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紅い靴
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エッセイ  夢舟亭      2008年03月28日


   お金は天下の回りもの



 『税金の無駄遣いは認められない』と言うと、どの話だろうと思うだろうか。
 では「1,000億+400億」とヒントを追加したらどうだろう。
 言うまでもない東京都知事石原慎太郎が立ち上げた新銀行の追加投資の話である。
 あの銀行は無担保で保証人無しで都下の中小零細企業へ貸し与え、復帰再建の支援とした。

 聞いただけで、この銀行の非採算性が分かろうというものだ。どう考えても儲かりようはない。儲かる会社なら一般銀行が放っておかないのだから。
 泣きついてくるほどお金に貧し行き詰まった客相手の金融事業だ。一般都市銀行のような利益至上主義では考えられないことなどは、私だって分かる。

 そんな新銀行を主唱提唱した人は、20歳代でニホン文学界の最高峰に昇った。
 彼が得た芥川賞の戦前戦中の作品は、自国を誇り皇国を信じさせられて、ときに疑いつつ戦(いくさ)の大流にのまれる市民の悲しさ辛さ切なさ虚しさを描いたものが多かった。それが偽らざる人の心の叫びだったのだろう。

 そして惨敗。悲哀を味わう荒廃ニッポンの戦後が始まった。
 悲嘆や無念無情感が漂うなかで、戦勝欧米から流れこむ雰囲気を自由として受け入れ始めた。そうした世情の若者を彼は書き上げた。自分と弟に見立てて開けぴろげで投げやりな自由奔放さを先駆けたのだろうか。殴りつけるようなまぶしさを描いて見せた新若者の生態「太陽の季節」がそれだ。

 その衝撃は文学界にとどまらず多くの人たちの心を波動した。それまでの生き方では着いて行けないほどの揺さぶりであり、ニホン文学の曲がり角でもあったろうと今にして想像する。本来文学は善悪常識を論ずるような、そんなシンプルなものではないということだ。
 映画化された作品イメージそのままを背負って、スターに祭り上げられた弟(裕次郎)が後に作家兄以上の存在となったことは、私などが論ずるまでもない。

 兄慎太郎は後に国の政治に道をとった。そして支持されて都の知事に選ばれた。
 今、世の皆が彼の企てに非難の声高く、かまびすしい。
 であればこそ異なる少数派の考えを巡らしてみたいのであ〜る。
 ここでことわっておけば、これは石原兄弟への好き嫌いのごとき話ではない。

 採算のとれていない銀行に反対異議を叫ぶ人の思いは実に単純明快だ。
  貸しても儲からないことを続ける銀行など存在意味はない。
  損は見えている。都民の税金をドブに捨てるだけだ。
 けれどその声を知らぬはずもない都民選出の議員たちの採決は、「継続」。「税金の追加投資」を支持した。

 面白いではないか。
 私はここで思い起こしたことが三つある。それをちょっと話してみたい。


 一つ目は、2006年のノーベル平和賞を受けた「貧者の銀行」。
 貧困層の経済的・社会的基盤の構築に対する貢献、と称えられたムハマド・ユヌス。
 種々の報道で目にしたことだろうが、83年から自国で低金利無担保融資を開始したというバングラデシュの人だ。軽い条件でなければ借りられない人が客であり、「底辺からの経済的および社会的発展の創造に対する努力」が受賞理由だとか。

 2,226の支店を持って72,096の村で行い、667万人に借した。97%が一般銀行の客にはなりえない女性たちだという。(『ウィキペディア(Wikipedia)』参考)
 誰でも分かることだがこうした事業企ては、理想が高ければたかいほど失敗すればただのお笑いぐさだろう。そういう紙一重のところを越えて周囲の嗤いが消えるまで来て、やっと認められるのではなかろうか。

  金もない者に金を貸し与えるなんてばかだ。
  それみろやつらが返すはずなどあるものか。
  いったい経営感覚などあったのか。
 そう言われるたぐいの企てだったろう。

