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夢舟亭
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文芸工房 紅い靴  エッセイ  
2007/01/06


     ダイエット(減 量)


 病院の長い廊下をたどって、指示された部屋に入る。
 とテーブルが四組。
 どの席も中年の夫婦連れが坐っている。

 応対する聞き手はみな若く、まぶしいほどの白衣の女性。
  いらっしゃいませ。さあこちらへお掛けください。

 はいはいと、促された席に向かうは同じ世代の組ばかり。
 ご主人さまたちの頭は、白かグレーかはたまた髪が、無い。

 案内されたテーブルは台所食卓ふう。
 女性同士が向かい合い。
 私は家人の隣で、向かうは席は空。

 けれどこの部屋を訪れた理由は男である私に有る。
 診察室の医師から、すでにネットワーク経由で届いている文書スクリーンに目を通す若いカウンセラーの女性は、小首を傾げながら可愛いあごに手をやって、ふんふんうなずく。

 淡い色調のその部屋。
 壁には小棚が三段括り付けられてある。
 趣味の店に見られる果物やお菓子のミニチュアが置かれて並ぶ。
 下段にはレストラン入口のウインドに飾ってある肉や魚料理のサンプルが載っている。

 カウンセラーの女性は、テーブルに坐ったまま棚の肉と魚のミニチュアに、瑞みずしい手指を向ける。
 どちらをよく食べられますか、と笑顔で問う。
 私は、はぁ、と生身の血色のほうに見とれて頭を掻く。目が泳ぐ。

 と、ここで待ってましたとばかりにわが連れである奥様が。
 ンもぉ肉ばっかり、と吐き捨てる。

 若き問い手は、張りのあるピンクのくちびるを、ふふっと緩める。

 この間、じれったそうなわが奥方様は、デどうなんでしょう、と身をのりだす。
 今さっきあちらでの、気を付けませんといけませんなぁ、の医師の言葉が気になってしょうがないのである。

 それへ、とくに驚きもあせりも見せないピンクのくちびるからは、即答などなし。

 いいえねぇ、人間ドッグの結果が来たんです、うちのこのひと。
 見ると、再検しなさい。
 で、来てみたら糖尿ぎりぎり境界値だっていうじゃありませんか。
 心配なら食事の点検と相談をしてみるように言われたんですけどぉ。
 そりゃぁ気になりますよぉ。
 で、ホントに糖尿病なんですかぁ。
 糖尿ってこわいから、だから食べ物には気を付けるように、いーっつも言ってるのに。
 もぉこのひとったら。いーつの間に食べたんでしょ。
 せんせいからも言ってやってくださいねぇ。
 目でも見えなくなったらドーすんですかぁ。足の切断なんて、困るでしょう!?

 テーブル挟んだ向こうとこちらのわたしに、思いの丈を言い振りまく。
 一息つく休符のときを待ち、黙す私。

 その間、ほか三席や待ち合い席の姿の、会話に耳をかたむけてみれば。
 みな発言権は奥様にある。
 車検か故障のクルマを持ち込んだ修理工場の窓口に似てみえる。
 肥満傾向のご主人がたは私と同じく、一方的な女性同士の会話に、イエスまたはノーのサインを送るだけ。

 奥様はもっぱら、ねぇ聞いてくださいなうちの亭主ったら、の落語ふうなまくら言葉を夢中で発するのだ。

 それにしても、である。
 私から見ても、疑うべくない横綱クラスの体型の旦那殿も居られる。
 まぁあれほどの恰幅なれば減量のし甲斐もあろうさ。
 この自分はあそこまで進んでいないもんねぇとばかりに安心。
 自席の会話に気持ちをもどす。

 食事の量っていうかぁカロリー摂取量は、ですね。
 四十歳なかごろから、ずーっと減らさなければオーバーしてしまうんですよね。
 つまり溜まる。だから太る。
 うーん、なんというか、そう、燃費の良いクルマと同じかな。
 あまり栄養が要らなくなっちゃうっていうか。
 若いときの半分も食べれば、間に合っちゃうんです。
 一食1000キロカロリーも採り続けたら、必ず太っちゃう。
 お歳から見て一日1600が目安ですからぁ、一食600も摂ったら当然太るわけ。
 ほらこれ、お肉なら。大きさで一食この半分。
 魚だって、白身なら、このくらいかな。
 抑えておさえて。
 ねっ。いかがです。がまん、できますよねっ。

 用意してあった料理雑誌ふうな本をテーブルで広げて、脂ののった美味しそうなステーキ写真を指しながら説明しては、白い顔をあげた。
 つぶらな瞳が真剣になり、私をとらえる。仕事をしている目である。

 この私だって食の量を抑えようとは思っていましたとも。
 だが肉を半分も減量するとは考えたことがない。
 日頃の不摂生を悔いつつも、太鼓になりつつある腹をややオーバーになでまわす。

  みーなさい。だからいってるでしょぉ。
 妻どののその声で、お腹で私の手の動きが止まり、そういうわけだとさと愛しいお腹を二三度叩いて間をとる。

 この部屋に坐る男性はみな、来るハメになった罪状が外観に現れているだけに弁解の余地はないのである。

 窮している私を見て、優しいピンクのくちびるが開いた。
 援護の言葉が発されたのだ。
 ふふ。でもまあぁですね。
 この数値ですと、そうですねぇ。三ヶ月かな。お食事に気をつければかなり落とせますから。
 いま、えーと72キロですね。
 うーん。2キロ。そう体重2キロ落としただけでかなり血糖値は安全圏にもどるんじゃないかな。身軽でスリムに感じますよ。
 理想的には、ちょっと待ってくださいね。
 えーと、ビーエムアイ(BMI)は、72割る身長が1メートル70。それでもう一回割る。
 と、いまのBMIは24.9っか。25からが要注意なのだからっと・・
 2キロ減量で24.2。
 その次、5キロ下げてと、67キロならと、ラッキー! ほら、23.1。がんばりましょ。
 白衣の天使が微笑んだ。

