エッセイ 夢舟亭
2008年 1月20日
フォーレのレクイエム
音楽はフランス。
そういうと「私を忘れてやしないかね」と、肖像画のなかで眉動かすフランスの文学や絵画の偉人たちが見えそうだ。
では、多方面の分野で名作を遺した人は多いフランス、と加えよう。
するとこんどは、バッハもモーツァルトもベートーヴェンもドイツでありウィーンだったよ、というだろうか。
しかしシューマン、リスト、ショパンの時代では、もうパリ抜きに音楽はなかったのではなかろうか。
そして今回のガブリエル・フォーレ。
この人もフランスの人だ。
修道院に育ったというその生い立ちが血肉になって深層に宿って、作品に現れていると感じる。
たとえば、パヴァーヌ。
良く知られたこの短い曲は、夜の静寂にただようなもの悲しさを感じさせてくれる。そして気品がある。
生死観というものを思わないでいられない感じがフォーレにはある。
それは彼の深い宗教観が物語るのではないのか。
音楽というものにかぎらず人の感性というものは、年齢とはべつなものだと思ったことがある。
あるときラジオのリクエストメールを耳にした。
中学三年生だというその女の子。
なんと感動的な曲なのでしょうと聴き入ってしまったという。以来この曲が自分の大切な一曲だたという。
それがフォーレの作品、レクイエムなのだと。
私などは、この曲に聴き入ったのは40路を越えてからだ。
その子が早熟なのか、曲の存在さえ知らないでいた私が無知すぎたのか。
宗教心などまったくない私も、この曲の厳粛ないざないには抗しがたい。
ほかにレクイエムは多い。
モーツァルトやヴェルディあるいはドボルザークの作品もある。
が、私がもっとも共鳴度が高いのはフォーレだ。
いかにもの荘厳なるオーケストレーションを感じさせないところがいい。
なんともいえない、ふわーっとした雰囲気がたまらないのだ。
心の動揺や不安を胸にくすぶるときなどに、とくに聴きたい定盤となって久しい。
文でいうならセンテンスの長い文を思わせる。途切れとぎれで、歯切れ良い明快さ、ではない文章だ。
抑揚を抑えた感じ。
それでいて音楽として平易ではない。
真の神というものが存在するなら、こうした穏やかで何気なく、迷える子羊たちを包むように迎えるのではないかと思ってしまう。
青白く浮きたつ中空の淡い光は、劇的でも権威も感じない女性的ですらある。
細身の観音菩薩のようなものかもしれない。
しかしあくまでもおぼろげなのだ。
それを囲むように従う混声コーラスもまた刺激的な発声ではない。
レクイエムであるからには死の床へたむける歌であろう。
近親の死はどこにおいても誰にしても、悲しみでなくなんであろう。
読経のなか、ひとしきり訪れた弔問と焼香のあと。
白髭の僧侶がおごそかに口をひらき、生前を思い浮かべ安らかにと祈る人へ、慰めのことばを語る。
そうした死者への心配りの様子には、国民族のちがいなどあるまいこと。
昨今、墓石に涙しないで、という歌が聴かれているという。
霊は自由に千里万里を駆けていつもそばにいるのだというのだ。
私なら俗世への心残りなどはいっさい断ち切って、黄泉の億万光年のさきに舞いゆきたいと思うが。
などと、普段日常において、心安らかならぬ自分に平静さをもどそうというとき。
この曲のもつフォーレ的雰囲気に浸ると落ちついてゆくのが分かる。
聴き始めると、導入部ですでに私が聴いているほかの音楽とのちがいにとまどいをおぼえる。
異質なのだ。
そのうちにその違いの浮遊感こそがノーマルなのだと思うようになる。
ほかの音楽がもつ現世的俗人たる喜怒哀楽を奇想天外さのなかに描き、格調だとか豪華さとかいうもの。
そうしたものがこの曲にはないと感じる。
無欲無心の境地のよろこび。
音楽で癒されるという体験を私はこの曲によって知った。
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