<この文章は商業的な意図をもって書かれたものではありません>
エッセイ 夢舟亭 2007年10月13日
ケータイ不携帯
私は一年を通してほとんどの日を携帯電話なしで過ごしている。
持ち歩こうとも思わない。
みんなそうすべきだなどとは思わないが、私は携帯電話不携帯者だ。
それで困ったこともない。
そうは云っても携帯電話は科学技術の先進性の機能の珍しさに惹かれ、かなり早い段階に契約した。今のが2台目なのだ。
でも、もともとが電話会話があまり好きではないのだ。
だから何処にいてもこちらの状況や気持ちの様子にお構いなく、向こう都合で勝手に一方的にかかってくる電話には、堪えられない。
公衆電話の利用で間に合わせるあたりがちょうどよいというのが本音だ。
出歩き移動することが仕事の方々には、気が急くことはいえ、こんな便利な道具はないと思う。
だが私は、すれ違う相手が耳に押しあて歩きに、こちらが進行を止めたり位置を換えなければぶつかるようなあれが我慢ならない。
電話中なのが分からないのかと言わんばかりの、ああした街中をゆく若者をとても真似したいとは思えない。
と、どうじに若い女性のあの姿に、CM映像を含めてもいまだセンスが良いとか理知的だと感じたことは無い。
そんなわけで、人前で見えない彼方とのつぶやくような会話は、今もって恥ずかしくてできないのだ。
だから、わがケイタイは私に忘れられ、かみさんのおもちゃになっている。
私は電子機器が嫌いではないが不信感はつよい。
エレベーターだってパソコンだって、旅客機のコックピットだって。クルマの制御機器だって、新幹線全体の制御管制だって。
誤動作はゼロではないと信じて疑わないのだ。
アンテナを上げないでも、どこからでも四六時中、受信ばかりか送信までできてしまうあの携帯電話という超小型通信機器。
私のわずかな無線通信の知識からみれば、発する電磁波の強力さいかばかりかと思う。
小型電子レンジが発するようなそれをわが脳みそのそばで扱うなど身震いがする。
まさかその程度の安全対策はほどこされていよう。
だから世界で使われているのだろう。
と、人は言う、のだが・・。
また、今では何処で事故に遭っても連絡がとれる安心安全の絆とされているようだが。
とはいえ、広範囲の震災時に連絡がとれなかったことをこの私は経験している。
所持利用されている全数の会話通話を、同時一斉に繋げる魔法の電話交換機などあろうはずないではないか。
電話会社は同時に通話できる回線の数などもちろん公表していない。けれど同時につなげる数は電話機よりもずーっと少ないのだ。
仕組みはともかく、携帯電話の使用料金。あれは高額だと思っている。
それも使用しない理由のひとつだ。
電話会社の人に聞かれたくないが、私などは10円で間に合う通話がほとんどだ。
何がどうしてどうなったと、5W1H的会話を延々とやる必要のある電話はまづかけない。
それが携帯電話だと40円はするのではなかろうか。
これを無視できるほどの金銭感覚でもなければ、高額所得者でもない。
きわめて清貧の士のつもりなのだ。
もっとも設置型の電話にも不満がないではない。
だが何よりも、動き回りながらも、休みなく繋がりを求める生活ということが、私には窮屈で考えられない。
私は、できるだけ何からも束縛されず自由で居たい時間を維持したい。
始終、四六時中、電波の長い綱でつながれた犬コロになるのはゴメンなのだ。
そういえば私はCQアマチュア無線の電話級免許を取ったものの、実際交信したことがない。
私だってその位の勉強ができるのだという見栄でしかなかった。
これも遠くの人としゃべる楽しさを理解できない性格からだろう。
ところでこの先、携帯電話は金銭を持ち歩かないで済む電子支払いの道具となるという。
電車など乗り合いの乗車券もあれでやるとか。
家屋の鍵も電子ロックで施錠開錠となるらしい。
家屋の電子機器の多くも遠距離からピッピと制御するようにするとか。
いやはや。
いささかやり過ぎもいいところ。
何からなにまでもっともらしい理由で金儲けの仕組みを施してしまうのだろうか。
まもなく私のような不携帯者はどこにも行けず何もやれないことになりそうだ。
老人の時代乗り遅れ論などは、ともかく置いといても、である。
これだけ何でもかんでも一つの仕組みに集中すると。
必ず良からぬ輩が目を付けよう。
山野の何せどこからでも、街角の誰にでも、簡単に会話でつながることが出来てしまうのだ。いや会話だけではない、メールでもWebのブログであれSNSであれ。
所持者利用者が増えればふえるほど。
悪知恵をめぐらせ小細工を労して、犯罪をくわだてる者にとってはまさに「入れ喰い釣り堀」だと思うが、いかがだろう。
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