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夢舟亭
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<この文章は商業的な意図をもって書かれたものではありません>

文芸工房 夢舟亭  エッセイ    


2002/10/09



     心のうた


 今ではパチンコ店だってかけてくれない。
 と、そのひとは苦しくわらった。

 そのひととは歌手都はるみさんであり、パチンコ店にさえ見放されたというのは「演歌」のこと。
 話のお相手は作家五木寛之さん。
 NHKのETV対談放映でのことだ。

 パチンコという楽しみを見下げる意味ではない。
 ゲームセンターなどが流行るまえのむかしからあり、ニホン人の娯楽パチンコはいまだ大概の地方で流行の歌を大きくかけては賑わっている。
 演歌はこうした場にも多くかけられる音楽、BGMだった。

 今、演歌を志す若者がいくら真剣に歌っても、若者はじめ多くの日本人が見向きもしなくなったという。
 歌ってもうたっても聞いてもらえないのだと。
 そこで今ついに、「パチンコ店さえも」演歌をかけなくなったというのだ。

 アジアという広い枠でとらえれば、ニホンの演歌はまちがいなく我われの心の現しかたなのだ、と五木さんはいう。
 演歌はまぎれもなくアジア独特の哀愁ある歌唱法なのだと。

 そうだとすると、なぜ我われは自分たちの歌を聴かなくなったのか。
 アジア的であるがゆえに、嫌われてしまったのだろうか。

 黄色いサルの話ではないが、我われは身体は変えられないけれど、感覚がアジア的ではなくなったのかもしれない。
 今あなたもわたしもアジア人でないのか!?


 では今、あなたやわたしの心の歌というのは何だろうか。

 ニホンを代表する歌は?
 海外のひとのそうした問いに、よく訊いてくれましたと喜んで歌って聞かせるこれぞニッポンの歌、わが心の歌とは何んだろうか。


 さて演歌だが、聴かれない理由のひとつとして、五木さんは歌詞に描かれる女性像を指摘していた。
 これはわたしもわかる。
 なにせ深刻にして古風すぎる。

「捨てる」は男性が女性に向かった一方的な決別のこと。
「愛しい」といえば、これは女性が独り男性を待つのを意味する。思い悩む気持ちである。
「涙」「寂しい」もほぼ同じ男性に対する情を意味する。
「連れていって」や「寄り添う」の主導権は男性にある。
 女性はただ従うことで仕合わせを夢見る消極的さがある。
 だからひどい扱いを「仕打ち」として恨みながらも、じっと耐える。
 そうした女性の有りようをどこかで賛美して歌う。

 それが演歌のすべてであるなどと言い切るほど、わたしは演歌を聴いてはいない。
 そうした歌詞でない演歌も知ってはいる。
 けれど、それにしてもどうするとああいう歌詞が浮かんでくるのだろうかと思う。

 と同時に、こうした歌詞を誰に聞かせたいのだろうという疑問も湧く。
 歌を創るひとは、過去への郷愁としての昭和初期以前の、ニホンの古き良き時代という夢幻のなかに母の姿などをだぶらせているではないだろうか。

 たしかにそのむかしの、北原白秋、野口雨情の詞などを耳にすると、ニホン的寂し切ない詩情を感じる。
 おそらくその時代その社会を詩っているのだろう。
 現代人的に言えば「おしん」の時代を思い描くというべきか。

 その時代というなら歌謡曲演歌もまた、その時そのニホン社会を歌って、隅々に流れて聞かれては大人から子どもまでが共感して口ずさんだ。

 だが今、実社会の風景として演歌で歌う男女の状況を自然にはうなずけない。
 少なくともわたしはそういう状況は思い浮かばない。
 だから聴いてぴんと来ないし快くもない。

 今悲しい辛いむなしいと嘆くだろうと思うのは、死なせられずに生きさらばえさせられては、おのれの動きもままならない老人たちかもしれない。長寿国の裏の真実を視よ。
 また、不治の現代奇病者もあろう。いったい何が災いしてこそこうなったと叫びたい科学技術の犠牲者だろう。
 また、産業優先社会の排気口のようなリストラ廃棄状況下の、戦後復興の老英雄たちかもしれない。

 そんなところを思えば、真の辛さは必ずしも女性のものではないと思う。
 まして現代である。男女の仲に何の制約があるだろう。

 男女同権というものがすべてに渡って成り立っているとは思わないが、働きバチ、ワーカーホリック(働き病)と指さされた男社会ニッポンでも、男女ともに深夜労働も育児休暇も与えられる時代である。

 女性だけがあれほどに切なくもの悲しく、言葉少なくひたすら待ちに入ったり従ったり、だまされては捨てられるなどと歌いたくなる状況だろうか。

 もしもそうだと仮にしても、さてそれに共感するほど聞くがわの意識は低いだろうか。
 そんなものだとあきらめるほどにも世界の女性の主張は、隠蔽されているだろうか。

 良い例ではないが、自分が被害者だったらと思うだけでぞっとする昨今の犯罪ニュースを見れば、大胆かつふてぶてしい凶悪さは、案外女性の仕業ではないだろうか。
 そんなひとが女性の平均だとは思わないにしても、女だというのに、という目で驚くことはもはやない。

 歌は世につれ、世は歌につれ。
 というなら、演歌という歌はやはり世相からかい離している。
 だから世を映す流行り歌とはいえないだろう。聞かれないはずだ。

 といって今の世相が良いというわけでも、演歌はこの状況を切々と歌うべきか、わたしはわからない。

 また今流行りの歌が良いのかといえば、ファンの怒りをかいそうだが、歌って踊って学芸会だ。宴会のほうがまだましだとわたしに見えるのも多い。
 それも喜ばれるなら、流行り歌の役目はこなしているのだろう。

 歌というものはひとびとの思いとして、自然発生しては口に出て、いつとはなしに広がって。やがて消え去るものなのかもしれない。
 世界唯一のニホンの演歌といえど、今役目を終えて、そういう運命にあるのかもしれない。


 ところで今、ひとはどんな状況で、どんな歌を口ずさむのだろうか。
 CMソングが一番で、つぎにテレビマンガのテーマ曲だろうか。
 それらはわたしたちのどういった心の状態を映しているのだろう。

 また今思いを言葉にして歌うなら、共感できる思いとは何んだろうか。
 何に、困っているのか、悩んでいるのか、苦しんでいるのか、寂しがっているのか、辛いか、切ないか、むなしいか、痛いか。
 そういう、ひととして腹の底から突き昇ってくる感情の自覚が、日頃あるだろうか。

 喜びなどの心情もそうだが、言葉に乗せて口にしたい感情の高まりというものがあるだろうか。
 本日、喜び、哀しみ、驚き、怒りなどを幾つ感じたろうか。

 日々、発展を続ける豊かな社会のなかの今日、わが心はどんな「美」を発見できたか。

 今日。ニホン人としての自分にはどんな歌があっただろう。


                       2002/10/09




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