<この文章は商業的な意図をもって書かれたものではありません>
夢舟亭 エッセイ
2006年04月12日
幻想交響曲と展覧会の絵
常軌を逸した行動、ということが言われる。
言われるというより、昨今の、説明のつかない動機で起こる事件のニュースによく言われます。
そのとき、罪を犯した彼の精神は正常ではなかった、というふうに。
だから常軌を逸したきわめて異常な行動であった、と。
たしかに人が人を殺める行為などは、マトモな精神状態では出来なかろうと思います。
ところで、マトモな精神状態、とはどういう状態か、などという思いも湧く。
この点では昔から「天才と狂人は紙一重」と言われる。
私たちが日ごろ聴き慣れた音楽作品には、天才と冠された先人の手によるものが多い。
今年、生誕250年の期にあたるというモーツァルトや、その十数年後輩になるベートーヴェン(ということはあと十数年で生誕祭か)もまた。
天才とか楽聖と称されている。
あの人たちは非凡であり生み出した曲には、神業がうかがえる、と。
この「神業」こそ、アブなくぎりぎりのところで火花散る才能の輝きなのではなかろうか、などと思うわけです。
なにせ、かの地から遠く離れたアジア極東の、ニホン列島の今にさえ知られているバッハやヘンデル、ヴィヴァルディほかの天才たちが先に居り。
その後にも数多天才たちが名前も作品も遺している。
ところで先に「天才と狂人は紙一重」といいましたが、狂人との境目の、その紙一枚を越えたのではないかと思われる曲や作曲家もなかにはある様なのです。
そこで今回聴いた曲ふたつ。
ベルリオーズの「幻想交響曲」と、ムソルグスキーの曲「展覧会の絵」。
それぞれが「ちょっと危なさ」があると思えたりするところが聴きごたえあり。
もうひとつ共通点をいえば、とってもシンフォニックな大交響楽の醍醐味です。
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さて、狂気の匂いの一曲目はフランスのベルリオーズ。
1803-1869年の人生というから天才ともさほど違わず、楽聖とは同時代を生きた人。(モーツァルト:1756-1791、ベートーヴェン:1770-1827)
さて曲は「幻想交響曲」。
さっそく別名副題を付けるなら・・・恋狂い、かも。
良いじゃないですか。大いに恋に狂ってほしいですね〜。
なにせ昨今はエネルギーを恋に燃焼するほどマトモな話を聞かない。
人はいったい何に対して正常でマトモになれるのでしょう。
今の世は、やーっぱり、おカネかな。
おカネは現代社会で唯一「信じられ」て「頼りになる」という点では、世界共通の認識をもたれています。
だからこの価値だけは皆が異議なし。社長さんも学生さんもワぉワぉ〜、です。
そうか。たぶんおカネは安心して信じることが出来る唯一というなら、おカネは「神」なのかもしれない。
まあそういう世の中がマトモかどうかはともかく。
われらのベルリオーズ先生は、ある女性に恋をしたという。猛烈に。
その執拗さは現代でいえばストーカーとも思われるアブないほどに。
相手の女性は売れっ子女優。
だがベルリオーズの心を知ってか知らずか、次の公演先へ去ってしまった。
ですがそこはオトコ。
古今東西のこういう状況をかえりみれば、逃げ去ればこそ追いたくなるのが常。
われらがベルリオーズ先生も徹底攻めの意志をかためた、らしい。
かくして多くの難関に挑戦したベルリオーズは、彼女の心を射止めるという勝利を掴んだという。
まずは、めでたし。
で、そこまでの恋狂いの精神錯乱状況のほぼ自画像を音楽にした。
とまあそういう背景をもった曲がこの幻想交響曲。
で、恋に狂った幻覚幻想の精神錯乱、狂気夢遊状態を模写した交響曲となったということの様です。
曲中においては、どんな弾みかお相手の女性を殺害。によって、死刑宣告。
断頭台つまりギロチンの刃の露と散らんかという極限の悪夢までを、一大交響曲でさまよい歩く。
そして怪しげなもののけの凄む魔界を徘徊するというのです。
チャンスを与えてくれた麗人に感謝とはいえ、大先生は恋の病に転んでもただ起きたりはしない。
