夢舟亭 エッセイ
2005年10月03日
気はやさしくて力もち
先日、海外ニュースのなかで。
世界の警察でもある国連の事務総長殿が、思うにまかせぬ苦境のほどを語っていた。
聞いてた私はふと以下のことを思った。
むかしむかし。
あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。
おじいさんは柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に、ゆきました。
おばあさんが洗濯をしていると、そこへ大きな桃が流れてきました。
やがて大きくなった桃太郎は勇敢にも、人々が恐れている鬼の住む島へ・・
昭和のむかし。
幼い私たちはこういう絵本を読んでもらった憶えがあります。
桃から生まれた桃太郎。
あしがら山の金太郎。
指に足りない一寸法師。
どの主人公もみーんな“気はやさしくて 力もち”。
持てるその力で人助けをする。
そういう話を聞いて育った私たちは、自分を守るためにはもちろん、他人にやさしくするためには、力持ちでなけらばならない、と思ったのでした。
やさしい人というものは、無力でひ弱なだけの非暴力主義者をいうのではなかった。
非暴力などいう人は、勇気がなくて、人にやさしく出来るほどの力も持っていないのだと思った。
義を見てせざるは勇なきなり、であると。
だから、いざというときにはそんな弱い人には頼れないものだと。
頼もしい人は力もちなのだ。
正義の味方はいつも悪に向かって行くだけの強い意志と、それに見合った力があった。
だから人は助けを乞い願うのだと。
ところが、いつの間にか。
私たちは力持ちを嫌悪する様になったのではないでしょうか。
事の善悪の如何などは一概に言えないものだ。などいってはかなりの被害にも我慢して、敵対して争うことを罪悪視する様になった気がするのです。
戦後教育によって、今、やさしさい人といえば、闘う力も無く、有っても使えず。
話せば必ず分かり合えると言う程のことを信じる人ではないでしょうか。
力をもつ人は、周囲の人に脅威や不安を与えるから、人に危害を加えるかもしれない力など持たない方が安心できるという考え方です。
だから、まず力を生みださない、持たせない社会が平和ということになる。
平和な社会とは、みーんながひ弱で、無力で、互いに危害を与えることのない、やさしい人ばかりの集まり。
実に穏やかーな、眠っている様な人だけのものと信じられている気がする。
闘う力も勇気も無ければ、敵をつくることもなく。
逆らわず異論など唱えず。
目立たず身を潜めていて。
事が終わってから、こそこそと現れ。
同情や介抱をすることが、やさしさの証と。
もしも地上のすべてが非暴力的な社会で一切の争いなどあり得ないならば、それは実に結構なことなのですが。
それほどにこの地上の人間は甘くも穏やかでもないのが現実です。
隙あらば、下手にでれば、素早く狡猾に、騙し陥れようとすることも少なくないわけです。
だから家やクルマには簡単に解くことの出来ない頑丈な鍵で、戸締まりなどせざるをえない。けして油断無く目配り気配りを忘れるわけにはゆかないわけです。
人間の脳細胞によほどの異変が起きなければ、そうしたことから解放されることは不可能でしょう。
逆に、現在のニホン的やさしさを叫んできて、なぜか説明もつかない様な動機の殺人や、親殺し、子殺しさえある始末です。
実際の生物の生存は弱肉強食という原理でなりたっている。
思えば人間も一皮むけば、有史以前から、形は変わろうとほぼ同じ原理で生きている。
法までに至らない事もあれば、法を超えることだって珍しくない。
法を信じて守って、被害に遭って泣き寝入りなどは幾らでも聞く話。
法がいったい何を守ったのだと言いたくなることもある。
知力にせよ武力にせよ。
それを経済力で買うにせよ。
事が起きればあらゆる力、能力の差でおきる上下関係がものをいう。
同列でさえ常に強者が弱者の上に立とうと争い、支配、かしずかせ。
治めては、ひとつの安定をみる。
弱者は従わざるをえないし、我慢を強いられる。
たまたまそういう強者の傘にかくまってもらったある国は。
平穏が続いた中に発生したひ弱な無力さや、やさしさ大好きの集団列島になってしまった。
が、よくよくその安定の元である最強の軍事力を考えれば、力を否定し訴える資格などどこにもないことに気付く。
そうしたやさしいだけの人々が、口では非暴力を称えるが。
じつは、会話では解決できない隙も与えられない武力の急襲の時を思えば。
為すすべを持たない不安は知っている。
だから強者の傘の下から出ようという声はけしてあがらないのだ。
実社会は、往々にして力持ちの桃太郎や金太郎に頼らざるをえないのだ。
いやすでに頼っている。
だのに気持ちではそれら力持ちたちを、どこか毛嫌いするという矛盾を抱えている。
現実社会に生身で生きるなかでは、手先でちょいと鎮められたり、言葉の一つもあれば説得納得得られたりできないことの方が多いのだ。
力による痛みなど全く伴わない創造映像の世界とは違うのだから。
痛い苦しい辛い悲しい悔しい人為的作為的な力が降りかかってくるものなのだ。
親の庇護のもとで、守べきものとて無い幼いうちならともかく。仮にも一家をかまえて家族を背負った大人は、降りかかる火の粉は除けて進めるだけの知恵も体力の意味も分かるだろう。
力の無い者は、そういう場におかれた人を助けるというやさしさを与えることは出来ない。
なぜなら、溺れる者を助けるには水に挑まなければならないし、泳ぐ力も必要だ。
獣に襲われる者を助けるには、獣を力で取り押さえるか、場合によっては獣の息の根を力で止めることもしなければならない。
それと交換に、痛みも流血も覚悟しなければならない。
だから人にやさしくするということは、ひ弱な思いだけではどうにもならないのだ。
何も出来ずに見て居て、事が終わってから気の毒そうな憐れみの声をかけてくれる人は、真にやさしい人とは言えない。
それは単なる同情者でしかないのだ。
まして自分をさえも守れないないならば。
やさしさなど人に与えられるはずもない。
無力な警官や軍隊など役を成さないのだ。
現実社会は人間の理想像である神というものの幻想社会とは異なるのだ。
暴力の良し悪しとか、好き嫌いとは別な、現実生身を防衛出来るかどうかの、生の問題である。
やさしさを人に与えるということは、人の苦しみを理解する心と同じに、いやそれ以上に。
敵を押さえ付けねじ伏す能力を持つ、桃太郎や金太郎でなければ出来ない相談なのだ。
だから、気がやさしくて力もちになることは、だれでも出来るわけではない。
当然私たちは、桃太郎や金太郎をそういうことが出来る特別な能力者として理解して育った。
桃太郎や金太郎の様だ、ということは文武両道の人格者への誉め言葉だったのだ。
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