エッセイ 夢舟亭
2007年08月04日
棄権
私は人一倍政治に関心があるほうだとは思っていない。
いうなれば大人一人分ほどのものでしかない。
それでも家族ともども、人生を託している自国の現状と今後には多少なりとも関心をもっている。
だから「いつの選挙も低投票率が問題になる。投票の義務不履行者がいる」という言葉を見聞きするたびにひとこと言いたくなります。
投票に参加しないことを「棄権」、つまり権利を棄てるという。
今回も半分もの数の参政権を、みずから放棄した人が居た。
そういう人の開き直った「よけいなお世話」論が目に映るのです。
また、選べるほどの人が居ない。どの党も似たようなもの。という声もある。
選挙には年齢制限がある。
もの分かる年ごろの成人男女に権利が生じる。
それは強制の義務とはいえず、自主的に行う「権利」ではある。
となれば捨てる権利も無いとはいえない。
だがもしも、この一票の権利を誰かに奪われたらどうだろう。
棄権した人はそれでも不満は無いだろうか。
年金問題ではないが、たとえば前三回が棄権だったので投票権の記録データが無くなった。
とされて、投票用紙が送られてこなかったならどうだろう。
それが50%もの人に起きたなら。
とんでもないことだと官庁の不手際として。
また大臣級の血祭り騒ぎがおきると思うのです。
毎回まったく投票所になど出向く気もなく、棄権で捨てることが両親はもとより傍目にもあきらかな若者でも、いったいお役所はドーなっているのだなどの、いっぱしの黄色い不満を述べるのではなかろうか。
もちろん参政権のこととなれば国際的ビッグニュースとしても扱われよう。
それほどの大問題にもかかわらず、現実に自ら50%も捨てた人が居るのだ。
私は選挙投票は限りなく義務だと思っています。
過去にこの国はもちろん全世界の小市民が手にしえなかった政治への参加権利を、今私たちが果たしうるのは義務で良いと思っています。
よりよき未来のためにも得られた権利を行使すべきです。
当世は、自分の不履行や不実行を棚にあげて、行使もしない権利や実害のない言葉尻をあげつらう悪癖が日常化している。
私はこうしたことは、批判というより溜まった不満の吐き散らし先にされているとしか見えない。
そんな屁理屈を言う前に、あんたはやるべきこと果たせ、という強面の反論をすべきところだ。
だが今それが言えない雰囲気の、商売論理が優先したお客様意識が、蔓延しているようです。
政治から見た、市民は、まるで商売から見た、消費者。
政治家は公僕だなどとまで退いて、平身低頭のありさま。
私はそれは間違っていると思う。
そういう状態が目に付くようになったのは、一方通行の商業放送民放の批判論調が幅を利かせて、口裏を合わせる軽々しい市民が小若僧が多くなったせいではないでしょうか。
彼らは、評価するとか賛成とか褒め称える声は、ほとんどもっていない。
とくに政党を問わず政治行政への賛意や拍手の姿勢が少なすぎると思うのです。
だからマスメディアが発するものへも批判力を持たなければならないとつくづく思うわけです。
自分なりの目と耳で受けたものを、良いはよい悪いはわるいとする意思表示を、少しは学び身につけるべきではないでしょうか。
批判さえしていればマトモだとする幼さはもうやめて、汗してカネ税を活かした成功例へは、どんどん賛辞を送るべきではないでしょうか。
生活のためとはいえ、行うも人なら、評価の声に励まされることを知るべきではないでしょうか。
つまり、社会も政治も良くするのはそうした小さき一票と同じ、一声なのです。
そこで話は選挙です。
半分も無駄にしている投票用紙の印刷や配送費用。
そして数々の手間代は、さてどのくらいになるのか。
全国で億円は下らないでしょう。
この半分の額を無駄に失ったわけですが、もしも誰かがちょろまかしたら、あるいは役所が焼失したらどうでしょう。
それは誰が無駄にしたのでしょう。
市民、もっともらしい小理屈でサボった棄権者たちです。
そういえば今国会延長で、印刷やり直しの無駄がもったいないと不満が聞かれた。
それ以上の金額を市民自身が捨てたわけです。
ところで今回の選挙が100%の投票率だったとしたらどうでしょう。
おそらく世界的な大ニュースになって、大いに驚かれたのではなかろうか。
おうっ。ニホンに何が起きたのだ。
驚嘆どよめきが世界中を駈けまわったことでしょう。
実際そうするほどの意味ある歴史的結果が今回出たと思うのだが。
これは「もしも」という話でしかないが、一番驚いたのは政治を行うがわにいる方々ではなかろうか。
彼らは市民の姿勢がどれだけ本気かと、ナメて見ているのですから。
いつも政治には眠っているような国民が、目ざめて真っ直ぐに直球を投げてきたと襟を正し、生半可なことはできないと互いに緊張顔を見合わせたのではないでしょうか。
選挙は生のステージと観客のような、空間を共有するぶつかり合いです。共に作って行くものです。
名演やヘマへは拍手やブーイングでやり取り交わす双方向の意志を示す場です。
だのに今回も、みんなの血税からの選挙経費の半分がポイ棄てで無反応。
さぞかし政治家の方々は安堵の胸をなで下ろしたことだろう。そんな連中さ、と。
低投票率という国民の、でたらめな姿勢はいつに変わらぬ温い湯を、政治家にささげ補償したことになるのです。
国会議員にかぎらず、県議会、市町村議会の議員になるには、能力も支持者も必要だが。
