エッセイ
2006年11月03日
文化
11月3日は文化の日。
「文化」その文字をカット・アンド・ペースト検索。
クリックして見ると、人間社会の歴史や伝統であり、人々の行動様式、生活の知恵などを言っている。
日常、文化を意識することはないが、たとえば海外ビジネスの国内参入の動きなどがあると。
「わが国独自文化の風土から見て、その件は慎重に考えるべき」
とか、国内産業界が牽制するのに使われるのをニュースなどに見る。
消費者であるわが国の生活習慣から見て、その様な商いは儲かりませんよと、人々の価値観を文化としては、お断りしているのだろう。
そう言いながらも、実際やってみると。
大いに受けているなどということが、過去の飲料や外食産業にあったのが面白い。
これなどは、食「文化」が民族に固定する絶対なものではないという、良い例ではなかろうか。
また、2001年の米国の二塔ビル破壊事件。
あの報復論争が国連の舞台であったとき。
米国代表が口にした、即反撃攻撃の声に、「もう少し調べてから慎重に」と制した欧州側の仏国代表者がいた。
それへ「古いくさい欧州は慎重すぎて弱腰で話にならない」と、米代表は反論したと憶えている。
あの場合の「古くさい」のは何かといえば。
考え方であり欧州文化的古さ。
それが慎重すぎると言いたいのだろう。
文化のズレなどという場合、新旧比較となり、遅れてしまっていて。
今は通用しないので、「旧は新に劣る」と蔑視に使われることは多い。
もっともあの場合は、米国ご自慢のリング上の文明、とくに科学文明をもって優位さを示したかったのかも知れない。
言いかえれば、古き良き時代の自慢競争となれば、新大陸米国は持ち出せる文化の駒は無いのではないだろうか。
私など無知な者には、文化といえば、芸術面では欧州が独断場との思いが今もある。
とくに歴史や伝統の凄みには敬服する。
と同時に、わが国の独自文化の再発見も教えて頂いたと思うがどうだろう。
ニホン文化というものに目を向けさせてもらって、見直しできていると思うのだ。
そんなわけで、古いのが良いか悪いかといえば、分野によって一概には言えないが、おおかたの面で、それが生まれ現れてからの時間的長さで測って良いと思う。
古ければなんでも良い、というわけではない。
だが、長年人々に喜ばれ愛され珍重され、受け入れられてこそ次世代に継がれる。
現代のわれらもその恩恵にあずかれている。
身近なものも崇高なものも、その時間というフィルターによる評価で、その有用の意味と価値はしぜんに認めていることになるのだろう。
さてこの文化の日には、文化勲章、が例年授与される。
言うまでもなくわが国文化の発展に多大な功績を生み、人々に良い影響を与えた人に授けるのだろう。
文部科学省のページを見ると、今年は文化功労者15名、文化勲章受章が5名だそうである。
学術的な分野の人のなかに、芸術面の人も多く、俳優、作家、舞台美術、評論に私でも知っている名があった。
そういう雲の上の話はおいて。
下界、巷この地上市民フィールドにおいてだが。
ブンカ(文化)、ゲイジュツ(芸術)、ブンガク(文学)、オンガク(音楽)、ビジュツ(美術)、ガクモン(学問)、ベンキョウ(勉強)、ドクショ(読書)、テツガク(哲学)などを、声に出してみると。
自国語、つまりわが国の言葉なのに、響きが妙にごっつい。
角張って感じるのだ。
思えば、日頃こうした漢字言葉を口にすることは少ない気がする。
だからちょっと構えてしまう。
手書き文字を書いたり、見たりする機会が少なくなっているのもあろう。
和文漢字の明朝体的なるものに戸惑うのと同じかもしれない。
それは、思うに。
こちらの気持ちが、「とかぁ」、「みたいなぁ」の、ひらがなや丸文字系。
またはカタカナや英語に慣れてしまっていて。
気持ちがどこか虚弱でひ弱になっているのかもしれない。
そこへこれらの、羽織袴の正装で挨拶された様な堅苦しい「漢字」を聞くと。
正論をぶつけられドキッとする感じになるのかもしれない。
つまり重い手応えのようなものだろうか。
漢字単語の語彙そのものが、現代ではすでに「いじめ」ほどの語圧、語威があるのかもしれない。
江戸末期や明治の人の白黒写真を見ると、きゃしゃな体躯なのに、なんとも射抜くように眼光が鋭い。
あの様な人たちなら、漢字言葉も毅然とやりとりできたのだろう。
そういえば時々見る映像の、中国や韓国の人たちの会話も、なかなかに厳しさを感じる。
わが国であのような発声となれば、もはや激論ケンカである。
そんなわけで、今では皆が一様に柔らか穏やか穏便を良しとするせいか。
漢字文字は、直球を真正面で受けた様な痛さを感じる気がする。
そこでつい除けては、避けて柔らかな笑いで誤魔化してしまう。
