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夢舟亭
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エッセイ  夢舟亭    2009年06月10日


   映画「蛇にピアス」鑑賞の記



 金原ひとみ氏の第130回芥川賞に選ばれた小説の映画化。

 当時高校生ほどの作家が、現代社会に生きる若者が身体に穴をあけてピアスを、身体に彫ったら消せない入れ墨を、そして舌を裂いたり穴をあけたりする様子を書いた。
 若い男女が交錯する薄暗い心象風景だ。
 ちょっと見ではホラーっぽいというべきか入れ墨などがグロテスクな印象を感じる。
 それは見るがわの私の生活実感や考え方の狭さだろうか。

 数年前の当文学賞受賞の作品は二作。
 どちらも女高生の作だったことが話題になった。

 この作品と「蹴りたい背中」だ。
 あちらの内容は高校生活日常の他愛ない心の揺れだろうか。
 平穏すぎて退屈で、ウザいヤツの背中でも蹴っちゃおか。

 二作を読んでみて思うのは私世代年齢との隔たり。
 とても共感というわけにはゆかなかった。

 この世代の私はさすがに読み終えるのには忍耐が要った。
 であれば、どういった部分が理解し難いのかを説明しなければならない。

 芥川賞は描かき込まれるストーリーより、文章力へ力点をおいて評価するといわれる。
 だから受賞できたのか。
 文章、描写文作能力。
 として見ればその世代の目には、あるいは選者諸先生の目には、明快かつ巧みなもとして選ばれたのかもしれない。

 とはいえ選者間に賛否意見が種々沸いたという。
 選び残された理由も読んだはずだが・・・時代が描けているということだったろうか。


 さて、それが映画化となるとどうなるか。
 そこが私の興味であった。

 直木賞系の作品であればストーリー性にはもとより折り紙つきだろう。
 けれどこちらは文章系の作品である。難解になりがちだ。

 映画であるからにはストーリーで惹きつけるしかない。
 そう思えば、蹴りたい、よりも、蛇に、が映像化の興味は強い。


 今どきの若者は、このような自虐的に自分の身体に苦痛をあたえる気持ちが強いのだろうか。

 鼻、耳、唇や眉部。
 題のごとく、舌に穴をあけ、ピアスまで飾る。
 さらには舌を裂く者までいて、それを自慢する。
 主人公の女性は、痛みをこらえて若い背中に彫り物までする。けして消せないのに。


 それまでして得たいものはなんであるのか。
 自己の存在証明だろうか。

 というような疑問を、小説よりも明確に感じることができたのはたしかだ。

 観ていて思い出したものがある。
 作家五木寛之氏は「今の社会ほど非人間的な扱いをする時代はない」という。

 あるいは映画監督山田洋二氏が「若者は選別され区別され排除されていて可哀想だ」ともいう。

 また夜回り高校教師水谷氏の「学校では人間のクズとまで言われ徹底否定される。だから夜町にでて買手がつくなら身を売ることで自分の存在を確かめるのだ。自室では手首をカミソリで切って生きている自分を確認する」しかないという。

 ゆで卵のようにつるっとしていて、あっけらかん。
 すっとんきょうな単発言葉を仲間だけでやり取りする。
 ざんばら髪や尖り逆毛のこの若い世代は、手から目からケータイを離さない。
 私にとってはある種異様なのである。

 しかしそうした彼らのおかれた背景を思えばお三方が語る状況になって久しい。
 それどころかいっそう厳しくなっているらしい。

 労働人口の3人に1人が非正規や日雇い労働。
 いつでも切れる雇用関係だ。
 就職受難期はさらに厳しく長引きそうだ。

「努力さえすれば」「良い学校を卒業すれば」という言葉は気休めにも感じない。
 それをかなりの若者が承知してしまっている。
 希望とか可能性の言葉が空しく響いては笑い飛ばされているのだ。

 知らないのは、期待をかけて諦めきれない親たちだけかもしれない。

 そういえばこの映画には、親とか家庭、家族を語られず姿も現さない。
 つまり彼らは、それ以前もなければ、その後も語らないのだ。
 大人社会を否定しているのかもしれない。
 ただ、今という刹那があるだけ。

 定職もない若者どうしが、自分の身体を加工(?)することで飾り、苦痛がともなう生身から命を再確認しているように見える。
 そのことを共有しながら交わる。
 無気力ではないのだ。
 普通だった大人たちが売り上げ利益を共通語にするように、身体加工の程度を評価し合い、褒め、憧れて、交友を成立させる。


 それなにり収入は得ているようだが労働に生き甲斐は感じないようだ。
 普通に、一般的に、常識的には、という生活の戻り先が見あたらない。
 見ようとも探そうとも戻ろうともしないようだ。
「ホームレス中学生」のような「マトモ」な生活へ参加した思いは無い。

 いまどきの若者のすべてがこの作品的であるとまでは思わない。

 けれど将来を君たちに託す担ってくれなどと、先人としての私たちが明るく言いきることが難しい社会状況ではあろう。
 平和と幸せ追求が共通の価値観だったその先の平成時代は、思いのほか味気なく霧散しつつあるのかもしれない。

 若い熱が行き場を失って身体加工の苦しみにぶつけている姿はそうした時代の一断面ということになるのだろうか。

 流血や苦痛あるいは自滅もいとわず存在証明を確認するというなら。
 誰でも良かった、というあのフレーズで吐露される事件実行の若者たちと、あるいは同一線上にあるといえるのだろうか。


 この悲愴なストーリーの救いは、人恋しさに涙する感情、悲しみを意識する人間らしさ。
 そうした人間性の片鱗は失せていないという点が原作小説に沿ったものだと思う。



              

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