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夢舟亭
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エッセイ  夢舟亭    2007年06月23日


   カレーにしてね


 今では当たり前に使われている、あの大型チョコの様な固形や練りの市販カレー粉。
 あれでカレーライスを作るのが一般的になったのはいつ頃からだろう。

 米を常食とするわが国では、ご飯に掛けたり添えたりして食べるカレー料理は、ライスカレーという名で、私の育った地域でも大いに食べられていた。
 とはいっても、現在のような手軽なわりには美味しい風味とは違っていた。

 なにせカレーのルーというべきあの固形などもちろん無く。
 家々が、カレー粉を煎って独特に味が付けられていたのだ。

 加える肉や野菜の「グ」だが、材料に贅沢ができない頃であってみれば芋など野菜はともかく、肉はなかった。
 たしか魚肉でできたソーセージの角切りが入っていたのを憶えている。

 カレーもいまどきのとろりとした、いかにも美味しげなあの濃い茶色ではない。
 粘性もかなり異なるものだった。
 カレー粉が少なく、黄色に近いものも見た。

 そこへうどん粉(小麦粉)の練りだろうか。カレー風味のスープとでも言えば分かってもらえよう。
 料理の情報など得られない当時のいなかで、どう普及したのか今は亡き母には確かめることもできない。

 それでも当時ひと遊び終えた空腹の日曜の朝。
 カレーが匂う食卓に坐る私には、ご飯に掛けられると嬉しかった。

 いつもの茶碗と箸ではなく、皿にスプーンという食事。
 どこか異国の風味を感じさせて美味しかった。

 今時の濃い茶色の「カレー」を、「辛さ」に連想できる匂いの食物となったのは、やはりわが家の収入に余裕が出てきたころだと思う。

 台所の戸棚に、赤いカレーのあの缶が一回り大きくなって居座った。
 とはいえ、母がカレーライスの食事の準備が大変なのに変わりはなく。
 フライパンで粉を煎って始まるのだった。

 そういえばソーセージが豚肉に格上げされたことも大きな喜びだった。
 母はある冬の日アルミ弁当に、私が好きだからと、手製カレーを詰めてくれた。

 当時学校の教室では石炭ストーブを焚いていた。
 それへブリキの箱を乗せて、皆の弁当を昼まで温めた。

 昼前にそれぞれの弁当のおかずが温められて、授業中の教室に匂い漂うのだった。
 私はその中に母手製のカレーの匂いを鼻で探したものだ。

 やがてカレー料理は手軽になった。
 固形カレーの出現だ。
 いつ頃から聞きはじめたのか、カレーのコマーシャルソングを今も憶えている。

 あれの発売を境に、「グ」を炒めて準備すれば、あとはカレー固形片を溶かし込む作りに変わった。
 私でも作れるようになったのだ。
 キャンプなどでカレーが定番になったのもその恩恵だろう。

 そうした時の流れで、わが家の赤いカレー粉の缶は、ふたを閉じられたまま使われず錆びていった。
 ライスカレーを、カレーライスと言い交わすようになったのも、たぶんそのころだ。

 それでも「グ」の種類や炒めかたで、わが家の母の独自の味付けができあがった。


 やがてわが家に母のカレー味を受け継ぐ女人が、私の妻として嫁いできた。
 そして子どもが生まれる。
 と、やっぱりカレーの食事を好んだ。
 彼女の得意はカツカレー。
 それは夫である私を夢中にさせた。
 肥満の心配をすることにもなった。

 子供らもまた、母の味カツカレーをたらふく食っては大いに遊びまわった。

 気付けば、すでにカツカレーで育った子どもたちも巣立った。
 そして家庭をもち、そのまた子らが、それぞれ自慢の母親手製カレーをスプーンですくいあげ、小さな口にはこんでいるのである。




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