夢舟亭 エッセイ
2006年11月02日
けんか
昨今、いじめを苦にした自殺が、とくに子どもに目立つ。
そういう記事の報道が紙面にある。
現代だ、大人にもあるのだとは思う。
いじめ、と一口にいっても、境目はきわめてあいまい。
いや境目などないのだろう。
それよりも、受けて感じる個人の感度温度差の方を問題にすべきだろうと思う。
気にしない者は笑って過ぎる。
仕掛ける方も、面白くなければそれまでとすることは多い。
このちょっかい仕掛け突っつき合いの段階の処理が後に響くのだろう。
俗にいう、カエルにしっこ、というほどに鈍感な私も、小学生のころには受けた気もする。
あれは、いじめというべきかケンカというべきか迷う。
なにせ当時は、ケンカなど気にとめる大人もなく、男の子は諸肌脱いで取っ組み合った。
またケンカになると俄然張り切る級友がいて、相手構わずおれに任せろ、と飛び出すのもいた。
ケンカは、やるだけやってしまえば勝敗が明確に付く。
パワーの上下関係がはっきりする。
大人が、人は平等だ、などとワケの分からないことを言っていた。
しかし現代の組織のなかの大人社会と同じに、子どもは上下関係を実力で得たり失ったりして理解するものだ。
もちろん人間の能力というものは、そんなことだけが総てではない。
だから体育だって短距離長距離や投げる打つとあって、出し抜く機会はいっぱいある。
人には、とうぜんだが体力にも学力知力にも個人差がある。
それを知って総合的な評価のなかで上下関係が決まるものだ。
そういう優劣を知って勝ち負けを経験しながら、大人になって行くのだ。
だから人には上下がないのだ、などということがいかに気休めかと感じたものだ。
大人になってからだって、勝ち負けの社会に居るではないか。
人間社会も一皮剥けば獣の道なのだ。
だからこそ持っているあらゆる力を駆使しながら勝とうする。
それは生き物であるごく普通の人間の性質なのではなかろうか。
いじめ、などという言葉に意味をもったのはいつの頃なのだろうか。
いじめというつつき合いの段階はいわばケンカの前哨戦だろう。
なんだ、どうしたモンクあんのか、やんのかぁ、も懐かしい。
ばかの、あほの、まぬけのと口争い。この段階のまま、ねちねちと続くのがいじめかもしれない。
webなどでも、いい歳の大人や高学歴社会の落とし子の青年たちが、やり合っているではないか。
ここから進んで温度が上がると、リアルな生社会の子どもなら、いよいよ肩など押したり引いたりする。で、いよいよ、ポカリとゆく。
これをきっかけに、いっきょにダッシュ! 目などつり上げて襲いかかる。
上に下に。組んずほぐれつ。首など絞めてみたり。ときには手や腕などに噛みついたり。
痛さに足などばたつかせる。
放っておけばいい。
複数の小学校が集まった様な中学に進んだ場合、こういった主導権争いがよく起きる。
だが、これを、ばかなこと、などと思っては大間違いだ。
子どもとはいえ、しっかり人間社会を生きているのだ。
言葉を替えれば、天下平定その分け目の決戦の時。社会を知るためにもこれは子どもたち自身で越えるべきなのである。
少なくとも、数十年後の同窓会に無くては成らない思い出のネタ、その瞬間でもある。
社会にはみんなが一様でホントに平等ということなどあり得ない。
必ず、何がしかの勢力差があるからこそ安定する。
逆にそれが無かったりくすぶり状態は、かえって混乱が起きたりする。
それが見定まり暗黙にも了解されるまで、何らかの形で闘うことになるのだろう。
だからハンパに生煮えで、大人の裁定などで善し悪し分けられたりすると、その天下が乱れたままくすぶり続け、端も迷惑する。
私が生きてきた道に居た人だけ見ても、人間とはどうもそういうものの様なのだ。
子ども時代は、難問公式など勉強するだけでなく、こういうことこそ体験必修にすべきではなかろうか。
それほどに学ぶ内容は濃い。
必修にさえすべきだと言ったら、笑うだろうか。
それを親の庇護によって回避してしまったことのツケが現代社会にあると思うがどうだろう。
強い弱いはもちろん、勝ったって負けたって、双方が痛みも悔しさも寂しさも、心底味わうことになるのだ。
ここにもまた最高の果実があるのだ。
子どもの兄弟ケンカを思えば、想像できよう。
やるだけやって負けて、悔し涙の弟を見た兄の目の奥に、勝ったとはいえ空しさが隠れているのを、親の私は何度も見た。
だから、ほどほどに声などで制止はしても、たいがいは放っておいた。
兄の拳は当然だが痛烈で痛い。
嫌というほどその凄さを身体に感じ、人間そのくらいの力で人を殴るものだと、知る。
だが最終的には、勝ったはずの兄の方が、妥協で折れたりするものだ。
そして弟のべその中から湧き上がる笑顔に、照れていたりする。
ここまででも、いかなる学問にも名著にも勝るものを、心底学ぶのだ。
その実習を途中半端で、兄さんなんだから悪い、などと叱責してしまうから、恨みが親にも弟に対して残ってしまう。
飼い犬など散歩してると、すれ違う自分より大きな犬に猛烈に襲いかかったりする。
こんなに犬が争うなら、放し飼いが当たり前の昔などは、犬のケンカでさぞうるさかったと思ってしまう。
しかしながら、実際ケンカ慣れしていると、見ただけで無益な争いをせずとも互いの力量が読めたのだろう。ケンカなどは、それほど見なかった。
人間だって、子ども時代にケンカの経験などした人は、どういう感情の動きを行動に示すか知っていて人を読み計る。
だからどうなるかも分からない様な争乱をそうそう行わないものだ。まとめ方も回避の手順も知っている。
そうした場合こじれるのは、やはり怖さを知らない者ということになるのではなかろうか。
私も、宴席などで暴力沙汰など起こした人を何度か見たが、怖さ知らずと、落とし所を考えない若者には驚く。
どこかの誰かが、あるいは相手が、または親が来て、必ず何かしてくれるとでも思っているのだろうか。
またわたしの子ども時代のあの当時には、昨今の様な切れ味するどいカッターなど無かったが、けっこうなナイフはそちこちの駄菓子屋でも売っていた。
思い出すに、自慢し合ったのだからたいがいはポケットに持って歩いていた。
当時は何でも手作りだから、器用な手つきで木枝を削り掘ったものだ。
だが、それは人を刺し斬るものとしてケンカに使う者は見た憶えがない。
ケンカというものがどういう意味のものであるか、その限度を、子どもとしても体得していたのだろうか。
そんなだから、もちろん自殺に追い込まれる様なケンカも記憶にない。
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