こういう何か大きな拾いモノを手にして起きあがる天才の話を聞くにつけ。
私たちマトモ? な凡人というものは、常に危ない、危険だ、気を付けようとリスク対策を言っている割には。
まあこれといったものを掴まない生まないのが、いと悲しいわけです。
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さて次はムソルグスキー、「展覧会の絵」です。
ムソルグスキーというかたは1839年ロシアに生まれたとか。(-1881)
ロシア5人組、といってもギャング仲間ではなく。
リムスキー・コルサコフ、ボロディン、バラキレフ、キュイ、そしてこのムソルグスキーの音楽メーカー五人衆だそうです。
つまり19世紀当時のロシアクラシック音楽の作曲家ライバル切磋琢磨の仲、僚友たちとでもいったところなのでしょうか。
互いに研鑽、良い意味で影響し合ったのでしょう。
ロシアは当時までの文化文明の中心であるイタリア、オーストリア、ドイツ、フランス、イギリスなどからずーっとはずれた位置にある。
したがって音楽についても後進国だった、のかもしれない。
それがこの人たちが能力をいかんなく発揮して、ロシアが音楽においてもめざましい躍進を見せつけたことになる様です。
その一人がこのムソルグスキーというわけ。
この人の曲で私はやはりこの「展覧会の絵」が好き。
好き、というよりも興味深い。
とにかく聴いていて面白い。
聴いて分かるあのマトモではない題材と曲想がです。
もちろんこれは音楽理論などの話ではありません。
そういうことはネット検索に譲るとして、あくまで一聴衆としての思いです。
そういえばこのムソルグスキーに「禿げ山の一夜」というのもある。
ヒューラーヒューラーの妖怪変化が暗躍するふうな、かなり怪しげに始まるあれ。
そう、あれもマトモであるかないかという言葉が不適切なら、どこか怪しげなのです。
だからといって冗談音楽などではない。
「展覧会の絵」は解説書など読むと、若死にした建築家である親友の個展を観て、とある。
であるならば、その下絵や設計図などがすでに、怪しげ、であったのでしょうか。
おそらくそうなのでしょう。
でもそこには実在しない絵をテーマにした部分もあるという。
ここがまた怪しく、もののけ、魔界などが見え隠れする。
ふーむ興味深いですね。
そしてまた、遺されたムソスグスキーの肖像画です。
あの目線の浮遊感が、またどこか焦点がアブなくて怪しい。
それもそのはず。
生真面目だったムソルグスキーも、この肖像画のころはアル中だったというのです。
ふーむこの人が興味を抱いた展覧会であり禿げ山なれば、さもあろうと思ったりするわけです。
そういうことを、聴く者の勝手としても、どこか頭の片隅に浮かべて聴いてしまう。
トランペットのあのラーリーラ、ラリラーラ、ラーラーラから始まって。
薄気味悪いカタコンベ(古代の地下墓地)の楽章。
そしてジャーン、ジャーン、ジャーンジャガジャーンのキエフの大門を聴き終えるまで。
怪しげなる交響楽の見上げるような音の大伽藍を楽しめる。
ですからシンフォニーサウンドファンにはたまりません。
ですが、この曲は、ムソルグスキー作曲時はなんとピアノ曲だというのです。
今でもむろんピアノ演奏のものも録音されている。
ムソルグスキーの死後、ピアノ曲には珍しい壮大さに気付いた音楽家たちはこぞってオーケストラ向けの編曲ブームを起こしたらしい。
そのなかで最終的にラヴェル編曲のものがメジャーになってしまったとか。
私などはもう「展覧会の絵」となればラヴェル版が定番です。
このオーケストラ版で知られてしまった「展覧会の絵」を生前耳にしてもいないムソルグスキーが知ったら、何と思うだろう。
などと思って聴くとこれがまた、怪しい声が聞こえそうなのです。
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ムソルグスキーの展覧会の絵も、ベルリオーズの幻想交響曲も。
具体的な対象や標題があるので、それら楽章ごとの感想もまた楽しい。
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