<この文章は商業的な意図をもって書かれたものではありません>
夢舟亭 エッセイ
2005年11月12日
ヨハン・シュトラウス「美しく青きドナウ」
ワルツ曲の名をあげると、お正月には早いのでは、などと言われるかもしれません。
たしかにクラシック曲に限らず、季節イヴェント限定版のように扱われる曲があります。
最たるものでは「ダイク」(第九)。
ベートーヴェンの交響曲第九番合唱付き。
これなどはもう師走に入ると大晦日まで演奏され鳴らされ、耳にも飛び込んできます。歳末の定番。
その歳の締めくくりを祝おう!
また最終楽章の「歓びの歌」の部分は、町中に拡声器で放送される正午のオルゴールになっているところもあるようです。
食にありつけることの有り難さに感謝、か。
近年わが国へも衛星生中継により、オーストリアはウィーンの、ニューイヤーコンサートの模様が放映されます。
すでに定着していて、新年の恒例番組のひとつになってしまった感があります。
ここでいうニューイヤーコンサートとは、1月1日の夕刻(あちら現地ではお昼時か)に、楽友協会という大ホールで行われるウィーン・フィルハーモニー・オーケストラのコンサートのこと。
曲目は、ご当地が生んだワルツ王。
ヨハン・シュトラウス親子の曲を中心にした、ワルツコンサート。
その模様はヨーロッパの国々はもちろん、アジアほかでも同時放送される。
世界億人単位の人が見ていると言われます。
とてつもない規模の番組です。
それだけにこのコンサートは、また棒振り、つまり指揮者にとっても大きな意味があるとか。
今年は誰?
と世界の音楽界の、ちょっとした話題になるほどだとか。
先年、ニホンの小沢征爾さんが指揮台に立ったことはまだ記憶に新しい。
その録音CDは、わが国内でも品切れになるほどだった。
なにせ、かの帝王カラヤンをはじめ、クライバーやマゼール、アーノンクールほか世界の名だたる指揮者が依頼されて出た。
あの指揮台へご指命されることは現在の実力人気の証でもあるようなのです。
さてそのニューイヤーコンサートの演奏曲目は、先にも述べたように、すべてがそうだと決まっているわけではないらしいが、ヨハン・シュトラウスという同一名のワルツ作曲家の、父一世子二世、親子の作品がほとんど。
そしてこの中で、というより最後の曲として演奏されるに決まっているのが、息子シュトラウス 二世の名曲、美しく青きドナウ。
厳密に言えば本当の最後の曲は、会場みんなが手拍子で参加するラデツキー行進曲。こちらはたしかパパ、シュトラウス 一世の曲。
この2曲演奏の時点に至っては、すでにアンコールと言える気がします。
でも演奏するに決まっているし、観客はこれを聴かずに帰れない、帰らない。
さて「美しく青きドナウ」というこの曲。
私事でいえば、良い曲だなぁと思ったのはごく近年なのです。
良いというより、ウインナワルツという種類の音楽を楽しめるようになったのが最近、というべき。
音楽のことだけでなく、芸術への感覚というものはなかなか言葉にし難いものです。
正直言えばあまりに華やかで娯楽性が強く、音楽として聴くには眩しすぎる感じとでもいうのでしょうか。
華やかで眩しいということは、じっくり真正面に音楽鑑賞する客とは異なる別な世界の人たちが、踊り楽しむものという風に感じていたのです。
何も人一倍厳密な音楽観をもっていたわけではないし、浮かれ楽しがことさら嫌いなわけではありません。
ですが作曲者シュトラウスとウインナワルツ、舞踏会との関係は、私の豆知識からは同列のようなのでした。
つまり贅沢なダンスの伴奏音楽だという思いです。 観賞用にあらず、と。
だからといって、現代の自分たちが聴いていけないわけはないのだが。
とにかくそういう印象により、ご遠慮いたしておりましたのです。
では何で聴くようになったのか。
この理由もまた、くつがえすには物足りないのだが。
音楽として好きになっちゃった、というしかない。
ある時ふと耳に入って、へー、良いものだぁ、と感じたのです。
人間というものは、なかなかどうも複雑な心情の変化を示すようです。
自分でも解析出来ない、釈明しかねる一瞬の反転逆転したりするもののようです。
目障りで気になってたものが、気にならなくなる。
拒否していた源が、突然価値あるものとして前面で輝きだしたりする。
まず、ドナウ。
出だしのあの、シュルシュルシュル・・弦の最弱音。
そしてルールールー、ルー(らっ、らっ、らっ)の三拍子の部分へ。
ここですでに気品に満ちて浮き浮きするものを感じます。
曲中においては、あくまで流麗で華やかで優雅。
けして古風でも地味にも感じない。
緩急の変化も、強弱の幅も盛り上がりも、なかなかに音楽性豊か。
それに私的な好みを言うなら、曲の長さ。
これがじつに嬉しい。
2,3分ではフルオーケストラには寂しいし。
かといって白けるまで長い華やかさというのも楽しめないワルツ。
ドナウ河の曲に対して、大河の名曲といえば「モルドウ」があります。
スメタナ作の連作交響詩「わが祖国」。その2曲目でしょうか。
あの曲もチェコを流れる国民の象徴といえるモルドウ河をテーマとしていると聞きます。
あれは華やかさよりも自国への粛々とした誇り高い心のより所のような思いを感じます。
ドナウが華やかな気品というなら、モルドウは誇らしい民族の精神でしょうか。
先年、独裁の政権が市民の手により崩れ去ったのちのスメタナホールに、国民選出の代表者をゲストにして市民コンサートが開かれ、NHK-BSで中継されました。
指揮は、あの間国外に活動の場を求めていたラファエル・クベリック。
演奏はもちろんチェコ・フィルハーモニー管弦楽団。
演奏曲目は言うまでもなく「わが祖国」。
私の様な部外者でも電波を通して映像となって、演奏会場の市民感情が歓びとして感じ取れるほどのものでした。
この曲があの国の皆の心のより所、象徴になっている様子が確認できた気がします。
「わが祖国」は、曲名からも音楽というものが人にとってどういう意味をもっているかの一つの特異な例ではありましょう。
その点では「美しく青きドナウ」は、政治色は薄いわけで、聴く方も気が楽であります。
気が楽だというと誤解されそうですが、それは音楽的な高低の意味ではありません。
演奏、楽の音を快く愉しむという点では、これはもうウインナワルツのきらびやかで気品のある雰囲気を奏でるメロディーに軍配があがろうというものです。
深刻さなどは当然ありませんから、大いに心から酔える。
そういう点が世界の新年祝賀にぴったり。歓迎されるのも分かります。
ニューイヤーコンサートのドナウ演奏の時、出だしで止めた指揮者が、お人柄を含むメッセージを一言発されます。
皆ほぼ一様にこの年の世界平和を祈る。
さらに名指揮者の「シンネンアケマシテオメデトウゴザイマス」などの放映先各国へ向けたご挨拶も嬉しい。
そんな楽しさのなかで、前回は大きな自然災害者に対して浮き浮き気分を慎もうと、「ラデツキー行進曲」を取り止めたのでした。
政治色は無いと言いながらも、かくも大きなイヴェントを抱えた「美しく青きドナウ」。
望むと望まぬにかかわらず、いまだトレンディであるだけに、かの国の観光目玉として、ドナウ河や音楽ビジネスの一翼として象徴的曲と言えるかもしれません。
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