 がんばりましょ、と私に小首を傾いだのであります。
 これがなんで拒めましょう。われニホン男子なり。

 私の脳は、ほら首を縦に上下をせよと、指令をぴりぴり発する。
 うーむ。5キロねぇ。まぁ何とかぁ、へへ、やってみますかぁ。
 ンもう。大丈夫なんですかぁ。の声は聞こえず聞かず。

 なにせ目の前で取りざたされているモンダイは、誰にも置き換えることの出来ない世界唯一この私の身体の健康問題であります。
 今関わりある人間といえば、目玉ぱっちり、ふっくらくちびるのうら若き白衣の乙女だけではありませんか。皮肉も批判もなく。親身に問いかけてくれている。
 であってみれば、脂ぎった肉の半分くらい、なぁんでありましょう。

 今や世界中の鳥獣肉食禁止令が出たって、なぁにかまうものですか。
 いいですとも。口にしなければ良いんでしょ。肉などだれが食べますか。
 と、私は心のなかでのみ、固く誓うのでありました。

 と、以上は人間ドッグの結果に書かれた要注意の再確認を、不埒にも買い物ついでに寄って、意外な慎重論が出て、食事療法相談室を訪れたときの様子である。


 それにしても、うら若き女性の笑顔とはかくも男心をまどわす、否、導いてくれるのでありましょうか。
 観音さまやマリアさまが、あまり歳をめされない女性の姿であったことに深く納得。
 もしもあれが、むつけき汗臭う中年ブ男の、したり顔で対されてみなさい。
 たとえおのれの健康のことだって、誰が頑張ろうなどと誓うでありましょうか。
 病も、まづは「気」からなのですからして。

 食事は若いうちから気を付けないといけません。生活スタイルつまりは身に付いた習慣ですからね。
 脂肪がついて体の動きが鈍れば、考ることだって鈍って消極ぎみになりますでしょ。

 そんなお言葉に礼をして病院を出た。
 昼過ぎ時刻はもうすぐ14時。お腹が、グー。
 ああ腹へったぁ。さていつものラーメンにしよか。

 あんな可愛いかたに今誓ったばかりでしょう。だいいちあの店のラーメンは盛りが良すぎます。
 また脂がとっても強すぎ。一食くらい抜いた方があなたの身体にはいいんですよ。なにせ5キロなんですから、5キロ。そのくらい我慢できなきゃムリ。
 さっ帰りましょ!

 腹の脂肪という予備タンクを消費して夕食まで持たせなさいということだ。
 あぁ私はなんという誓いを立ててしまったのだろうと思えば、グーとお腹がこの時点で音をあげた。

 何事もその立場におかれなければ関心をもたないものだ。
 知人に訊けば、ダイエットの苦行経験では、一瞬ならともかく、1キロ2キロがなかなかにしぶとく減らない落ち着かない、という。またBMIが25ならさほど気にすることないぜという。

 と言われて思えば、かくも易々と何をどこでどう早まってしまったものかと自問する。
 誓ったその事と、自分の成すべき並大抵ではない5キロもの減量苦行の意味が、把握できていなかったということになる。

 腹に手をあてて、自分に誓ったことほどあてにならないものさと破棄寸前。
 だがしかし、ニッポン男児が女人二人に誓ってしまったことを今さら・・と、腹をくくって思い直す。

 その日以来。空腹感に立ち向かいながらも、ピンクのくちびるの亡霊に惑わされ、かつまたその手下か看守ふうな愚妻の厳しい監視の下で。
 朝軽く一膳。昼おそばかうどん。夕にパンひと切れかふた切れプラスなにがし、を基本コースと決めた。いやそうではなく、決められてしまったのであーる。

 その後、肝心な減量の方はといえば、さすがに早めの、それも強制処置の結果だけに良好。健康食事といえば聞こえはよいがまるで飢餓状態。
 初期の目標2キロを一ヶ月を待たずにクリアした。三ヶ月で5キロも、というか見る間にやせ細った。気づけば、毎朝の計量が癖になってしまった。重量計針先の落ち着き目盛り位置が、とても気になる。上がると不安。

 目標が掲げられると真剣にたち向かう習性の世代であることを、あらためて自覚。苦笑しつつも休日は、増える不安から飲み物のほかなにものどを通したくない。週二回汗かくほどのスポーツも徹底して欠かすことがこれまた不安なのであった。

 これにはさすがのわが家の奥様も、先立たれてしまっては元も子もないと見たか、もうそんなところを維持すれば良いのではと心配顔。
 いやいや痩せようと思えば一も二も無く、食わないことが鉄則!
 なーんのなんのこれしき。

 今、新渡戸武士道の時代、つまりは美しきニホンの魂の世でござる。
 メタボリックごときシンドきロームなどひとひねりでござれば。とかなんとか紋切り言葉をかまわず口走ってはみる。
 が・・腹は減るへる、さりとてくわえる楊子も無く。

 そうして後・・、いやこの辺で減量の報告は終わっておきましょう。




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夢舟亭
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夢舟亭
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