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夢舟亭
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夢舟亭 エッセイ     1999/09/15/2008/08/21


   犬2匹に猫1匹 人間が2人



 わたしは都会暮らしの一時期を除き、いなか生活のほとんどで犬猫はもちろん小鳥やネズミ種を飼った。
 今でも犬猫無しという毎日はちょっと寂しく、考えられない。

 そんなわけですから、ペットと家族子どもとの思い出も数えきれない。
 飼った犬や猫はどれも拾いものばかり。ということは人間がいうところの雑種ばかり。
 そうだから姿かたちはもちろん性別も選ぶことなど出来ない出会いでした。

 耳の聞こえない白猫。
 最初からボケぎみの犬。
 関節がゆるみきった犬。
 短尾の猫。

 生き物であればある時期が来れば子を宿し産んだことも何度かあった。

 人間の子どもたちにとっては、あのちっちゃな生命誕生の瞬間の驚きは、ことばにならないもののようでした。
 ふわふわむにゃむにゃと、母腹に寄り添ってうごめいている子犬を、どう扱ってよいのか解らず。
 でもなんとか手に抱き上げて、頬擦りたい気持ちが隠せない。
 そんな子どもらの表情は一服の絵でしかありません。

 しかし、家長の悲しさです。目を細めてそういう気持ちにお付き合いばかりもして居られません。
 生まれた子犬をどう精算するかの、現実的に新しい飼い主を考えてやらねばならない。

 あっちこっちと問い合わせ。
 知人の、知人。そのまた知り合い、と電話に深礼をくり返す。
 どうにか嫁ぎ先を決めたころには、よちよち歩きの愛らしい子犬に育つ。
 その頃にはすっかり子どもたちの兄弟になりきっている。
 親犬もそんなヒト科の二本足生物を信頼して子犬を遊び相手と認めては、満足気に声など掛ける。

 そんな犬と子どもらの前に、やがて手みやげひとつなど持って次の飼い主が現れるわけです。

 母親犬もその状況から、離別が迫っていることに気づき、吠える。
 他人は帰れ、わが子はやらぬ、と。

 一番信頼されているヒトの子どもたちと犬親子にとって、この時の人間のオトナの手は、悪魔の爪にも感じるのでしょう。
 じつはこちらも辛い思いであり、これほど堪えることはないのだ。

 目前で今行われようとしているこの悲しさを、認め得ない幼少の弟は、こういう時いつも正義の見方になってくれる長兄に、許せやしないだろうと詰め寄って泣き叫ぶ。
 その事情をのみこんで理解する長兄はと見れば、涙ながらにこの場を黙認する。
 と、それへ、裏切り者とばかりに、叩く弟たち。

 うなり、怒る親犬。
 つられて泣きつく子犬。

 だがこの状況をそう放っておくこともできない、なかば実力行使で処する人間のオトナの側。手早くコトを進める。

 やがて親と別れた犬が、迎えのクルマに・・・。
 そのドアは閉まる。

 窓から、可愛がるからごめんねと、新しい飼い主のもらい泣き顔が引きつる。
 そして道のかなたに消え去る。

 鳴きやまない親犬をなだめる子らの、しくしくが残る。


 そうした思い出の親犬たちも、その後の年月には、つぎつぎと死のかなたへ消えてゆきました。
 しくしく泣きした子らもまた、犬や猫の思い出を血肉にして育っては、あの角を曲がり巣立って行きました。

 いま、わが家には犬1匹に猫2匹。そして人間が2人。






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