 しかし無条件で借りた自活自営を成す人の多くは無責任でも非情人でもなかった。その成功は、貸付金返済率98.9%であったこととノーベル平和賞が証明しているのだ。


 さて二つ目。それは、ねずみ小僧の話だ。
 ねずみ小僧次郎吉。とび職という身軽さをもって、大屋敷に忍び込んでは大金を盗み、貧しい人々の家にばら撒いた。

 そういう義賊の異名もつ江戸伝説の人だ。盗んだ総額3000両とか。
 有り余る所から無くて困っている所へお金を移動する。と言ってしまえばそれまでだが、独りで行うには意志と行動力が要る。なにせ捕まれば市中引き回しで死刑。命がかかる。

 もちろんこの話のどこまでが本当か分からない。けれど芥川龍之介、大佛次郎、吉行淳之介、直木三十五、菊池寛・・と文人が盛んに取りあげたと言われる。弱者救済の心意気が喜ばれた話なのだ。
 そうしたものが惹きつけるのは何んだろう。それが人の心情というものだと思う。

 言うまでもなく石原慎太郎も文人である。
 政治力によってねずみ小僧義賊伝説の辺りを表現したのだろうと言えば笑うだろうか。


 さて三つ目。
 小石川養生所をご存じだろうか。
 別名「赤ひげ」の名で知られた貧民救済医療に身をささげた江戸の医師。その病院である。
「赤ひげ診療譚」という山本周五郎の小説で知られている。映画やテレビドラマになったからご存じの方も多いはず。

 小窓からウィキペディア(Wikipedia)にこの施設を見たら、「江戸時代に幕府が設置した無料の医療施設」とある。享保の改革で下層民が増えた対策のひとつ。幕末までの140年間貧民救済の施設として存続したともある。

 江戸中期の将軍政治は市民への目を失わずにいて、下層民対策に人もお金も投じて行ったということのようだ。この対策の目的に、現代でいう金銭的利益や採算性という基準があったとは思えないがどうだろう。

 また、今とは比べようもない血税年貢米を献上をする民百姓は、無駄金である、と思っただろうか。


 ここで話を新銀行に戻すと、「税金の無駄遣いは認められない」と言う声はもっともなご意見だ。
 たしかにこれほどの公金を、ねこばばしたとか懐中にしまい込んで取り澄ましているというなら、私だって許せない。

 では今回の無駄金と叫ばれるお金は、どこに行くのだろう。どうも個人の飲み食い費用やポケットではないようなのだ。
 大企業の劇的競争を陰で支えつつ絞られて潤わず。グローバル化で押しよせる高波にもまれて浮かばれず。息も絶えだえの町工場など小規模零細な会社の生き抜く糧になるという。

 新銀行から貸し受けたお金で必ずしも息を吹き返すとは限らない。死に水にも似た借金でしかないないかもしれない。つまり返せない可能性が高い借金。だから一般の銀行は見向きもしないのだ。都中の銀行に認められるくらいなら、新銀行に借りに来くる必要はないのだから。
 そうした寄る辺ない人々に手を差し伸べようというのが新銀行の存在理由だ。

 ここに及んで都下の一般銀行のように、返済率の高い採算性を考えろ、銀行を再建せよというなら、話は簡単なのだ。返せないなと思えば貸さなければよいのだ。返せる見込みのある会社にだけ貸せば、利子も得られて儲かる。分かり切った勘定だ。
 だがしかし、それでは新銀行の存在理由は無くなってしまうと思うがどうだろう。

 中小であれ零細であれそれぞれの会社には従業員が居て都民として生活している。税金を納めているのだ。失業すれば失業保険や生活保護という都の出費は増す、当然税はあがらなくなる。つまりどういう形をとっても都のお金が要ることになるのではないか。お金はどう使うのが良いのか。その基準は採算性か。新銀行の採算性を保て誰が何を得るのか。

 採算性を度外視したことで労働の場と職が残せる。そこに居る人の人間性や尊厳を保つことは無駄なのか。
 銀行が儲かって市民が苦しんでどうなのだという話だ。これは経理や経済理論でもなければ、金額勘定とかの狭い枠で云々すべき話ではないのではなかろうか。

 そこで人々の表情や心情を読み探る文学世界の話として読み解きたい。
 文学に興味ない人には算術的利益算定しか興味ないのだろう。そういう人には書店に山積みの流行書やノウハウものがお似合いなのである。文学は心情描写その表現を行い、味わうものだ。

