・・・・ 夢舟亭 ・・・・ |
<この文章は商業的な意図をもって書かれたものではありません> 夢舟亭 エッセイ 2003/11/29 葉っぱ 花壇に植えたら余ったのでどうぞ、とチューリップの球根を数個戴いた。 水滴が落ちるときの様な、下ぶくれの形にお尻が丸く膨らんでいる。 玉ねぎの様なその球根には茶色の薄い皮がおおっている。 養分をたっぷり含んでいるのだろうか。 尖った頭にはもう黄緑の芽を出し始めていた。 せっかくだから、その育つ様を見てみたい気がした。 そこで、片手で握れる大きさのペットボトルを見つけてきた。 そのボトルの肩の辺りから輪切りにして、ネジ蓋は外して切りとった上部をひっくり返す。するとそれは穴の空いた深めの小皿になる。 その飲み口の方を、水を満たしたボトル本体に入れる。 小さく柔らかな布きれを、その飲み口から中に垂らす。 そこへ水が浸みて、はい上がって濡れる。 小皿部分の水で濡れた布に球根を、一個載せた。 そんなわけで、陽のあたる食卓に置かれたそのお手製鉢に落ちついた球根は、気持ちよさそうに、鳥のくちばし形の黄緑の芽を伸ばし始めたのだった。 今日見ると、お尻からは山羊のあご髭のような、白い根も出してきている。 植物にとってはごく当たり前なこれら生育の姿は、見ていて嬉しく、心がなごむ。 一握りの石ころほどの塊が笑いも冗談もなく、ただ水分を養分にして吸ってはぴっと生え出した芽を、育てるだけなのに。 チューリップの芽は休むことなく伸びている。 陽が当たると、その伸びは一層は速くなるようだ。 このけなげな様子になんとも言えぬ楽しさがこみ上げてくるのは、やはりこちらも限りある命を宿して生きている生命体だからか。 命が、命に、共感するのかもしれない。 咲けば、散る。 それを知ってか知らずか・・というのは、人間の勝手な言葉。 チューリップに花の一生など分かるはずもないのだ。 聞いた話では、人間が、元気だね綺麗に咲かせておくれと待ちこがれる思いを伝えながら育てると、花はそれに応えて一層綺麗に咲くとか。 それはおそらく、人間の側の思い過ごしだとは思う。 ちいさな花にくちずけをしたら〜・・・ この自分が草花に気持ちが傾いたなどを思えば、ふふ、くすぐったい可笑しさがある。 植物の話というと、数年前に「葉っぱのフレディ」というごく短い小説絵本が話題になった。海外で書かれ、世界で訳された。 日本でもミュージカルで演じられ、映画にもなったようだ。 子ども向けかと思ったが読んでみると、大人の絵本だった。 賢者の石、という魔法魔女の話でビッグセラーとなった同時期の分厚い本があるが、あれとは違って、葉っぱ、の方は知る人ぞ知る、ごく短いお話だった。 アメリカのバスカーリアという精神医学か哲学の研究者だというその作家は、学生時代から専攻した学問の関係上、何度か他人の死に立ち会ったという。 死ぬのが怖い。と死期が迫って底知れぬ不安におののく人を慰めた。 そのなかで、誰にでも訪れる死をどう受け入れるかという問題を深く考えたという。 人生は終わりがくるもの。 死は誰にでも訪れること。 皆が恐れるそのことへ、心配することはないのですよ、という慈悲の手に思いを込めて一冊のショートストーリー「葉っぱのフレディ」を書き綴ったという。 だから、難しくも、厳めしくもない。 病院の窓口にでも置かれありそうな小冊子にも思える。 若葉茂る春の公園の、一本の樹木。 その一枝に、芽吹いた一枚の葉っぱ。 四季を生きる葉っぱフレディに、人の一生を喩えた。 葉っぱのフレディは、春風にゆれて仲間の葉っぱたちと、無邪気な幼少期に目ざめる。 やがて陽気な少年期、そして多感な青年へと育つ。 友らを見れば、楽しい者も物知りな者もいる。 同じ葉っぱなのに、皆ちがう性格は顔かたちのように異なる。 彼らの話によれば、自分が宿るここは木であること。 この一帯は人間が集う公園という場所であること、などを知る。 公園に来る人間たちは、フレディたちが茂っているお陰で、陽射しを避けて快く憩うことが出来るのだということも知る。 だから自分たちは役だっているのだと。 春から、初夏。 真夏には輝く太陽を全身にあびて、めいっぱい繁茂して、風にそよぐ。 葉っぱの生を大いに楽しみ、夢中で過ごすフレディたち。 やがて、その陽射しも少しずつ弱まる、秋。 太陽が沈むまでの時間が早まる。 肌寒さを感じる北風が吹くころに。 フレディは仲間の身体が変色していることに気付く。 紅く黄色く、紫に灰色にと。 みんな、歳をとるのさ。 歳をとる……? そうさ。ぼくも、君も。みんな、やがては枯れて、落ちる。 枯れる!? 落ちるって、どこに行くのだろう。怖いな……。 なあに心配するほどのことじゃない。