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夢舟亭
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エッセイ  夢舟亭    2007年04月14日


     花見とたまご


 天然自然のなかに埋まるように住んでいると、いやでも四季の変化が目にはいります。
 目にはいるというより、春から初夏などは新芽が萌え青葉若葉が繁茂しだすと、それは襲いかかってくるようです。
 山肌が一回りもふたまわりも肥えてふくれあがった感じがするのです。
 そういうことは歳を重ねるにしたがって気づき、目につくことなのですが。

 まだ寒いわい、とつい先週までコートを着込んでいたのに。
 つい先日にはみぞれが吹き舞ったのに。
 この休日に散策して歩くと、ふきのとうは薄黄緑の芽も葉も拡げてしまっている。
 つくしまでが土手にいっぱい頭をつきだしては並んでいる。

 いやそれよりなにより、さくらが。
 ピンクの花びらが開きはじめているのです。

 いやぁ思えば4月。
 学校は新入学の式。新たな年度は始動を開始している。
 となれば誰がなんといおうと、季節は春まっただ中でした。

 さくら、となれば、花見。
 花には、いや花よりも、だんご。

 和菓子屋で「花見だんご」をといったら。
 お弁当のような箱に、ぎっしりだんごが詰まったものを差しだされました。
 中を見ると、“こしあん”のもの。“みたらし”、そして“ずんだ”、ほかに“ごま”。
 それらの詰め合わせのだんごが、中を仕切った箱にたっぷり浸かって埋めこまれてあった。もう生唾ごくり、です。

 だんご、というと普通は串に三四個連なった「三兄弟」のあの姿を想像します。
 でもこちらバラだんご詰めのほうが、みんなで囲んで突きながらほおばるには良いようです。

 でもやはり・・さくらの下となれば、辛口党でなくとも花見に酒は欠かせない。

 そうそう。花見というと落語「長屋の花見」を思い出します。
 落語ではほかに「花見の仇討ち」などというのもあるし、「百年目」(当ページに掲載)にも花見の様子があります。

 いまは亡き“林家小さん”で聴いた「長屋の花見」の滑稽さに大いに笑ったものです。
 大家さんが花見に行こうと、長屋のみんなを連れだすのですが・・。

 なにせ大家というものは長屋の住人たちにとって親も同然、といわれる様に面倒見のいい相談相手でもある、家主です。
 花薫るこの季節に、その日暮し長屋暮らしの皆を連れだして、せめてこの季節この時期を大いに楽しもうというわけ。

 ここまでならば人情ばなしの「好い大家さん」の話なのだが。
 滑稽物の「長屋の花見」となれば、そうした思いやりのあるストーリーでは進まない。
 喜んでよばれた長屋の面々は、ご馳走のお重の箱の中身を知って驚きあきれてしまった。
 皆を招いた大家さんの低予算切りつめの花見のご馳走とは。
 卵焼きと思いきや、黄色く似せた、たくあん。
 たしかに色も姿も一見同じではある。

 じゃあ白い蒲鉾(かまぼこ)の方はホンモノだろうと思いきや。
 これも似せた形の白い漬け大根の厚切りという。
 まあいじゃねぇか。花見は何といっても酒さと、誰かがいえば。
 ほかの誰かが、大丈夫かぇという。
 大家はケチだぜぇと。

 では酒は。
 これも念のためにと、訊けば。
 そりゃそうだの低予算。酒瓶の中身は、お茶。

 卵焼きをパリパリで、蒲鉾をボリボリ。
 酒には茶柱つきのがぶ飲み酒で酔ったふり、となる。

 白けたそれへ、大家さんは、さあみんなとにもかくにも花見だ。大いにやっとくれ。この場は無礼講だからね、と澄まし顔。
 てっ。よく言うぜぇ。

 そんなわけで、「長屋の花見」は長屋の連中の酔うに酔えないばかばかしいお酒盛り。
 これを噺家名人たちがおもしろおかしく、そしてかなりばかばかしく演ずるわけです。

 さてこのばかばかしい話なのですが。
 現代ではいささか内容がちがってくるのが、また可笑しいのです。
 というのは、この落語に使われる似せたご馳走、卵焼き、と、蒲鉾。
 江戸当時の庶民の口には入りにくい豪勢なご馳走だったらしいのですが。
 たしかに花見のご馳走というからには、長屋の住人の貧しい膳にのぼる食材ではなかったろうと思うわけです。大根のほうが、ずーっと安かったのだろうと。