 文学は自分の脳で考えないでマスコミに同調する人にはそぐわないのだ。
 そして新銀行は、巷の、市井の、町の片隅に迫り来る貧苦を押しのけおしのけ、家族を支えながら老いてなお、わが身も省みないで町工場に出向いて汗する人々などが客である。

 本来CMなどに見る金融業なら、そういう人たちの思いや心情を考えては成り立たないと百も承知のうえの話である。

 今、大企業でさえ労働者の条件が膨大な利益に見合う賃金改善をしないままだ。それを見かねた首相が、今の好業績は労働者の努力の賜物である。せめて露ほどでも労働者に振る舞って還元せよ。と春闘を前にメールマガジンで唱えた。そこまでの首相の出しゃばりがなければ賃金が上がらない経済大国なのだ。それほどに従業員の生活苦に思いをめぐらす経営者などは居ないものだ。
 その国の首都において貧苦の瀬戸際で働く人々が一抹の望みを託すお金。それが新銀行が、今までとこの先失うだろうお金の行方となれば、さていかがだろう。

 少なくとも、消えて無くなったり私腹を肥やした年金の不始末とは、まったく意味が違うお金の使い方だと思うのだ。
 もしもそのお金に勢いが付き知恵が出て、中小零細に活気が沸いて好結果に向かったなら。それを大企業が搾り取らず潰さずに支援したならば。やがて石原知事にノーベル平和賞も検討されるかもしれない・・。


 ここで、もう一つ考えなければならないことがあると思う。
 先のノーベル平和賞の例だが、人は親からもらった名を名乗ってまでして頭を下げた約束で借りた金は、返えそうと思っているという事実である。
 この経済大国ニッポンでもそこに大きな違いはない気がするがどうだろう。

  しかし、恥ずかしながら……返せない!
  誠に申し訳ないけれど、返したいのに頑張ったのに、どうしても返せない。
  悔しいけれど手形が……。
  せめてあの契約さえとれていればどうにかなったのに。
  材料が購入できていれば。
  加工機械が買えていたら。
 無担保無保証までして救済の手を差し伸べなければ、再建の試みもメドも立たないで泣いている経営者も居るというこの事実を考えれば。

 ご立派な経営状況に胸を張る銀行には見向きもされない中小零細企業と、そこで生活している都民。
 そこに目を向ける石原知事の思いも大切なのではなかろうか。文学に無関心な人であろうとなかろうと、この点は無視して欲しくないと思う。

 そういう私も、じつは石原知事は「採算性の合わない会社など、どだい存在価値はないんだよきみ。当ッたり前じゃないかぁ」と言い切るような人だと思っていたのだ。
 人は言ではなく行いを見て判断せよ。親が教えたまえし言葉だが、まったくだ。

 犬猫鳥やイルカの災難でも、マスメディアが報ずれば真面目腐って同情する国民の軽さやバカさが私は嫌いだ。その副作用か、ちょっと自分で考えるだけで気づくことまでも分からない人がいる。つまりおバカさんだ。その危機感が、私がミンポーを見ない理由だ。

 あまりにも無駄な巨額投資であると驚きの声が大きい。
 だがしかし、この額が多ければ多いほど、じつは経営難の会社が多いということだ。苦しむ人々が多いのである。という点には気づかないだろうか、ということだ。

 そこで思うのは、それほど存在する経営難の会社救済が、本当に税金を捨てることだと言ってよいのだろうか。追加投資を止めて新銀行を閉鎖したとして、中小零細な会社と従業員や家族をそのまま見捨てることが健全な税の使い方か、ということである。

 地方のシャッター通りなどにも、この種の新銀行があればなぁと、羨やみの声が出ているとは思わないだろうか。
 新銀行が上手く行けば安全確実な銀行の客は減る。それらを取引相手にしているマスコミはどう報じたいか。彼らにとって、市民とは、聞かせ匂わせ都合良く傾かせるべき消費行動癖をもつ偶者の群れなのだ。

 石原銀行と揶揄されるこの件は、税の無駄遣いかどうとかの表面的な問題ではない。
 国内の中小零細事業の行方をどう考えるかという、農業政策にも負けない国家的命題だと思うがどうだろう。



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