だから、まあ音楽というほどでもないのですが、などと退いた言い方になってしまう。
それほどでもないのですから、どうか最上段真正面から攻めないでくださいな、と牽制する弱腰の意味だろうか。
もっともあまり遠慮してかかると、ではそれは音楽でないのですか? と問われ、窮することもある。
そういうことからか、音楽というよりミュージック、美術といわずアート。
議論などはトークと、軽く済ます。
当然、勉強とクイズの別も曖昧にしてしまうのは致し方なし。
+
文化。音楽、のたとえば古典(クラシック)音楽だが。
今では聴く人も少なく、などとあっさり時代遅れ枕詞ふうに、はなから切り捨てられることが少なくない。
たしかにわが国では、異国西洋の文化として学んで、100年経ったのかどうかであろう。
だから伝統とか歴史に加えるには早いのかも知れない。
皆に馴染まないなら国の文化とは言えないのかもしれないのだ。
時間をかけて磨き上げてゆくのが文化なら、昨日今日出現して生活にぽいと入り込んでは、私たちの血肉になるわけものなかろう。
ホンモノの文化と認められ受け入れるまで、人々の生活に浸透するまでには。
時間がかかろうものと、この種の音楽を耳にするたび思う。
自国の、古来のものとの比較のなかで、取捨選択されながら浸透して。
やがて自分たちの文化(心)として、教育され次世代へ引継がれ、根付くのだろう。
もっとも、音楽や美術など芸術を、生活の中にどう位置づけるかということもまた文化であろう。
現代の私たちの生活では、音楽の存在は薄くなっている気がする。
つまり、おまけ的位置付けである。
音楽といえば若者文化であり、娯楽気休めご気分の商品としての扱いがほとんどである。
クラシック音楽を古典、つまり精神浄化や心のより所とした生真面目な求め方で、大人が高く評価する風潮は少ないのではなかろうか。
そうなればここでもまた、堅苦しいとされ、敬遠されよう。
しからば、売れず、儲からない。
私は幸運にも、音楽も美術も強烈な先生によって、今にして分からずとも好きで楽しい。
いわば古風な「音楽鑑賞」は、私の趣味であり心のよりどころ(文化)となっている。
何某教育というと、その物事の知識、その憶え方や量や正確さに終始してしまう。
上手いかどうかを云々したり詳しさを競うのは大人にも多い。
また教え上手とは、褒め上手、などとも言われる。
だが愉しみとして、先々なお続けるとなれば、褒めてもらえるをもって愉しみなどということはありえない。
楽の音の愉しさ、美しさかっこ良さ、または厳しさや深さへの、陶酔感など本来基本的にもっている良さを発見して味わうことが出来るかどうか。
そしてこの先も、自分で見つけだし心から愉しみ、その補助として知識も深めて感動を高められるなら、喜びは増すだろう。
そういえば、仏国のある学校に「好きなことを成せ」というのが掲げられてあるという。
好きなこと、というと自由勝手な気分的選択を想像して、あまりうなずけないかも知れない。
しかし、思えば、人はかなり気分的感情的に生きているものだ。
いわゆる感情感性を司る右脳の主張が、言動も生涯も決めているという。
好きであることはやりたい。やるからには知りたい。上手くなりたい。
そこで、知恵を司る左脳をフル回転しては、好きなことをする理由を最もらしく理論付けして官房長官よろしく説明補足する。
知恵などというものは、天ぷらの衣のようであり、論の武器兵隊。
進むべき方向や思いの決断は右脳という王様のものだとつくづく思うことが多い。
正しく真っ直ぐなだけの屁理屈を生み出すのが上手いだけだと思うのだ。
であるから、名教師などという方々は、生徒の感情的右脳の方を手なずけるテックニックを身に付けているのだろう。
一般社会でも、会議など多くの前で話して皆の心をひっつかむのはたいがいが、こういう右脳のくすぐり上手だ。
そういえば上手い語りの落語家は、飽きさせないくすぐりのあの手この手を使う。
それはけして話の柱本筋としての聞かせ所ではないのだが。
ただ面白く、観客や生徒に喜ばれる手練手管を駆使しても、それはどこまで行っても本筋ではないわけだが。
そのときに振りまく面白さの中においても、闘牛士がひらひら赤布の中にしっかり握った長剣の様に。体内で脈打つ熱き心の臓を射抜く威力ある。
これが物事の根幹核であるというものを確かにもっている。
そして、皆が心を開いたここぞという隙に、見事に、突き通すのだと思う。
つまり皆がその物事に心酔してしまうのだ。
私など、笑わせられながらのラジオ聴きを経て、今気付いてみれば。
すっかり人情話の日本人的文化である情愛本筋ストーリーに心酔してしまっている。
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