 ところが、現代のわれら庶民の今日常の食卓の大根や沢庵の類は。鶏の卵の値段と逆転しているようなのです。
 買い物となれば殿方には分からないかもしれないが、スーパーの安売りビラを見るまでもなく10個入り卵パックより、たくあん漬け一本の値段のほうが高価です。

 現代で長屋の花見を演ずるなら、高級な無農薬大根の沢庵漬けのご馳走で贅沢な花見と洒落ることになる。

 自然の野菜の手塩にかけた育成と、漬ける手間ひまの方が今はずっと高くつく。
 となれば長屋のみんなも今どきホンモノのたくあんで花見とは、大家さんも張り込んだものだと狂喜することになりそうです。

 で、重ねたご馳走の蓋をあけては、「なぁんだ安い卵で間に合わせるのかよ」と白けるオチになる。

 そして更に、今どきは・・。
「おいおい。卵など食ってホントに大丈夫なのかね。大家さんよぉ。いくらおれたちだってまさか命は惜しいってもんだぜ。なぁみんな」
 と、こうなればもはや笑いなどとれやしない。

 なにせご承知のように、鶏インフルエンザのニュースは国際的にも深刻で陰鬱な食の安全上の、大きな問題なのでありますからして。

 数万羽を飼育する養鶏家だって、まぁ考えてみれば大変な被害者ですな。
 朝に夕に日々世話面倒をみるなんていことは、これはご苦労様なことなのですから。
 もちろん鶏の一羽一羽だってあなた生きものの命ですよ。
 悪意をもった誰かのしわざの行いってんじゃねぇ鶏の病気ですからな。言ってみりゃ天から降ってきた災難というべきもんでしょう。

 とはいえ、まぁ人の口には入れられない。
 人が病気になって死んじまうてんですから大変だ。
 今日まで飼い育てた命その数万羽を、ぽいぽい廃棄できるかってえとそんなことを平気でできるなら悪魔だ。
 だけどあなた、そうせざるを得ないわけですよ。
 数万羽大量破棄ってのは、つまり生き埋めでしょう。

 思えば、やもうえぬ処置とはいえ、飼い主とてはやはり損得とは別に、見るに忍びない辛さってことでしょうなぁ。
 仕事、生業(ないりわい)、職業、商売とは言えですよ。相手は生き物コケコッコ〜。雛から手塩にかけて育つのを楽しみにしてきた生き物なのですからな。

 生き埋めってときには、許しておくれと、両手を合わせちまうんじゃねぇのかねぇ。
 飼い主ならずとも、そう感じる心が正常。真っ当だと思いますなぁ。
 数万羽を勝手に生み増やして、活かせなかった不届き者は人間社会のこちら全員かもしれませんな。

 今でもあの病原菌のことはよく分かっていねぇというんですから。まぁなんですよ。人間、科学とか文明なんてもんをあまり過信しちゃいけねぇんと違いますかねぇ。
 世の中、モノやカネを取り除いてゆくと落語になって、人の機微心情ってものが浮かび上がってくる。なんとも皮肉です。

 ちなみに私の子どものころはってぇとまだ卵などはご馳走でした。
 風邪ひいて寝込んだ私の枕元で、卵を割って溶いてくれた母手作りの、おかゆ。
 あの味ってものは美味かったぁ。懐かしいものです。
 普段そうは卵など食えなかった時代でしたからねぇ。

             記:2004/04/02


             記:2004/04/02




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