エッセイ 夢舟亭
2007年12月01日
人に成る
子どもが生まれたばかりのひとに、どんなふうに育って欲しいのか問うと、ほとんどが「優しいひと」とこたえるようだ。
優しさのことばには、どこか母親の温もりがある。
思いやりや寛容の気持ちだろうか。
駆け引きや損得勘定のない家族のように、心ゆるせる真心のひとか。
そういうことを他人にも施してもらいたいという願いが、親になった多くのひとにあるということではなかろうか。
それにより、巡りめぐってわが子にも優しさが返えされ、他人や世間に守っていただける。
優しさは他人の為ばかりではないわけで、低経費でかなり確かな生きてゆく知恵となるだろう。
ひとり谷底に堕ちて、自分の小ささと限界を知り。
差し伸べられた手に、世の中は独りで生きられないのに気づく。
そのとき初めて心の目がひらき、心に血が通うなどと昔はいわれた。
だからひとは苦しみを多く味わなければ一人前にはならないと。
苦しみ悲しみを知らないで優しさの価値は知りようがないともいった。
たしかにコンビニやファミレスの若い店員の、「・・でしたぁ〜」ふうなあのてのマニュアル挨拶があると、分かってないなぁと感じて白ける。
そういうことを正すに、昔は「他人の飯」という社会的下積み生活の経験がよいとされた。
人間関係の辛さや社会の仕組みの複雑さ。
それによる生きることの気苦労や悔しさ。
そういう実習修行が最高のカリキュラムである。
だから若いうちに受けるべき授業ということだろうか。
知恵の脳だけでは学びきれないものがあるということだろう。
カネやモノをいかに積んでも名門の机上でも、ましてe-ラーニングなどでは得ようのない実感領域かもしれない。
そういうことを、なにかの機会に、祖父母や両親や親戚のおじさんおばさんに、落語や講談でも聞くように諭された憶えがある。
あいつは了見がまだまだ子どもだ。
ひとが見えず、どうにもこまったものだ。
苦労が足りんのだ、と。
そうした解決の策として、他人の飯、ということばがよく聞かれた。
自由だ個性だ人権だなどという隙も与えず、芋のように何かにかまわず放り込まれて。
ごろごろざぶざぶと皆と一緒に揉まれて洗われる。
そうした扱われ方により、苦しく辛い思いの生活をしてこそ体得するものがあるのかもしれない。
そういえば、戦争を経験していない者は皆子供でしかない、という言葉を読んだことがる。
けして良い例ではないのだが、ここで今語る話の先にあるものの究極であろう。
針を刺せば血がでます。
神経が刺激されて痛みを感じるのです。
という形通りの学問知識ではなく。
からだの芯から、痛って! と即、痛感するに勝る理解はない。
そうした体験の後ならば、他人の苦しみにも、ああさぞ痛かろうなぁと心から共感できるというわけだ。
一人前にものごとが見え、人間関係が保てるようになり仕事を覚えて。
やがて所帯家庭を持つわけだが・・。
若いとき、口やかましい壮年の先輩と仕事をしたことがあった。
あまり多くを語り交わさないその先輩は、こと仕事に関しては後輩のどんな動作にも言葉にも注文をつけた。
後輩らの至らなさを徹底仕付けようとして目を光らせる。
私はそんな理不尽とも思える厳しさを、はい、はい、と受けていた。
すると、ひょっとして所帯をもっているのか、という。
はい、と答えた。
すると即座に申し訳なかったと詫びるのだった。
そして問いもしないのに次のようなことを言った。
昔は結婚して家庭をもつことを「人に成る」といった。
何を知っていても出来ても。人間、所帯(家庭)をもたないうちは一人前とあつかって貰えなかったと。
家庭をもてばいやでも家族の長だ。
家の代表者としての責任がのしかかってくる。
家族の諸事諸々から逃れるわけにゆかない。
いわゆる所帯をもつというのは、好きこのんで成ったとしても親や妻や子家族を背負っている。
底も見えない谷に張られた綱をふらつきながら渡っているのだ。
もちろん当人はそんなことをいちいち意識しながら日を送ってやしない。
意識はしないが、奈落の底に棲む地獄の使者の方は、ほれ墜ちるぞおちろとよだれを垂らして手招きする。
何かにつまづいて、こけでもしたら一家はそのときから路頭に迷う。つまりは地獄の鬼の手に落ちる。
そうとも知らず、ご本人は今夜は駅前のあの店あすは裏通りのあのコの店へと、寄って呑んでは鼻の下をのばして。
鼻唄まじりに楊枝なんかくわえて終電車で眠りこんだりしている。
それでもなんとかその日その日世帯主の役は果たしている。
それが普通の家長、親父である。
世間様はといえば、家族や家庭を背負って生きている者ならば、家族も省みずにそうそう無茶無責任はしないだろうという見方をする。
実際家族には鬼の手でいつ災いを浴びせるか分からない。
そのときは家族をかばい矢面に立って防戦しなければならないのが家長世帯主だ。
家庭を持つということをそんなふうな考え方でいたこの先輩は、自分もなんとか転ばずにここまで来れた。
そういうことも知らずに家内や息子娘らは・・とわらった。
そんなわけで私が日頃先輩の口やかましさに耐えているのも、世帯主のつとめを果たしている悟りからであろうと見たのだ。
そこで、いやおぬしも世帯主のお役ご苦労様なことでござるという武士の情けのようなものを感じたらしい。
どこか童顔の私はそのあとも振る舞いにさしたる違いはなかったが、それを境に一人前の「人」としてあつかって頂き、やがて責任ある役なども与えられた。
所帯をもつということは、自分はもちろん家族という人間の面倒をみている責任感に一目おかれる。
そういう面倒見の苦労を家長たるものは、つまづき転んでは身をもって体得し、皆生き抜いているということになろう。
その状態ではじめて「人に成った」と見られたということだ。
そうしてみればメゲず堪え忍ぶことが家族への何よりの優しさだということになろう。
これは時代が社会が人の考え方がどうなろうと忘れていようと、そうは変わらない気がする。
であれば11月23日の勤労感謝の日は、そうした家長たる人の優しさに慰労と感謝を捧げる日として何ら問題ないのではなかろうか。
いやおのおの方。日ごろ家族を背負ってご苦労なことでござる。
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