あらぬ疑いをかけられてしまったわい。
今度はまた義経などというお尋ね者と間違われてしまった。
まったくもって大事な急ぎ旅の皆の足手間どいであるわい。
と、自分の大切な御殿義経に向かって罵声を浴びせる。
疑いを晴らすためとはいえこの苦渋の策に、見ていた同行の者は弁慶は気でも狂ったかと目を剥いて驚く。
そして弁慶の驚くべき行いを止めようとする。
しかし打たれる義経は、笠の奥から目でその動きを制する。打たせておけ、と。
欧米の影響によるのか、長幼の序とか主従関係などの、伝統の意味するものまでが喪失した今日のニッポン。
効率主義とかお金第一主義の価値観を優先してか、人間関係とか心情などは二の次に置かれ宙ぶらりんで何でも有り。そうした無国籍のごときニッポン人の心の今。
さてこの部分は理解出来ましょうか。
鎌倉の当時。武士の主従関係、その規範秩序を踏みにじるとか無視したり破棄するなどは、あり得ない話だった。
まして命より大切な最頂点にある御殿を、家臣が悪罵はもとより足蹴りや棒叩きに及ぶなどということは・・、狂気の沙汰以外の何ものでもなかったのです。
今で言えば、恩ある両親祖父母を、あるいは恩師ほか種々の恩人を手に掛けるような罰当たり行為なのです。
行った者はもちろん、その家族から親類縁者の、子々孫々末代まで汚名恥名を着せられるのです。
だが、それだけの覚悟をもって行う弁慶を目の当たりにした関守富樫にしてみれば・・。
疑い度はさらに上がったろうこと。
けれどもがしかし。
なんのこの身、わが命に代えても守ろうとする弁慶の示す主人思いの数々。
そのただならぬ行いを目前に見せられてみれば。
落ちぶれてこそいるがこの者たちの精神の一途さけなげなゆえの行いは、一武人としてながむれば、ただあっぱれなるものだ。
家臣の奇策を理解して、必死に堪える義経の姿もまた、恐れ入ることこの上ない。
富樫の武士魂が大いに揺さぶられたことは間違いない。
いや、そこまでで充分でござる。疑いは晴れもうした。だれか、これへ酒をもて。
ささ、お若い方よ。相済まなんだ。これで痛みを紛らわせてくだされませ。
殴られた若者(義経)に酒まで振る舞う富樫でありました。
それほどに魂が動いたなら、疑いが晴れたかといえば・・むろんそうではなく。
疑い度はここにおいて、100%に振り切れた。
義経一行であることを確信したということだ。
けれど富樫氏は、この一行の通行を許した。
なぜこの場を彼は許して通したのか。
ここにまたニホン人の心があるわけです。
さてさて、現代の男(おのこ)の皆さまよ。
同じ釜の飯を数年間共に食した労働仲間を、無下にも冷酷にも、リストラ言葉や非正規差別で切り捨てて見捨てて。
薄情けの現代の心に汚染されては、清き富樫氏が下した判断の真意などを、さて理解することなど出来るでしょうか。
社会には法がある。
けれど、人の内には法外の法というものがある。
武士の情けでござる。
弁慶の男気に、殿義経の心の大きさに。
そしてその二人を守ためになら命を惜しまない一行の心意気に。
関守富樫の心が動かないではいられにはなかった、ということでありましょう。
まさに弁慶のぎりぎりの時点のこの一策に、どんな手を講じても諦めないで殿を守り抜く、という弁慶の信念を見て揺さぶられた。
それを察し、すべて信じていればこそ痛みに耐える義経の度量、その器。
厚き主従関係の確かさを前にして、ただ感動したのでしょう。
ああ何と麗しいことか。この弁慶なれば地獄の底まで義経殿を守るつものりなのであろう。
我もかくなる主従関係において、この命を捧げたくなるほどの殿に仕えてみたいものであることよ……。
歌舞伎ではここに至って、富樫氏が、弁慶に酒などを振る舞う場があったようです。
また映画では、通行を許されて旅を急ぐ義経一行に、富樫氏の家臣が飲食物を運び届けるシーンもありました。
それらは、関所を通り去った一行の後ろ姿に、義経殿ご無事で、と密かに頭を垂れる富樫の思いであることに違いはないのでしょう。
観劇する者もまた、この主従一行を思いやるその富樫氏へ、弁慶になり代わって感謝することになるわけです。
そして弁慶はと見れば、無事通行なったその喜びを、例の花道を去るときに見せる有名な片足スキップ(飛び六方)によって現すわけです。
ふぇー。やったやったぞ。さぁ旅を急ごうぞ。
いよっ。日本一ッ!
大向こうから声がかかる。
さて場面は変わって。
通行成った義経一行。
弁慶は男泣きに大涙を流す。
御殿義経へ、まことにもったいない非礼無礼なる振る舞いを行ったことを、泣きわびる。
たとえ急場をしのぐためのアドリブ奇策とはいえ。
御主人様を蹴る殴るなどはもってのほか。
かくなるうえはと、割腹を覚悟の思いでひれ伏す、弁慶。
仲間たちも、弁慶の行いにはもはや問答無用で釈明はならずの思いでひれ伏す。
しかしながら、義経は、いやいやそうではない。おのれの命を捨てる覚悟の主人思いの行動が悪行などと言えようものか。
この義経は天下にただ一人にして最高の家来をもった。この上ない幸せである。
と、弁慶を褒め称える。
これを聞いた弁慶はもちろん、従う一行の皆が一層確かな主従関係を固める。
それにつけても、戦さ上手この上無しと天下に名を馳せた源氏の総大将義経様であるに、この今の何と哀れな姿であることよなぁ、もったいないきこととまたまた涙する。
やがてこの一行は平泉までたどり着くことになる。そして・・・
と、義経と弁慶の物語はいましばらく続くわけです。
逃避行中の義経一行が、弁慶の勧進帳空読みの奇策により、安宅の関を越えたという、千年も前から語り伝えられたニッポン人の心。
そんなワン・エピソード。
これにて、幕といたします。
京の五条の橋の上〜・・・・ ・ ・
|