エッセイ 夢舟亭
2007年04月07日
ホリエモンに関する報道の姿勢に思う
民間放送。
それは、あくまでも「産業企業の宣伝商売」。
スポンサー有りきのご商売はカネ儲け。
ほかの産業と同じに、売上利益向上をもくろむビジネス、事業です。
その民放キー局が、列島国内傘下放送事業者に配る電波には、少なからずスポンサー有利、わが身大切の、経済的本音が秘められているのは自然なことでしょう。
ですがこの人たちは、クニの文化とか公共性とか、法的な立場役割などを強調します。
報道を装うワイドショウはもちろん。
ニュースだって、ゲラゲラ拍手奇声の番組も、油断はできません。
一見そんなことはおくびにも出さないだけに、この騙し絵は悩ましい。
選定責任は局ご自身でしょうと念を押したいほどの、本業もあやしいコメンティターと、論評者の諸言に。あるいは一般市民の声だと、局の論旨に則して摘みだした素人の声に。
我れ不都合な言葉は、けして使わせない、取り上げないで。
それを一般市民の論調のごとく臭わせて、そちこちの番組でくり返せば。
賛否両論の不都合な声は、黙殺あるいは無視すれば。
この孤島列島の風潮は、こうだ、と共通認識をでっちあげることが出来てしまう。
時間潰しのわき見の視聴者といえど。
長引くラウンドまで続く拳闘技で攻めつづける小出し打撃のように。
じわりじわりと視聴者市民の頭を染めてしまう。
今、民間の情報メディアというと、テレビ・ラジオ放送、新聞、週刊誌でしょうか。
大きなWebサイトも、かもしれない。
悪いことに、これらわが国の報道、新聞社とテレビラジオ放送局は、同じ企業資本傘下にある。
つまり国内情報発信元を牛耳る大きな「既得権益者」の共通な思いで動いている。
そしてこの人たちは、より利益を得たい国内有数の産業人であり、高給取得者たちだということ。
であれば、この人たちによる情報発信が公平だと思うには無理がある。
この人たちメディアにとって、視聴者市民は、購買意欲高揚のための宣伝の対象者である。視聴者市民は宣伝依頼者スポンサーの商品の、購入消費者なのだから。
だが視聴者の立場はもう一面あることをメディアは計算している。
メディア情報に迎合しやすく、都合良く口を揃えてくれる大衆。
民主政治の多数決数論理のなかの、大勢多数という存在だ。
ここがじつに重要だ。
なぜならこれによれば政府だって倒せるのだから。
ここにおいて、公平のフリする偽言者が「みんなが言ってるよ・思ってるよ・信じているよ」という力を持つ。
メディア都合の声、我田引水となれば。
あるいは偽政者からの、その仕組みと効果を貸してよと、言い寄る声があれば。
これがヒトラーが欲して行った、放送の見えざる扇動力という、欺きの大罪につながる危険がある。
ところで、国会中継の野党の訴え資料など見るまでもなく、こちら視聴者市民の側では今、格差言葉にいわれる貧しい生活者が増えている。
その実態をあばけば、アルバイター、フリーター、パート、日雇い、請負、派遣という非正規社員の薄給冷遇が広まっている。
いつからか日常化している。
だから発表される失業率の数値には現れない生活苦の実態は見えない。
また下請けや零細外注へ作業仕事を移しては、効率や生産性の知恵と唱えて汗かかず。
賃金経費をケチり倒し、搾ってコストダウン。
史上最高利益をあげている大型企業も多い。
笛太鼓のちんどんメディアもそうした企業のひとつだろう。
そうした裏技の実力が成長率とも言われる。
そんな好況温風が吹く頂上と違って。
若者は今、社会のすそ野で就業雇用機会も無く、寒風荒野に震えている。
そこで若者のなかには一念発起して。
新参新興の起業としてヴェンチャービジネスを始めるけなげな例もあるわけです。
なにせ政府は今、イノヴェーション支援を掲げている。
思えば、零細なよちよち歩きのヴェンチャー企業活動の初期は、皆ほとんどがマニュアルもルールも乏しいまま、無一文で始まるものです。
政財界の二代目三代目の様な、七光りの踏み台も人脈など背景も無く。
ゼロ地点出発の彼らは、精一杯のやる気ひとつを友にして、励むしかない。
徹夜続きも当たり前。
ときには夜中に月明かりの外に出て、皆が寝静まった街のはずれで、身震いしながら血のにじむ様な立ちションもしましょう。
それを見つけた大人たちが、違法だ罪だと大声出して指さして、ひっ捕らえ。