苦しくなんてないのさ。 ある寒い朝。 親しかった友はそう言い残すと、隣の枝から離れて行った。 じゃあね。 さよなら……。行ってしまった。ああ、寒い。 フレディの周りから、ひとり、またひとり、去って行く。 やがて、吹いてきた風に乗ってフレディも、生まれ育った枝を、離れた。 フレディは風に浮いて宙に舞った。 そのとき、はじめて自分が楽しい時をすごした大木の姿の全体を観ることができた。 その木はいかにも逞しくじつに堂々とそびえ立っていた。 太い幹が長くまっすぐでいっぱいの枝を拡げて、しっかりとした根を地面に這っていた。 この先、いつまでも立ち続けているだろうと思えた。 さよなら…… こうして、フレディは友が言っていたように枯葉となった。 枝から離れたけれど、その瞬間はけして痛くも怖くもなかった。 ふっと、優しい力ですくい上げられる様な心地だった。 風に乗ってふわりふわりと舞い降りた。 やがて地面に柔らかく降りた。 すると、細かく千切った様な白く柔らかいものが空から落ちてきて、フレディの身体を包んでいった。 それは冷たいけれどふんわりとしていた。 フレディはそれに被われると安心して眼をとじることが出来た。 そのとき夢を見た。 楽しく育ったあの枝に戻って子どもの頃の様に春の陽射しを浴びながら、またみんなと一緒に生まれ替わった様子だった。 ・・そのようなストーリーだった。 (以上は和訳の原文ではありません) −−この小説の作者は、ひとの一生の楽しさと老いという黄昏の完成期や、死を迎えることの恐怖は無いのだということを語りたかったのが分かる。 大人向けなのに分かり易く、童話物語にしたのはそのための様です。 私は、ピアノ演奏をバックにしたNHK女性アナウンサーの物静かな朗読をラジオで耳にした。三年前だろうか。 短い物語であることは知っていたが、耳にしてみて後、朗読が済んでしばらく。 考え込んでしまった。 思っていたよりも、ずっと大人向けだったからだ。 フレディのせりふが子ども語りにしてあるというに過ぎない。 だから子どもに聴かせても内容をどこまで理解されるかは疑問だろう。 一生とか死などを即理解する子どもはそうは居ない。まして幼児となればなおのこと少ないだろう。 だから、子どもに聴かせるよりも前に、大人が聴くべきだと思う。 生まれたら、死ぬ。 分かっていることだ。 この歳まで何人かの死も看取ったし、立ち会いもした。 でもその日その時を越える瞬間の自分を考えたことはあまりなかった。 若い人や子どもたちより時間的にはずっと至近であるのに、である。 思えばこの歳でもなお、ごく身近なことであるのに意識しないことはあまりに多い。 勉強不足とはこのことだろうか。 生きるなかでは、生命のほかにも思いあぐねることが多いものなのだ。 とはいえ何よりも生命が基本である。 その意味をどんな形で見直せしめるかの手だてや役割が文学であり文芸なのだろう。 けれど、命を説き描くと、いかにも難しげに論じてしまうことになる。 それを絵本の次元で語れるところにこの作者の大きさがある気がした。 後に、俳優の森繁久弥氏の朗読CDでも耳にした。 音楽は雅楽の東儀氏。 森繁氏はこのとき九十歳。 氏は、葉っぱのフレディの絵本を手にして、泣きにないたという。 ご子息を亡くされて日が浅かったらしい。 この小説に悲しさを新たにして涙が止まらなかったと。 そこで是非亡き息子に聞かせるつもりで朗読したいと、決めた。 出ない枯れ声を振り絞り、時に涙に堪え、それでも堪えきれず。一言ひとこと、噛みしめるように朗読していた。 命、生命、人生、死、というテーマを、実に分かり易く描かれている「葉っぱのフレディ」は、近親者の葬儀に詠まれる経の響きのようにも感じる。 一枚の葉っぱフレディに、人の一生を喩えたと書いたが、人の命の時から見れば木の葉の一年、四季はあまりに短い。 だがフレディが散る瞬間に見た樹木全体の姿と比較すれば、樹齢は数百年も存在する。 人の生命時間をゆうに超えるのだ。 さらに人が住むこの星の命の永さを考えれば、一層時間比較はきりがない。 そもそも命とは、永さなのか。 などと考えているうちに、たった一枚の枯れた葉っぱの見え方が変わってくるのだった。 この小説、正確には「葉っぱのフレディ いのちの旅」。 作: レオ・バスカーリア/絵: 島田 光雄/和訳:みらい なな出版社:童話屋 から1988年10月発行、だそうです。 −−と、話している間にさてわたしの小さな命チューリップの芽は、どれくらい伸びたかな。 綺麗に咲いておくれ。 |
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