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夢舟亭
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夢舟亭 エッセイ     2006年12月19日


      生きる


     − 家庭 −


 壊れた家庭は、経済的に貧しい家庭よりももっと貧しい家庭である。
 そう言ったのは、マザー・テレサ、とか。

 わが国で今、子どもの教育にかかわることの多くがとり沙汰されている。
 見聞きするに、保護者のはずの両親が夜昼働きづめでなければ、家庭が成り立たない家族があるという。
 子どもの顔もその思いにもかかわる暇なく働きづめにならざるを得ないのだというのだ。
 であるなら、やはり貧しい社会ということになるのだろうか。

 老いた人が、先の暗さ寂しさに。
 大人が、眠らずに働いても、職を失い生活に行き詰まって。
 子供が、夢希望を見いだせず、疲れた心で自殺したり。
 若い夫婦が、浅はかにも別れたり。メディアがそれをブーム視したり。
 親が子が、無情非情な殺し合いをしてしまったり。

 となれば。
 それらは家庭が成り立ってないからではなかろうかという声がある。
 そうし向ける力が、不完全なクニの仕組みがあるのだろうか。

 社会は、個人の集合体であり。
 利害などない心のより所として、防波堤や砦、あるいは逃げ場安息所となるのが家庭だろう。
 そこには代償、みかえりなど望まないで、ただ無償の愛を注ぎ合う家族が居るはずだ。

 そうした家庭で支え合う家族どうしの心を、壊さないように。
 支援して守ることが、健全な社会(国)の姿なのだろう。

 少なくとも、繁栄や発展という美名で飾って。
 産業の、史上最大の利益が個人生活、つまり家族の犠牲のうえに優先されるなら。
 けして健全な社会とはいえないのではなかろうか。

 誰にも強制されず、仕組みや組織に制限をうけずに。
 そうした健全さを、より豊かにする芸術文化の美術や音楽、文学といったものを求めうる環境も提供されるべきだろうと思う。

 皆が健全な社会実現を願ってこそ、身を斬られる思いの糧の一部を社会参加会費(税)として支払うのだから。



   − 老 −


 今どきは、他人にあまり深刻げな話などすると、もの分かり良さそうに見える中高年層とて、意外にドライな反応をする。

 まして若者なら、そういうことはお断りとばかり席を立ってゆく。
 その若者が向こうの窓際で、ケイタイを耳に長々とニヤついていたりする。
 目の前のリアルなウザさより、どこか遠方ケイタイ友の気楽さが良いということだろう。

 深刻な話、と一口にいっても、いろいろある。

 身の上話、事故や災害被害の苦労話、職場の悩み、金銭トラブル、家族や縁者知人友人の生老病死ほか。

 病院の待合室などで、隣にすわった老女がむかしばなしを始め、問いもせぬのに家族のぐちへ発展。
 置いたはずの通帳が、はんこといっしょに見つからない。家中であればおそらくは……。

 言わずにおれないこともあろう。
 聞いてほしいものも溜まっていよう。
 そのやりばの無さに孤独がかいまみえる。

 たしかに若者にかぎらず、他人の家族話を聞くのは気が重い。
 メモをとらんばかりに聞き入るのは私くらいだ。


 そういえば近ごろは老人のぼやきの場も減ったのではなかろうか。
 私が憶えているのは、むかしの乗り合いバスのなかだ。

 待合のときから相手を見つけて。
 逃がさずに隣席に乗り込んでは、語る老人の揺れる姿をおもいだす。

 そうしたときの話題テーマ、ベストワンは、嫁の口説き。
 口説き、といっても愛の語りかけラヴコールではない。
 ぼやき、悪口、ケチつけ。

 何でまたあのように、同居の嫁さんを悪者役に仕立てるのかと思ったりした。
 もとが他人とはいえ、聞いていると息子が選んだ女性は、まるで鬼女なのだ。

 料理食い物が口に合わず、甘い辛い油っこい。盛る量に差がある。
 言葉が乱暴で気遣いがない、優しくない。
 茶のたてかたがなってない。
 化粧が濃い、髪型がどうで、無駄銭をつかう。
 何かにつけてお里(実家)と較べて嫁ぎ先を悪くいう。

 そうした日頃の不満を次々に吐きだす。
 しまいには、おのれの哀れさに、深いしわの溝幾すじかを涙でぬらす。


 もっとも聞き手にさせられた人は、たいがい話半分でうなづくのみ。

 なかには、お婆さんそういいますけどあなた面倒みてもらってんのよ、自分がサイフ握ってやりくりした若いときと違うの。
 分かるかと、老人の意識改革を試みるご婦人もいた。

 いやそういうがあんた、そもそも今どきのおんなは年寄りを大事にせんですぞ。
 と爺さんが、咳き込みながら唾をとばして、力む。

 かとおもうと。
 うむそりゃぁ息子さんもいかんいかん。
 と、寅さん映画の笠智衆ふうに受け入れて応じるご老人もいた。

 若い私は、大人風景を向かい座席にみては陪審員のように、どちらがだれがと善悪を思う。

 ・・と、とうの老女は。
 目的の停留所近くになると、解決したわけでもなかろうに気の晴れた顔になって。
 歯のない口元をもぐもぐしながら、さいなら、と立ちあがる。

 あの婆さんは、周囲の同情やご意見など何度もきいて分かっていたのだろう。
 ただただ他人の声がほしかったのだ。
 嫁さんにだって、口ほど不満があるのか、はなはだあやしい。

 そしてまた。
 応じた人たちも、ほどほどに会話を愉しみつつ、老女の心情は百も承知だった。と思えてくる。
 つまりはどちらも、大人なのだった。


 いま若い人の精神年齢は、昭和のあのころの人と較べると、10歳ほど差し引いてかんがえたいといわれる。
 まもなく、来月にまた訪れる、幼稚園児を思い描いてしまう成人式風景。
 あれを思えば、マイナス10歳の話は、あながち戯れ言ともいえないのだろう。

 若い人がマイナス10歳なら。
 われら高壮年もまた公平にマイナス10歳か。
 あるいはプラス10歳か。
 人生50年といわれた境も過ぎて。

 今、「いんた〜ねっと」と洒落てはいるが。
 そういいますけどお爺さん今はね・・の若い応答とてない。

 閉じた部屋から、早くもむかしを美化してもちあげて。
 目に付き耳に入る社会風景を嫁さんにかえて。
 さほどの不満ともみえずにグチっていたりする。

 人はこれをごくふつうの老化という。
 落語の小言幸兵衛的ジャーナリズムなどは、だれにもあるものさとほほえむ。

 いやはや、人生わずか・・80年をゆうに超えるという。
 うむ、こうしてはおれまい。





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