交番にまでしょっ引くなどは気の毒この上なしでしょう。
そうではなく、「若者よがんばれ」の励ましひとつもかけて。
せいぜいカップ麺やインスタントや自販コーヒーでも温めて、持たせて帰す温情が大人。
明日への期待声援などあれば国の明日も明るいというもの。
ヴェンチャーとかイノヴェーションなどと簡単にいうが。
産学の高予算でもなければ、末端での実現は難しい。
若さをパワーに、ガレージの片隅で試行錯誤。
古い貸し事務所で苦心惨憺、アイデアを練り。
月々の微なる利益に一喜一憂しながら。
懸命に新種のビジネスを生みだして生きる若い姿は、国の宝です。
そうした若者の万に一つが、大きな希望につながるに過ぎないのですから。
これまでの大人世代が経てきたのとは、今大きく異なる社会はグローバル。
若い努力と笑顔のこの先に、どれほどビジネスの花を咲かせるチャンスがあるのか。
それでもメゲず、是非育って欲しいものです。
そこで・・。
たまたま世界を夢見た万に一つが。
知恵をめぐらせ種々業界の新手ビジネスを拓いて。
望外な価値創造と、その可能性を捉えて、生みだしたとして。
彼らの経営が、ルール未整備とか、いささか非常識無礼があったところで。
注意の声もかけず突然に。既成の経験長い大型企業と同じルールを、無理にも厳格にもあてはめて。
針小些細な欠点を、あげつらい。
棒大に報じるマスメディアがあったとしたら。
さらには視聴者市民の大人皆がそれに口を合わせて。
ひがみ妬んで、敵視報道する者の口ぐるまに載って。
行う若者に罵声をあびせ、血祭りや、さらし首までするべきかどうか、と思うわけです。
まぁおそらくはヴェンチャー起業の「ほどほどの成功話」というなら。ニホンのマスメディアもあれほど狂気叫びはなかったのでしょう。
だが、しかし・・。
これがたまたま、新規新参不可侵の、既得権益ど真ん中。
アンテナ付きお城である放送業界そのものを揺さぶり、飲み込むほどの。
そこまで成功したヴェンチャー若者だったなら・・話は別だというわけでしょう。
偉いぞ、見事だ、良きライバル出現、がんばれ、若い新進のアイデアに協力しよう、この胸貸そう。
若者を温かく支持協賛する大人の度量を、視聴者市民に見せてくれるべきメディア。
そうした心優しい市民の味方顔の公共性も、一瞬にして我欲と保身の偽善的厚顔となったのでした。
化けの皮自ら剥いで、若者に牙をむいたのではなかっか、ということです。
家庭ももてずに困窮し。どんどん萎縮する現社会の若者の多くが。
希望の星として支持共感をもって眩しく仰ぎ見た旗印、ヴェンチャー起業の若きホープを。
弱者の味方市民の声、公的立場のはずの電波を私的に駆使して。
権威を盾に、高名著名な人たちに同意を求め。
紛らわしい法律論とかなんとか持ち前の得意技をきわめて。
放送自己の立場の確保に、ただ奔走したのではなかったろうか、ということです。
人の好い視聴者市民を味方に巻き込むべく。
若者をカネまみれの悪玉に祭り上げて。
徹底追い落としたのではなかったか、と言う意味です。
若者たちの方は、政財界大人の味方も加勢する市民もなく。
メディアに煽られる皆を敵にまわして。
役人の土足の踏み込みを誘発するメディアによって。
せっかくの起業の業績はもちろん、成果の株価までを不本意な思いのまま大暴落へ追い込まれたのは皆承知のこと。
ここに、若い努力と夢希望は、悪名の海に撃沈されたのでした。
何という欺瞞映像網の時代でしょうか。
こうしてイノヴェーションを唱えるわが国の若い世代の心には、既成産業界大人社会はヴェンチャーの出来すぎには酷い仕打ちをするものだ、という不信感、そしてやるせなさが残った。
図らずも海外にも、これら若者がいう「ニホンの放送経営も新進三十歳代の時代になったとは素晴らしい」、「だったらカッコいいね」の思いと同じ称賛があったという。
そういう声を知ってこそか、メディアの報道は、今なお残る支持や人気まで根こそぎ潰そうと、「時代の寵児は偽物だった」と決めて過ぎ去ろうというふうに見える。
ところで、おカネをゲーム点数のように金額の多さに執着したのは、他ならぬ現社会の立て役者中高年以前の、大人です。
おカネ儲けは善であり正義であったのです。
成功、とは大金を得ることだったのです。
視聴率過敏症マスメディアこそは、大衆の消費心を資本力で買い漁ってきたのです。
