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<この文章は商業的な意図をもって書かれたものではありません> 夢舟亭 エッセイ 2009/03/20 日本映画「警察日記」 映画「警察日記」という日本映画をご存じでしょうか。 昭和35年ごろ東北地方ロケーション撮影した白黒映画です。 ほとんどがロケーションの当時の作品となれば。いうまでもなく、目を奪うCG映像も、轟き渡る5.1チャンネルサラウンドもありません。もちろん派手なカーチェースや爆炎猛火も銃撃もなし。 映し出されるのは、戦後間もない昭和のごく地方のいなか町風景と、方言言葉でくり広げられる市民生活。そして警察巡査たちの姿です。 しかし同時代を描いたこの作品の中身その配役は、観て驚く。 その後大物俳優として名をあげることになる森繁久弥はじめ、あの人この方が出るはでるは。3Dスクリーンにも負けない溢れてこぼれんばかりに演じてくれる。 たとえば三国連太郎や宍戸錠。 まるで彼らの息子さんの顔かたちかと見まがうほどに若い巡査役をやっている。 テレビ黄金期に黄門さまをやったあの東野英治郎も、戦中をひきづった狂人役であらわれる。 江戸下町っ子沢村貞子は、いなか駅前の旅館の女将。優しく気丈夫さをいなかなまりに現していて、じつに良い。 今は亡き杉村春子は、終戦時の貧苦農家の身売りの娘を仲介する役。なんとも憎らしいおばさんを演ずる。 ほかにも左卜全のほか三島雅夫、十朱久雄、織田政雄、伊藤雄之助、三木のり平、小田切みき、岩崎加根子、多々良純、坪内美子、稲葉義男。ちなみに音楽は團伊玖磨。 うわぁこの人が、というほどの後の大物が何気なく現れては、おらが町の陽気な「いなか言葉」をしゃべってくれんだよぉ。 ストーリーのなかで、駅に風呂敷包みとともに置いてきぼりにされる幼い姉弟。 姉を演じる子役は私と同年代の二木てるみ。 そしてなによりの主役は、私が育った頃に見たおらが街並み。 当時の生活の場がスクリーンに次々と映しだされて懐かしい。 それらはその後、一つまたひとつと時代の移り変わりの節目に取り壊され建てかえられて。今では山や川のほかはほとんど変わってしまっているけれど。 この映画フィルムは現在町に寄贈されて貴重な宝として、また歴史記録であるのだという。 ストーリーを概説すれば、ある町の警察署の、気の良い子沢山巡査(森繁)を軸にした話だ。 警察署には剣道好きな豪快署長を先頭に、個性あふれる巡査官たちが家族のように勤務している。 売春で捕まった者あり、万引き子連れを突き出す店の主あり。 署内では、連れてこられた者の取り調べが人情あるも厳しく行われている。 そのやり取りをカメラが映し出すとそこに時代が臭う。 と、森繁巡査が、見つけたという幼い娘を引き連れ乳飲み子を抱いて戻る。 皆が、また生まれたのか、とからかう。 だが、そうではなく、捨て子なのだという。 子を捨てるか娘の身売りか売春か。 食うにもこまる物資不足の地方農山村の禁じ手破りがここに現れる。 姉弟を施設にあずけるにしても、手配が済むまで預かっておかなくてはと、駅前の割烹兼の旅館へ連れ出す。 なじみの女将は乳幼児である弟を預かる。 姉は森繁巡査宅へ。 行けば貧しくも明るい子どもがいっぱい中年夫婦の手狭な家だ。 この捨てられた子どもの行方が話のひとつの軸になる。 しかし話の花はまだまだ複数にぎやかに咲く。 貧しい身売り娘を、若い独身巡査(三国)が旅立ち寸前に救う。 ではあるが貧しい家に娘を連れて戻してやっても事は二転三転する。 杉村春子おばぁと飯田蝶子婆さんが若い巡査三国を軽くあしらう。 後には若い心を弾ませたり、ほろりとした見せ場もある。 また貧しさゆえにめとることができない恋人の嫁入り道具を運ぶ、馬車引き男(伊藤雄之助)。この演技がまたじつに上手い。 私もじっさいにこんなおっさんを当時見た気がするほどだ。 地元出身大臣様の里帰りに沸く町の歓迎会などもななか面白い演出だ。 雑然とした話運びで、どこか可笑しく、「駅前シリーズ」の試作版かと思える面白ねらいの作品に思えたが。 じつはしっかりした人間描写があり、今どきの落ちつきなく忙しないハリウッド感覚には見られない、なかなかどうしてヒューマンなる芯をもつ日活映画でした。 1955年代のころだから50年以上も前になる。 昭和30年代、戦後の10年。 当時はこの町にかぎらず、地方は町とも村とも区別つかないような、自家用車はもちろん信号も車の渋滞もない未舗装道路を、木造の家並みがちらほらと挟んでいた。 火事だといっても半鐘が打ち響く町には充分な消防設備もない。 それでもけっこうあっけらかんと生きていたように憶えています。 そういう風景は今とっても懐かしいほのぼの感が湧いてくる。 必ずしも地元のものとは言い切れないお国言葉、方言の使い方もほどよいシナリオで味わって思うのは−− 言葉にかぎらず人の心も風景も、今ではどんないなかも都会的な小綺麗さに塗り染められている。 消毒が行きわたり、清潔過ぎる分毒気を抜かれて、無個性になって。想定枠内の共通言葉をもっている。 見るにも聞くにも言うにも、はた迷惑をだいいちに気遣って。 過剰なまでの自己抑制を強いて自縛の金縛り。 本音などはさらさらなく。言葉は少なく、あっても小さく。 敵対する言葉を大げさに嫌うてケータイ女性のひ弱な足腰のように、あまりにか細い触ると折れそうな人心、などなど。 それにくらべてあの頃の風景と行き会う人々が交わす言動は、なんとおおらかで逞しいことか。 物がない分、人間が地上の主として堂々と。 泥臭くも活きいきした人間がまさに我が物顔に存在していた。 と、ふり返る。 あぁ私もずいぶん遠くまで来てしまったなぁ。 芝生ではなく、紋白蝶が舞う蓮花の原か菜の花畑に、手足を伸ばして寝ころびたいほどの思いが湧いてくる。 嬉しくもあり、また春ほのぼのが鼻をくすぐり。 とってものどかな、いなか気分のお彼岸でありました。 |
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