まずは、かなりの時間的経済的な余裕がなければできません。
これはどこの国にもある傾向であって、カネ問題が起きやすい理由でもある。
政治はカネがかかる。
そういうことから、現在でもどの地域も富裕層立候補が普通ではないだろうか。
ということは、政治に関わる人は、いまどきの格差社会とか非正規の生活困窮者や生活確保に日々苦労している人々とは、別世界にいる人がほとんどだということ。
首相や大臣を見ても、そういう家系や代替わり引継の二世議員が多い。
一市民としては、そうしたなかにボランティア社会奉仕の志をもって、少しでも他者の立場に立てる人を見いだして、自分たちの代弁者としなければならない。
だから演説や討論会への拍手やブーイングが意味をもつのでしょう。
彼らがいう「手応え」や「反応」ですね。
そうして得る一票の積み重ねがなければ議員にはなれない。
これが民主主義の狭き門。ここから先は言うまでもないことです。
この点を思い違いで放棄すると、大きな無駄遣いで血税もいいように上げられピンはねされて、寄ってたかるワル越前屋と結託しては舐められてしまう。
そうならないように、少なくとも姿勢だけでも真剣にしなければならないと思うのです。
この権利をアジアのはずれの列島の、住人われら市民ごときが手に出来たのは、民主主義という言葉が日常化したつい最近のことだ。
ということを思い知らねばならないと思う。
空から降ってきたり地から湧きでたことではないわけです。
男女を問わず、収入や身分の違いなく、大人みーんなが、自分の判断で自由に代表者を選び政治に参加できるなどという途方もないことが出来るようになったのは、つい終戦の後の1945年でしかない。つまりそれ以前は大人の誰でも棄権する権利もなかった。
それを得て数十年で、半分が自ら権利をドブに放棄するところまで墜ちたことは嘆くべきではなかろうか。
永年在日の異国生まれの方は参政権が得られない。
そんな人にとってはもったいないのひと言だろう。
まさかの先進国アメリカでさえ、人種を問わず、とくにアフリカ系(黒人)への参政権は1960年代。なんと東京オリンピックのつい昨日、やっとこさ苦労の末に願い叶った程度。
どこの国も市民すべてが選挙権を手に入れるには、大変な歴史と苦労があった。
とはたいがいの大人が義務教育で習って承知のはず。
まして教育が行き渡っているニッポンです。
世界には残念ながら未だその権利を手にしていない国民も多い。
そうした人々は、気に入った候補が居ないからなどのいい加減な棄権者の思いを、どう解釈しようか。圧政に苦しみ、虐げられて、せめてこのひと言が願えられればもう少し、という思いの一票を届けいない苦しみの人から見たとき、疑問は深かかろう。
これをたとえれば、空腹で数カ月間あえいでいる方々の面前で、食い散らかし飲み放題のバカ騒ぎをして見せるようなものではないでしょうか。
それが棄権50%の日本人のふざけた姿なのだと思う。
この国だって、選挙で選ぶこともなく高い階層の上部の限られた財力権力をもつ人たちが、自分たち都合の決めごとを押しつけては。下層の小作農奴から搾り取った時代があった。
それもさして昔のことではない。
小作人ふせいが直訴などしようものなら、即刻打ち首斬殺された時代だってあった。
よろしくお願いします連呼の握手攻めのほうが、ずーっと政治的に健全なのだ。
良くも悪くもここまで来たことを過小評価するべきではないわけです。
とはいえ一億をゆうに超える国民の一人一人の思いをくみ取れる政治など、そもそもありうるかどうか。
何でもが即効即回答で効果てきめんの短兵急思考の今人間には、数千万分の1でしかない自分の存在に絶えられないのでしょう。
どんなに便利で人間尊重と持ち上げられっぱなしに見える社会においても、じつはそんな存在でしかないない個人なのです。片隅のたった1人です。
それでも1を積み上げ、皆の意識が高まれば政治が注目され優秀な人材も育ってくるだろう。
棄権はその1にも値しない崩れた姿勢で、政治家に苦笑させているにすぎないわけです。
また、とても黙って引っ込んでいる場合ではないというなら、自ら立候補という道もすでにある。それが現在の日本の政治だということは、まさに幸いなりではなかろうかと。
私などは中学生でも知っているようなことしかいえないが、二千数百年も前のお隣中国の史記などを見るまでもなく、どれほどの王であれ皇であれ、人民の声などと押さえつつもこれほど脅威と思うものはない様です。
政治家を見抜くほどの大衆の鋭い目と勢いほど恐いことがないのは、ローマ帝国の皇帝も同じだったらしい。
民衆互いが、幼子のいじめ合いのごとくあざ笑い、参加した者をおとしめ合う「どうせ一票など意味がない」の声が増えるほど偶王やばか殿にとって気楽なことはないわけです。
暇つぶしテレビ番組を、映るガラス面の光まばたきを何の責任も問われず被害も受けず眺めるのとちがって。
この列島上の政治家と国民のぶつかり合いというのが選挙です。
1票とはいえこの行動をともなう投げかけでしか、国は成りたたない仕組みだということ。この票の多さによるしか政治を行う代表権は無い。
つまり政治責任は投票権をもつ者の行動の総合結果であるわけです。
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