夢舟亭 エッセイ
2006年11月19日
創作: **さんへ「音楽の感動」の返信メール
音楽!? 感動してますか、ですって?
冗談じゃないですよ。
この私などは、ですね。毎日まいにち、もう感動し過ぎてもう、と言いたいところですが……。
実際、正直なところ、この手のはなしは、痛いな。
キタチョウセンのモンダイでも問われたほうが、ずうーっとキータッチがはかどるなぁ。
それにしても意地悪だな。
うーむ、感動ねぇ。いや、参りました。
逃げていたのに捕まってしまった。
真正面から、厭ぁな質問を一発、直球でぶつけられちまった。
仕方ない。正直もうしましょう。
苦手です!
感動とか芸術となると、もういけません。
ほら、以前に「楽しむ」という話があったじゃないですか。
あの時も無視しました。
あれも鋭い槍でひと突きされた様で、返事に窮したのでず。
窮すると言うより、不愉快だったなぁ。
うーん。なぜだろう。
他の同年輩の方々がどう考えてるかは分かりません。
教養、といえば聞こえは良いが、音楽というものは、芸ごと。所詮は遊びじゃないですか。
観たり聴いたり踊ったり。
浮かれ楽しの話でしょう。
これは古い言葉でいうと「歌舞音曲」。戯れごとですね。
音楽、まして西洋モノとなると、わたしのようないなか者には、なじまないですねぇ。
このわたしは、どうにもピンと来ませんな。
たとえば本読みや文の綴りの方なら、読み書き算盤(そろばん)と躾けられましたから、生活する上で困らない程度は身につけました。
しかし、それはあなたがおっしゃるような、胸の奥がざわめくとか、何かを感じて心が高ぶるような文学的感動、なんてものではない。
わたしなどの読み書きの話は、感動なんてものには無関係です。
せいぜいが新聞雑誌記事で、在ったこと見たこと聞いた話を伝えるために書かれ、それを読む。
書くというのも、確かに書くことはしますが、箇条書きの用件書や届け出書。
これもまた心を熱くするなんてものには無縁です。
ふふ、そりゃあ請求書の予想外の額に精神的ダメージを受けたりはします。
だがまぁそれは、心よりもフトコロへのショックですからなぁ。
読んで感動というと、よく名作小説をいう。
だがあれは皆造り話でしょう。
人が頭のなかで想像してデッチ上げた怒ったり悲しんだり喜んだふりの、ウソんコの話ですよねぇ。
いい歳した大人が読んで、思わず熱が入ったり、悲しみがこみ上げてくるほどのことなど、いったい本当にあるでしょうかね。
そういうことが「感動」というのでしょうが、どうも鈍いわたしは経験ありませんや。
そして、おっしゃる「音楽」の方です。
単に、好きだ、快よい、いいメロディーだ、という表皮一枚ほどの感じなら、こんなわたしでも無いこともないですがね。
でもそういうことが大人が云々する感動だとかいうものだとは思いませんのです。
音楽を聴いて心の底まで酔ったとか、生き方がひっくり返るほどの感激をしたなど、さてじっさい有るとおっしゃるのでしょうか、音楽に。
まぁこの広い世界なら、あるいは一億有余の人が住むクニ中にならば。そういった感動を味わって、すっかり世界が変わって見えたとおっしゃる方も居られるのでしょうよ。
音楽に心酔なさるお耳の人も、居られるのでしょうね。
思いますに、そうした方はわたしなどとは違うお育ちなのではありますまいか。
暴言を許して頂ければ、極めてお上品で、何の苦もない家庭環境にお育ちなのではありませんでしょうかねぇ。
自慢する気はありませんが、わたしなどが育った家は、親の財布に余銭などいつも無い。
米びつはいつも空っケツ。
そんな貧農です。
家族があまり気の毒に感じて、道を誤ってみるとかグレる暇さえなかったのですからねぇ。
だからクラシック音楽なんてものは、とてもとてもわたしなどとは関連付けようもない。
ふふ。小学から音楽授業では、何の役にたつのだろうかと思った方です。
いつも悪ガキ友と白けながら、あくび狂奏曲でした。
わたしたちは中学では大人顔負けなほどに、田畑に出て農作業をこなしたものです。
