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夢舟亭
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エッセイ  夢舟亭 2007年03月31日


     今どきの希望


 かなり前になるが・・
  将来何になりたい?
 と訊かれた子どもが、「パイロット!」と純真な顔をほころばせ空を見あげるCMがあった。

 ほかにも、「腕白でもいい。たくましく育ってほしい」というのもあった。
 知識成績よりもたくましさを、ということだろうか。

 今、たとえば、将来何になりたいかと、子どもたちに訊いたらどうだろう。
「食ってゆけりゃなんでもイイんじゃないのぉ」
「希望とかいってもさ。成れるワケねぇシ」
「けっきょく、フリーターでしょ。あんがい気楽かも」
 などとひとごとふうな返事に、そんな寂しいこと言わないで夢もって努力しなよ、なーんてうっかりオッさん風吹かしそうだ。

「ぷっ、夢だって。ばっかじゃねーの。そういう自分はドーなんだよ。夢、実現したっツーのぉ」
「けっこう空しそうな顔してるけど。もう叶わずに、たいがい終わんでしょ」
「そうそう。ガンバリ、努力、一生懸命とかいって、自分責めたりしてないのぉ」
「可哀想ぉ」
「オッさんさ。死なないでねぇ。クビ吊ったとかって、あれ、やりきれねぇからさ」
 などとカウンターを喰らいそうだ。

 まぁこれは町で見かけて聞こえてくる若者風景からの創作的会話だが。


 それにしても今どきの若者の、悟ったふうで容赦なく。そしてむちゃくちゃにも聞こえるやり取りは、私などオッさんごときでは歯が立たない気がする。

 もう大分前になってしまったが、NHK教育TVの「シャベリバ」の前身に、短命だったが実に興味深い番組があった。

 社会の知識層、いわゆる一流学識の人や、社会第一線の著名な大人をゲストにして、前述のような街角にたむろする遠慮会釈ない若者たちが、フリートークでぶつける番組だった。

 まずゲストが永年の研究成果や、日夜腐心して取り組む仕事などを、講義調に話しだす。
 それへ−−
  あんたさぁ何のセンセだっけ。
  話、なに言ってんだか、ぜーんぜん分かんねぇー!
  難しくてぇ。おもしろくねぇんだけどぉ。
  もう止めたら。
  帰ろかぁ。
  げぇ、ウソー! なんで怒るわけぇ。
  ばっかみたーい。
 と、ぶち壊すように飛んでくる声は、礼も遠慮もない友だちモード。

 通常は滅多に聞けない高名な先生の、有り難く霊験あらたかなるご講義も、彼らには聞かなければならない恩義もスジ合いもない。
「この人は有名な先生なのだ」の前提知識は無く、白紙ゼロ地点にいる彼ら。

 話し手は、今ここで興味をいだかせ心を捉えなければ耳は貸してもらえず、聴講の場は成立しないのだ。
 番組企画がわには、そうした状況において出席の著名人がどう反応して切り返し、説き伏せるかが、見せ所だったのだろう。
 放映に見いる私も、そこに興味があった。

 だが残念ながら、あまりにも出演者からの評判が悪かったようだ。
 だから長くは続かなかった。

 番組紹介など見ると、これを企画したのはNHKの当時30歳代のプロデューサだった。
 ゲストの意気込みを、番組の前で、撮った後に、感想とインタビューが付加されていた。
 最初の余裕が、焦りにも驚きにも変質してNHKを後にするあたりが見る私はニンマリだった。

 思い出せば、若者に講義をぶち壊されて、勉強してきます、と悔し涙をこらえて去った教授先生もいた。ばかにするな、もあった気がする。

 なにせ成人式に招かれた著名人が壇上で挨拶間もなく、無遠慮な若者たちが耳傾けないばかりか、私語やケイタイ呼び音に攻めおとされ。
 中途退席など珍しくもない昨今である。

 俗にいう「援交」や「自殺」は「なぜいけないの?」と、ストレート素朴な「あっけらかん問い」に大人が絶句する。
 けっきょく回答出ずの大人の苦笑顔も珍しくない。

 いやはや、今どきの若者にはただただ参ります。


 ところで出演者を苦境におとすあの短命番組のなかで、そうした手強い若者を、自分の土俵に引きずり込んでしまったゲストが居た。
 歌手であるその人は、ほんのさわりを聞かせては、もっと歌ってと若者にせがませた。
 つまり彼らの気持ちを捉えて聴き入らせしめたのだ。

 その人は美輪明宏。
「ばかをお言いでないよ。わたしはプロよ。そぉんな安っぽい要求で、歌いやしないのさ。聴きたかったらね。ちゃーんとカネ払ってショウを聴きに来な」と一喝した。

 無感覚で無礼なだけのはずの若い彼らが、このときばかりは黙して、会話は成り立った。
 歌の力とはすごいものだと感じ入ったので憶えている。


 学校では、授業はもちろん、種々な通達を行う。
 そこでは、若者生徒はみな話を聞かなければならない。
 講話者も話題を選り好みなど出来ない。

 教壇や壇上からのそれは、どんな話し方であろうと聞くことに決まっているのだ。
 大人は一方的に聞かせてやる立場だ。
 聞く義務の側に対してなら、聞きやすい話とか興味をそそる話術は必ずしも要しない。
 不満の声のあり得ない場では、論戦も論破説き伏せの術も必要無い。

 この需給関係が逆転したとき。
 聞く義務無しの対等の関係において。
 そのとき初めて、過酷にも話術の力が評価されることになる。

 日ごろ聞く義務を強いられていた者たちなら、はけ口としての反動言葉も一層あふれ出る覚悟をせねばならない。

 町中の繁華街や、駅の出口を慌ただしく行き交う人に、話しかけて気を惹こうとするセールストークやパーフォマンス能力が要求されるだろうことは想像がつく。
 声かけられ呼び止められる人とすれば、縁もゆかりも利害関係もない人に、時間を費やし耳貸す義務はない。
 そこでは学歴はもちろん、権威や知識量、経験談などひけらかして何になろう。
 今、目の前で相手の気持ちを捉えることの勝負をするしかないのだ。

 講話を行う大人の側を思えば、ウンコ坐りでたむろする傍若無人な若者ごときに、自慢の経歴や長くその道で培ったプライドを、ペシャンコにされてはたまらない。
 そういう気持ちもあるだろうし、それも充分分かる。

 これまで積み重ねたその道の実績を、真剣に披露するのへ、分かりもしないで心なく容赦なく、若者らの浅知恵と無責任な声に傷つけられてはたまるまい。

 もっとも、教職ともなれば、それなりに日夜抗弁の苦労を味わっているだろう。
 心得もあろうからまだ良い。
 その点、こつとら一般のお疲れお父っあんなどは。
 若者にとっては、取るに足らぬ相手だろう。
 スーツ姿なんてものは、そうした場では裸同然。
 世情も価値観もすでにズレているのだ。

 むろん若者をばっさばっさと論の刃で斬り崩せる大人が皆、素晴らしいとは思わない。
 ではあるが、「おじさんサ。なんで生きてるわけ?」などの一太刀に、ひるんだり、しばし考え込んでしまいそうな自分を思うと。
 やはり、くわばら、くわばら・・なのである。


                    記2004/01/30





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