そもそもお綺麗なカネ儲けで興した既成産業がどのくらいあるだろうか。
良くも悪くも戦後ニホンの復興原動力はおカネ合戦なのですから。
おカネはこの国の唯一神。
宗教だったのかもしれない。
私たちはみな、目くそ鼻くそを笑う、おカネの亡者です。
その先頭で、それ行け進軍ラッパを吹き散らして儲けた張本人こそマスメディア業界の人々だと言って誰が疑問するでしょう。
そうして出来上がったおカネ社会において。
今、市民個々人までが「社業でも社名でも業績でもなく、ましてや資金の流れなどに目をくれるはずもなく」、ただメディアが創った人気者の名を、株に追いかけた。
そうした株買いを煽るようにもて囃してては、自己責任投資の賭けゲームに奔走させたのは、メディアではなかったのでしょうか。
いやそれどころか。子どもまでカモっては、マネーショップ・ポケットバンクとお手軽なカード借金社会をバラ色に見せて、おカネ感覚をマヒさせ自己破産や臓器売買へと。
そうしたCMは誰が流したのでしたっけ。
社会のおカネまみれを云々し始めたら、すべてがメディアの片棒担ぎにつながってしまって、きりがありません。
良くも悪くもそうした過去があって今があると、よくよく思えば。
法も裁きも、しょせんは人社会に灯りを点し、より良き戒めの裁定例を残すべきもの。
人が創った法のいっさいに反するは悪だとして、知にのみ偏れば。
潤いを失い住みにくくなり、沸き上がるべき夢も歓びも感激も失う。
だいいち罪人ばかりになってしまいます。
程度はあろうが、希望ある非凡な若人には、広い見識と長い目で向かうのが何より大切です。
元来大人や先輩というものは、若者や初心者を寛容の支援をもってあたるのが、健全な社会ではなかったでしょうか。
裁くべき、反省すべきは、我欲を闇雲に追いカネ社会を喧伝吹聴してきた人たち。それに踊った皆ではないでしょうか。
マスメディア人気商売の放送自身が、時代の寵児と囃して祭り上げておいて。
ときには彼の情報を奪い合って。
人気商売のネタに映したはず。
記憶にないとは言わせたくないその味をお忘れとは、視聴者のオツムを見くびっておられます。
その乾かぬ口で今、「おカネがすべてではない」とは。
よくも言えたものではありませんか。
若い彼の、波紋を呼んだグローバルな行動から、一応免れたかに見える放送業界も野球界も。
自己革新も出来ぬまま、周知のごとく低迷が続いています。
変化が苦手な腐臭を感じます。
今後賢明な若いファンが離れて一層苦境に陥るのではないでしょうか。
「何がなんでも出来すぎた若者を潰せ」の陰の主唱者たちは、若い優等生の頭脳プレーにしてやられ、経営能力不足を露呈したと見る海外の企業家もあるという。
これからは海外の若き精鋭が次々に襲ってきて、とてもこの手の潰しでは防ぎきれないだろうともいう。
そこで思えば、マスメディアの第一印象そのままに、寵児たちこそは何年に一人という世界に羽ばたけるニホンの希望の星なのかもしれない。
マグレの成功でないのなら実力。
大人おカネ基準に照らして見れば。
彼ら若者こそは申し分なく出来すぎの優等生。
大人たちには、褒められこそすれ。追い落とされる筋合いなどなかったのではないか。
老若男女皆で、渡米大リーガーの様に大いに盛り上げ、拍手声援を送ったら。
迫り来る国際的な、オープンでグローバルなビジネス時代の逸材たりうるのではなかったか。
昨今盛んにメディアに踊る言葉として「教育」そして「いじめ」があります。
寵児へのここまで社会全体で加えた仕打ちや罵声を見聞すると。
大人が寄ってたかって、突出した若者たった一人を、集団暴行でなぶり殺しする様な後味の悪さを感じるのですが、いかがでしょう。
正論を吐いているつもりの人皆も、若者潰し、という割り切れない結末のいじめ加害者。
黙認している人もまた、少なからず。
若者いじめの片棒をかついでいる様に、私には見えるのです。
もちろん首謀者は放送はじめマスメディア。
ここで一歩退いて考えてみて。
彼ホリエモンと若い仲間の、これまでの向こう見ずでいささか微笑ましげな知恵アイデアの行いは、排除抹殺すべき悪だったのでしょうか。
それともじつは……。
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