エッセイ 夢舟亭
2007年12月22日
映像時代
笑ってしまった。
そして考え込んでしまった。
ある政治家が汚職汚名を払拭するためのアリバイ裏付けに、印刷された写真映像を出して見せたという。
アリバイというからには年月日時間が印刷されてあるのだろう。
だが今どきそうした映像がどれほど説得力をもつか、もたないか。
なにせ今は映像時代だ。
どこにもかくにも氾濫している。
それも動画までが、じつに簡単に撮られ、録られ、見られる。
VTRはもちろん、ケイタイでデジカメでパソコンで。ハイビジョン精細画像さえが常識の時代となった。
さらに、それらの編集や修正がしやすいことは話にもならない。
小学生でもちょちょいのちょいで修正も変形もできてしまう。
私の顔でさえ長面色白のイケメンにも強面のおっさんにもなる。花柄ふちどりのなかにだって映せる。
ウェブサイトはどこの画も動いている。
意味もなくやたら動いて目が回る。
動きのないところを探すのこそ苦労する。
そういえば、どんな田舎の交差点にも今カメラが設置されている。
二方四方から、24時間撮し録っている。
防犯であり現場記録であり、犯人追跡の参考映像なのだろう。
銀行はもちろん人の出入りや通行の多い所には、天上に奥壁に設置され、ねらわれている。
人は一日にいったいどれほどの回数または時間、撮られているのだろう。
おもえば冗談ではなく、きわめてブラックなSF、未来空想の時代が到来しているのだ。
英国の作家ジョージ・オーウェルが、1947年に書いた社会派SF小説「1984年」。
あれに描いた映像監視社会が実現してしまった。
あの小説では、独裁的政党政府が市民を一方向に統御制御するために、街の角ごとに設置した大型スクリーンに一方的に、都合良い虚構映像を流しまくる。
その一方で、異分子的反抗的市民の言動を逐一、隠しカメラで監視している。
異分子的行動の市民が見つかれば、スクリーンから警告を受ける。
ときには当局がどこからともなく現れて、摘発検挙におよぶ。
なんとも不気味抑圧的社会なのだ。
現代社会の方での政治的な利用のほどは分からない。
だがどこでいつ撮られているのか。そしてその映像情報はどこに記録されるのか。
洩れれば、誰の手に渡るか。
そこが分からない。
銭儲けや脅しの種にされることもあろう。
どう変形混合加工されるか分からないのも怖い。
思いも寄らないところに掲示公開されたりしないとも限らないではないか。
何重もの不安心配があるだけに始末が悪い点では空想社会とおなじではなかろうか。
それほどに猫も杓子もが、動画のなかで生きている感がある今。
犬でなくとも、ちょっと出歩けばカメラのレンズに出会い撮られる。
先日BBCニュースで、今市民がカメラに撮られる回数が多いのは英国が一番と報じていた。
だがまもなくこのニホンが一番になるのではないかという気がしている。
満ちれば欠けるのが世の常。
そこまで増えれば、今度は何ごとも過ぎたるは及ばざるごとしとなるのか。
簡単にねつ造加工変形合成できるのだから、百聞は一見にしかず、という映像証拠時代ではなくなった。
今や映像には落書きほども説得力がないのだ。
そちこちにあふれて来た分、映像の信憑性は逆比例して、下がった。
そして今、無加工無修正の本物さえも説得力がないことに気付く。
せっかくの地に出向いたり思いもかけない人物に出会ったりした貴重で自慢すべき記念写真も、疑い半分で見られることになるわけだ。
これからは本物の映像であるということの証拠が、何か別に必要になるだろう。
身分証明書なども、やがて写真だけでは意味をもたないようになる気がする。
今の様なやり方では使えなくなるのではなかろうかと。
映像の簡便さと加工修正の氾濫によって、映像そのものが証拠として証明に値する説得力を失う。一見、の重みがなくなる。
映像はまずその信頼度が問われるということだ。
映像が手軽に扱うことが出来るようになったのに、なんとも皮肉ではないか。
さすがのジョージ・オーウェルもそこまでは予測できなかったことだろう。
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