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夢舟亭
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夢舟亭 エッセイ   2006年09月14日

    今どきの空の下


 もちろん、私がそうした事件の取材をしたわけではなく、一般紙の社会面斜め読みでしかないのだが・・

 親が、子に毒殺される様をホームページ掲載されたり、家ごと燃やされたり、殺してと頼まれてしまったり、一途な無理心中を図って先に逝かれたり、を犯した昨今の事件の子どもたち。
 その子は以前で言うところの不真面目でもないようだし、家庭もけして不幸せでもないように思える。

 子どもの犯罪件数は、戦後まぎわが最も多かったとはよくいわれている。
 これは亡国寸前の意識急変と飢餓による社会混乱の時期だから当たり前だろう。

 今、そちこちの子どもの出入りや集まりそうな場所の、たとえば本屋、デパート、コンビニやスーパー、趣味の店、百円ショップなどに、「万引きは犯罪です」とか、「監視カメラ装備」など貼られてあったりする。物盗りは今もあるということだろう。
 しかし社会的な背景は異なっている。であれば盗らねばならない理由も異なる。
 その辺の集計結果がどう出ているのか私は知らない。
 それでも戦後復興期にくらべて、最近のこれらの手口行状や動機が異なっているとは分かる。

 この手の「?」マークが湧く不可解な犯行は、最近子どもだけではないようだ。
 若親が子を捨てれば、人生の大先輩ご老人さえもが長年の連れ合いを殺める。

 話は20歳前後までの子どもたちだが。
 結果からみて、凶悪なわりに動機が深刻でない。
 一見、本人は悪びれたワルに見えない。

 どんな人間も、昨今のマスコミの機動力で根ほり葉ほり掘り起されれば、何んかかんか怪しげな言動のいくつかが見出されるだろう。
 その点では、品行方正らしからぬ私などがもしマスコミのまな板に載せられ、カメラに追い回されたなら、ワルの見本標本として保存されかねない。と可笑しくなる。
 これからでも遅くないので、近所、友人、よく出会う人や会話する人には、せいぜいいい顔愛想笑いは欠かせない。
  やあみなさん、ご機嫌いかが。
 む、これでいい。

 それはともかく。昔も、親殺し、子殺しは無かったわけではないと思う。
 楢山節考、というヨーロッパで評価された日本映画作品や、連日涙をしぼったNHK名作ドラマ、おしん、で。
 家族の口減らしとして、老親や胎内の子を葬る様子があった。

 もっとも、この例は実際よくあったとはいえ、貧しさのなかで「泣きなき」行っている。
 だが近年の事件にそういう様子は伝えられない。
 まるであっけらかんとコトを行ってしまった。という情報なのだ。

 売れるニュース。人の興味をひく出来事として。
 不思議興味の材料として取り上げるのは、マスコミ生き残りの必要条件であろう。お噂はお茶請けに欠かせない。

 彼らには、地味に時間をかけて親身になって掘り下げるひまもその気もない。
 まして、ほいまた次、と忙しいだろう。
 むだな時間も経費も省かなければとてもやって行けない。
 お客様あっての商売となれば、競争相手メディアとの売り上げ合戦は厳しい。
 だからおカネ優先を追い、人権だとか尊厳とかの胸に抱くべきものは忘れてしまう。

 犯行動機の軽薄傾向というのも、報道側の扱い方や言葉にする力や考え方、表現の違いによって。伝えきれないということは充分あると思う。
 いうまでもなく、それぞれの犯行に違いがあるわけだ。

 そして受け手の私たちもまた、現代に気ぜわしく生き長らえている。
 戦後の高度成長前後の感覚や知識、経験則で推し量れば。
 楢山節考やおしんの時代のものと今は大きく異なる。
 どちらかと言えば、これもまた近年ヨーロッパで評価された日本映画「誰も知らない」の上っ面から先には誰もが互いの心情には無関心。
 それが現風景だろう。
 米国でいうなら、ナイフが銃弾に入れ替わった「ボウリング・フォー・コロンバイン」が、現社会の断面か。

 私などの想像を超えたそうした今風の、日常の生活スタイルや当世の気苦労やストレスにもなろう強圧で不自由ななかに従属する仕事の辛さや、生き難くさがあるようだ。

 そこへ潜む差別的区別の視線や言動から受ける疎外感。そしてやけっぱちな言動などなどの、どれほどを理解できているといえるか。

 見聞きするたび直面するたびに、はなはだあやしく、ずれ落ちた意識の自分に気付く。
 気付くというよりも、ほとんど悲鳴、いや付いて行けず降参白旗、というべきかもしれない。
 若者のあいだにKY(空気が読めない)などと笑い交わされているらしい。
 だがじつは現実社会の皆が、互いの空気など読めてなどいないのだ。
 そういうなかで育ってゆく子どもたち。

 きわめて表情の乏しい、感情の起伏が見えにくい、言葉少ない。
 そうした現代の子どもたちを、古き時代の基準より所にして、今流を一笑しては。古臭ささ押しつけ心を顔に声に出してしまう。
 そういう心細い私たちの常識感覚ごときを説いて推しはかって、良しとして。
 さて大丈夫なのだろうかとときに戸惑う。

 自分の思いや考えを言葉にして、なおかつ相手に伝える能力というものは、大の大人でも、知的な仕事をしている人でも、実はかなり難しいものだ。

 たとえそういう意志をもって、真剣に向き合おうとも。
 どれだけ引き出せるか、見抜けるか、そして読めるか・・・

 職場などでも、若者の言うこと思うことすべてを、了解も賛同もできやしないで。たまたま点けたチャンネルのバラエティやお笑い番組に舌打ちの小言幸兵衛になるのに。

 それで新聞拡げては、一瞬で今どきの子どもたちの気持ちや思いが分かってしまうはずはないではないか。
 見えてなどいないのさと、わが身をこそ笑う。

 本当に、ホントに、ほんとうに・・。
 当たり前に言い交わされている家庭が社会が大人が。
 無責任で人間関係がおかしいから、ゲームが刃物や銃や小児エログロやグロテスクもので溢れてるから。
 だから子どもたちは、簡単にキレて身を売って、そして安易に殺す。と結論して良いものかどうか・・・と思う。

 憎しみ、恨みも、じつに他愛なく、簡単に殺ってしまう子どもの事件。
 加害も被害もいつ自家のことになるか分からない交通事故なみの不安。

 さて、その裏の深層にあるものが、本人さえも気付かないまま。自分を突き動かしていて。
 それは私たち大人には見えないが、実は気付くべき色のものがあったりはしないのか・・・


 どういう人たちが、なぜ、命まで捨てて攻撃加害にまわったのか。という点を掘り下げて扱うことの少なかった悲惨話に終始した911。
 その3数字で世界に伝えられた事件報道。
 振り上げた仕返しの拳の、叩きつけ先とタイミング、そして正しきはずの論を誤った。

 今になって言い捨てられる英語の国は、レバノン、ヒズボラなどの名も加わって世界に飛び交い、どこか悲しそうで複雑な顔が黒く目に付く国際ニュース。
 それへ同情の声は充分ではないどころか減る一方、と見えるのが、いとあわれ。
 だのに今、テロという一言で言いくるめられる現地の、真実は伝えられていない。

 記念特集をあちこち覗き見ながら、ふと、結論だになく思いめぐらしたあれこれ。
 初秋の夕べでありました。




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