<この文章は商業的な意図をもって書かれたものではありません>
夢舟亭 エッセイ
2006年03月18日
マドンナと鬼手仏心
好みのちがいにもよるが、耳にする音楽のなかで、すーっと入ってきて心を惹くのは、ゆっくりとしてもの悲しく、静かでほの暗いイメージのものが多いように思える。
肌を刺すような陽光の下で、耳をつん裂くような激しいリズムは、聴覚も疲れて、いらいらする。
電光照明で部屋のすべてが乱反射して、目がくらむまぶしさよりも、ゆらゆらとした蝋燭の光の、静かな部屋が良い。
冴えた月の光を、満天の星々のなかに見たときの、あの心も透き通る感じはうれしい。
そういう静けさは大人げな雰囲気として、感傷的気分に浸るによい。
いわゆるムードがあるということだろうか。
そういえばムードなどというカタカナ言葉は、語韻にケバケバしいあやしさを感じるのか、最近見聞きしない。
ここはやはり雰囲気という和文にもどるのが清潔な気がする。
何をやっても失敗する不運続きということなどがあるものだ。
そういうとき、私は独り静かに物思うことになる。
称賛や憧れの視線がそそがれる順風満帆で絶好調の人には、そうした落ち込みのなかでは、さすがに声など掛けにくく、つい距離をとってしまうものだ。
哀れみ相みたがう、という言葉がある。
痛みや辛さを理解して、慰めの声がしぜんに出せて。
互いの言葉が心を癒すように響くには、似た境遇同士の一言がいちばんなのかもしれない。
だから落ち込んでいるときは、激しい曲より静かな曲に独り浸るほうが、慰めになもなるし、生気も少しずつ戻せる。
キンキンと耳を刺すトランペットのファンファーレ音の、光を放ち燦然とひかり輝く曲などには近寄りがたい。
優しく両手をひろげてほほえむ神のような、ふわりとして物静かな曲にこそ、こちらから歩み寄ってもみたくなる。
音楽というものの持つ力は、ときに偉大であり、また限りなく優しい。
もっとも、何事も表裏、明暗、長短はあるものだ。
いつも神のように、もの静かでただ優しく立ち振る舞っている人に、喰うか喰われるかの競争社会の先頭に立たれては正直なところ困るだろう。
それでは志気が挙がらず、萎えてしまう。
腐臭を放ち、すぐにでも切断を要する傷で、今七転八倒の身もだえする患者を前にした医師にも、強い意志や逞しさが必要であろう。
永年、武勲を称えつつ育てた片腕の者や、永く競い磨きあった僚友の、過失や裏切りを前にした王の一太刀のような、厳しい英断は優しい思いや萎えた精神からは出ないだろう。
そうしたここ一番のとき。鬼のような一声と行いが要る。
高揚させ、意欲を高め、行動力をあおるには、やはり静かで消え入りそうな音楽ではなく、勇壮で、怒濤のごとき響きが適しているのだろう。
かなり前になるが、当時地域で評判の病院があった。
その待合室に、鬼手仏心、という大きな額に貼られた筆の太い走りを見たことがあった。
人間の肉体など屁とも思わず、一瞬に引きちぎるほどの鬼の怪力。
非情にしてなに戸惑うことのない俊敏で強靱な手指。
それが鬼手だ。
一方。ひとへの深い慈愛の心。
それをまさに神仏のようにもっている。
仏心。
医師としてのあるべき姿とは、かくなるものである。
その「鬼手仏心」の四文字をもって医師の誠意である。
自から筆をもって書いた老医師が私に言った。
行くといつも、その病院の診察室は、片隅に置かれた異国製のオーディオ機器から、四重奏とか五重奏の室内楽、ヴァイオリン族が醸しだす調べを流していた。
あるとき機器に興味を感じて訊ねると、おや詳しいですねお時間ありますかと笑んだ。
頷くと、医師はほとんど回復していた私の診察をあとにまわしにした。
待つ患者の列が絶えた夕刻に。
太めの老体で背伸びをしながら、白い服を脱いで微笑む。
お好きなようなので是非お聴かせしたい、さああちらへと、誘う。
着いてゆくと、二十畳はあろう、遮音された洋室へ通された。
三点の深い椅子とテーブルが並んでいた。
側面の棚いっぱいにレコードが詰まっていた。
そしてもう一方のくくりつけの棚には、音響機器。オーディオ装置が揃えてあった。
内外製のそれらは青白く発光し、さも自信ありげで頼もしそうな面構えに見えた。
そこは好き者、同好の士のことだ。
だれの演奏が最近どうした。
どのレコードや録音が評判だ。
最近の新製品の音響機器がどうした。
と、話がはずんだ。
話して聴いて、また話す。
さすがに収集のレコードは多く、おもだったものはほとんど有った。
照明を落としたほの暗い部屋の前方には、欧州製の知る人ぞ知る大型のスピーカーが左右に鎮座しており、妙なる調べを微風のようにそよぎだしてきていた。
それにしても贅沢なスペースですねえ。
そういう私に、その老医師は、仏心を保ち、鬼手に力を蘇らせるひとときの為には、これはけっして贅沢とは思いませんですよ、と静かに言う。
髪のほとんど絶えたまあるい頭が優しい影をつくり、メガネの奥の目が腫れぼったく細んでいた。
もっとも、疲れているときは、あまり難しいものは聴けませんのですがね。
そういうときよく聴く曲だと取り出したレコードを、慈しむようにプレーヤーにのせて回す。
アームに指で触れ、ピックアップをゆっくりと盤面におろす。
この高性能な装置からいったいなにがとび出すものかと、私は耳をすます。
一呼吸のあと、複数の弦がひとつとなって奏でる女性的で美しいメロディーが、部屋中にあふれた。
ああ、これならわたしも知っている。
マドンナの宝石だった。
しばし酔った。
あのあとも、何度か訪ねては聴いた見た。今は亡き老医師の音楽と微笑み。
甘くせつないほどのメロディーとはあまりに対称的な医師という職業の苦労。
今でも、聴けば心が溶ろけそうなあの曲を耳にすると「鬼手仏心」の墨痕を想い出す。
*マドンナの宝石:ヴォルフ・フェラーリが1911年に完成した悲劇的な歌劇「マドンナの宝石」。なかの間奏曲が有名で、独立して演奏されることが多く、一般に知られているのがその部分。
参考:クラシック音楽鑑賞事典(神保ケイ一郎著)
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