当時は農作業が学業などよりもずーっと大切に考えられていた時代でした。
なにせ食物は貴重だったのです。
今では信じられないでしょうが、たった一粒のごはんだって、残すななどと言われるまでもなく、残せませんでしたものねぇ。
そういう食物を造る農事仕事は、親や大人といっしょにやって当たり前。
子どもの手だって一人前一人分。半人前と思われることこそ恥でした。
子どもだからなどと味噌っかすに扱われる、大した仕事もさせられない方が辛い。
今の子どもは「ベンキョウがあるから」と口にすれば、家事はもちろんお手伝いなどフリーパスで免れますね。
いやもともと子どもの仕事などというものは存在しない所が多いようです。
買い物お使いさえも、させないというのですから驚きです。
当時わたしが一番辛かったことは、力仕事をさせられるなどよりも家族が混乱すること。
それは父の暴力によって起きだのですがね。
逆らったり刃向かう者は居ないのです。
父親というものは家庭ではそれほどの権力を握っていたのでしょうかねぇ。
今なら家庭内暴力か虐待でしょう。
家族の誰かに暴力の矛先が集中するというのではなく、父単独の暴れなのです。
そういう中で辛かったろう母の表情を思い出すと、堪えます。
わたしの母ってものは、父が酔ってグダ巻いて暴れても、静まるまで耐えている。
そんな人でした。
今なら、信じられなーい! と家事などいっぺんに放棄されますなぁ。
いや下手すれば離婚でしょう。
当然です。
だが母はいつも同じ。朝から夕方まで農作業を独りでだって終える。
そして家に戻っては、食事の支度です。
それへ酒が少ない足りないとグダ巻く父。
難なく済むと、母は後片づけ。
終えては繕いものなどしている。
それへ父は罵声を浴びせて物を投げつけたりする。
涼しい顔の母に無視されているとでも感じたのでしょうかねぇ。
まあ当時、母の方が一枚も二枚も人間の出来が上だったと思いますなぁ。
父から見れば、親ほどにも賢かった。
暴れ果てては酒臭く横たわる父。
その間、片時たりとも身体を休めない母。
そんな母を姉も妹もわたしも、夜遅くまですべきことを終えるまで手伝ったものです。
何不満いうこともなく、もう寝なさいと、実に涼しい目だったのをお憶えてます。
そんなですから、いつかは父が振り上げるあの腕にしがみついて、ひっ掴まえてやる。見てろよぉと思ったものです。
心無い者、という言葉があるが、暴れる父こそがそれでした。
しかし今思えば、心無い者なんて居やしない。
人は、心失うときがある、というのが正しいのでしょうね。
あの父も働くときの姿は、それはそれは素晴らしいものがありました。
酒さえなければ、ということですかねぇ。
当時の酒には悪酔いする成分のなにかが混じっていたのでしょうか。
それにしても酒酔う者のなんと多かったことか……。
そんなことを気易く言うと、アル中厚生施設の人が「分かってないなぁ」と苦笑するとか知人が言いました。
酒アルコールの生産量でも調べてみなさい。現代CMは女子どもも見てるんですよとね。
それはともかく。
人は皆、四六時中、365日の全部の日を、神の様に陰ひなたなく、善人面を続けられるものではないのでしょうね。
わたしはそういう人などは、居ない気がすると父から学びました。
現代のパパさんたちは、言うにいえな憤懣や不安をどう処理消化しているのでしょうね。
当時の父たちは、そうした諸々の割り切れない叶わない事が噴出したとき、悪人になる。
その瞬間、家庭で暴走したのではないでしょうか。
いえいえ、そういうことは身に覚えがありませんとか、他人事です、などとは言わせませんぞ。
人は生きているだけで不要なエネルギーはどんどん溜まって行くものです。
生きている、ということは不要なエネルギーを生みだすことそのものではないでしょうか。
良く生きる、ということは、この不要なエネルギーの消化方法を持っているということだと思いますよ。
当時ははけ口が極めて少なく、身近の家庭で放出したとだけだったと思うのです。
昨今の不可解な事件の報道を見ていても、つくづく思うのですがいかがでしょう?
話がかなり逸れてしまいましたが、ともかくそんなわが家でしたので、朝夕の食膳はきわめて質素でした。
それを家族が押し黙って済ます。
そういえば今どきのように、家族でどこかに旅行に出かけたり、親子遊びの経験もなし。
身近にあった唯一の歌舞音曲の盆踊りの夜でさえ、わが家では野良仕事のための作業をしていたほどです。
ぴーひゃらどんどんの笛太鼓に、そりゃそりゃとお囃子も聞こえた神社の広場に。
提灯があかく並んでいたのに。
楽しい盆踊りに行くなとは、誰も言ってない聞いてないのに。
なぜ私たち親子は行かなかったのか。
今思うに、労苦の毎日に慣れすぎ、染まりきってしまっていて。
浮かれ楽し気分が自分たちのものだとは思えなかった。
向こうの別な世界のものとして、反発さえ感じていた気がします。
だから川向こうの人たちは勝手に楽しめばいいと、唾吐くようにばかばかしい他人事と信じ込むことにしていたのだと思いますねぇ。
あの雰囲気は、自分たち家族にはどう見ても聞いても馴染みそうにないのです。
楽しむこと楽しむ者を羨む反面、憎しみに代えて胸の内に溜めて。
それをバネにして日々の生活に耐えていた。
そのうちに、楽しもうにも楽しめない気質体質になっていたのだと思いますねぇ。
あの頃は、ほとんどの家が、多少の差はあろうが似たような気質だったと、後に母が言ったものです。
永い間の貧農は、望んでも得られない暇や遊び楽しの欲は控えるものだという習性ですね。
父さんだって、あれで精一杯だったんだよとわらったものです。貧農とはかように、生きているだけで、生きてきたことが、辛い存在だったということでしょうか。
そんな家逃げちまったら良かったろうと言い返したことがありました。
ばか。そーんな恥ずかしいことが出来るもんかぃね。逃げてどこへ行けたというんだい。
母はそう怒っておいて、またわらうのでした。
思いおこせば、母方もまた似たような貧農でした。
小作農家とはかくあるもので、夫婦とはかように生きるもの、というわけですかねぇ。
馴れ、とは恐ろしいものです。
そういう親子共どもが、屋根の下で暮らしてもさほど苦しみとも思わなくなっていた。
となれば、楽しみ喜びを感じる脳のほうは、すっかり干涸らびて、こちこちに固まってしまったのも無理はない。
楽しみ喜びの気持ちなど湧きようも感じようもなくなっていたのでしょうなぁ。
今にちアフリカ避難民や困窮生活の映像が入ってきますね。
まさかあなたのように、あれらの人々に「日々感動してますか」と問えますか。
間違いなくすさまじい皮肉に受け取られますよね。
それで足りずに、ぶん殴られるかもしれません。
それと同じことを言っていると思っていただきたいな。
そんなわけで、生きるなんてものはとくに楽しいものではない。
わたしたちは、全身の細胞の一欠片(ひとかけら)ごとに、生きることは楽しくはないと、写し込まれて育ったのかもしれません。
ですから、西洋の歌舞音曲、音楽などを、聴き興じる心の隙間などどこにも無いのです。
言っておきますが、これはわたしの努力の無さや、音楽を聞き違え、誤解しているなどでは断じでありません。
だいいちあなたがいう音楽が、ですよ。
清々しかろうが、甘美であったり、厳粛荘厳であるとか、陽気だとか、華やぐ気分とかあると、言われる通りだとして。
わたしのように、すっかりくすんでしまった虚しい心を上向きにできる、などといえますかね。そう、音楽というものがです。
言い方を下世話にすれば、音楽は空腹を満たす、と言えますか。
とはいえ、今ではニホンも表面的には、昔の貧しさや陰うつな暗さを忘れてしまうほどの、黄金島極楽島、平和ニッポンとなっています。
そうした浮かれ楽しの渦中に、このわたしでさえ生きておると、あなたはよくおっしゃった。だからもう少し、芸術というものを受け入れて愛しなさいと……。
たしかに、仰るようにどの家も皆、音に光に楽しんでいるように見えます。
優しさゴッコのお造りイベントも楽しんでいるのを見聞きします。
誕生日はもちろん、父の日母の日、老人の日。バレンタインディーにホワイトディー。お彼岸にお盆にクリスマスにお正月。雛祭りに端午の節句。七夕に・・・。
浮かれ楽しの日は、年々生みだし作り増やしては、商戦のカモになって、悦ぶ物物交換。
物さえ有ればシアワセ。
わたしに言わせれば、庶民にとってそれほどにも物が無かった時代が永く辛かったのだという何よりの証拠です。
物さえ有れば、を裏返せば・・物がなければ夜も明けない。
もう少し。少しでも多く、大きく、いっぱい……とその量で損得を論じる。
飽くなき物を求める根底にあるものは、貧する不安なのでしょうか。
ふふ。
と、まあ相変わらず、楽しみとは距離をもって斜に構え。
批判言葉のひとつも述べないと落ち着かない、わたしです。
トラウマ、とはこのことでしょうかね。あなたにはありませんか。
たぶん、わたしが意味もなく浮かれ楽しの組みに加わる良い思いを拒むのは、そいうことに背を向けたまま亡くなってしまった母に、申し訳ない思いがあるのかもしれません。
そう、そう。母といえば、わたしが歌というものに涙腺が弛んだことが一度だけあります。
美輪明宏の「ヨイトマケの歌」。ご存じですか。
ご承知のように、ヨイトマケとは日雇いの、土方仕事のことですね。
母子家庭の母親が、子どもを食わせ育てるためにシャベルやツルハシを手に、道路の工事作業をする様子と、それを目にした子どもの思いを歌ったものです。
武骨な男ばかりのなかに混じって、負けずに汗かいて、精一杯身体を動かす母親の姿を目の当たりにしてしまった男の子。その胸に湧いた感情です。
いじめの中で浴びせられる「ヨイトマケの子」に、恥じて逃げ出した自分こそ恥ずべきなのだ、と自覚する。
あれを偶然テレビで観ましてね。
腹から湧き出るような、異様に思える歌い方に、これは何んじゃいなと驚き。
歌が理解できてくると、どうしようもなく泣けてきた。もう、ぼろぼろです。
ああ自分ももう少し孝行出来なかったものか、と切なくなってしまいまして。
わたしが唄を聴いて泣けるというのは、思ってもみませんでしたもんねぇ……。
でも、断っておきますが、これはあなたの言う「音楽の感動」というものだとはまったく思いませんよ。
まぁ言うなれば涙の袋が弛んだ老齢のせいでしょう。
あなたが言うような、偉大なる聖なる音楽家の精神活動の成果物とかいう、清く美しい音楽とわたしのような者が聴いて泣けるものが、おなじ「音楽の感動」だなんて。
そんなことは絶対に違うに決まっているのですからな。
だって考えてみてください。
おなじはずなどないじゃないですか。そうでしょう。
衣食住に満たされているだけでも有り難いのに、もっと楽しい悦びがあると、ムリにも綺麗な衣装を身につけて奏でるヴァイオリンのあの妙なる調べ。
否、ひ弱な擦り音ってものは、わたしの肌には合いませんよ。
ですから、あれではとても泣けません。
そうそう。大の男が、愛とかラブとか、実感も掴めずに口走るあれを、若者の歌やドラマで聞いたときの、背筋に流れるあの薄気味悪い冷や汗。
音楽や楽しいの言葉に、あれと似たものを感じて逃げ出したくなるのです。
わたしは、やはり山深い田んぼや畑に沿って曲がりくねったいなか坂道を、鼻先も凍りそうな吹雪に向かって踏み出すとき。
そういうときの、命を支える一足一足の踏みしめる実感のないものは、ただのお遊びにしか思えないのです。
育ったむかし。あばら屋のようなわが家で、冬の夜にせんべいのように薄い布団にくるまって凍えているとき。
吹き荒れる風の鳴きの底から、どっ、どっ、どっ、と自分の心臓の鼓動が聞こえたものです。
それを確かめられたとき、はじめて安心して眠ることができた。
音楽には、メロディー、ハーモニー。そしてリズムというものが含まれていると聞いたことがある。
であるならわたしには、風がメロディーで、緑葉や枯れ葉が揺れる音の重なりや野鳥のさえずりがハーモニー。そしてこの心臓の鼓動こそがリズム。
そう言いたいものです。そのリズムは嘘でも冗談でもない命の実感です。
この手応え感のないものは偽物の音楽です。感動なんてとてもとても。
この血流脈流をしっかり実感できる歌があるなら、ほんとうの音楽だと思うのですが、いかがでしょう。
以前にあなたは、音楽、美術、文学が芸術だ。それらは感動させる要素が根底では同じなのだとかいやに難しいことを仰いましたね。
であるとするなら、わたしのいう本物の実感も、おそらくは音楽、美術、文学のどれにも共通すべきものだとなって良いのでしょうか。
それなら地上世界のどんな民族にも、職業や年齢生き方に関係なく感動させることが出来るのではないかとなるのかな。
おっと、わたしとしたことが、本音を話せとおっしゃるのに甘えて、すっかりつまらない返事を書いてしまった。
さて今日は母の祥月命日。墓参りです。
ふふ。母の乳でもしゃぶって参りますかな。
その後で、へへっどうです。また飲みましょうや。
じゃぁ、また。
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