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夢舟亭
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エッセイ  夢舟亭     2008年02月16日


   魔物か亡者か人間は


 このところとみにたばこを喫う人の立場がわるいようだ。

 吸ってもよい部屋や愛煙家の心休まる所が減っているという。
 片隅の換気扇に顔をよせたり、野外の指定場所で背中丸めて寒空に、煙りを吐くすがたはなんとも切ないものを感じる。
 あのような切ない姿は、追い出された嫌われ者というしかない。

 昨日も海外ニュースでフランスの近況がつたえられていた。
 フランスというなら場末の酒場やカフェで紫煙くゆらす男と女。そうした様子はロートレックほか多くの絵画のイメージでもある。
 英国的な潔癖二分論の、病的なまでの嫌煙論がついに仏国にまでおよんだか。
 禁煙区域の広がりというよりも排除がすすんでいるようだ。

 ジャンギャバンやアランドロンの眉間にちょっとしわ寄せた顔でくゆらす。
 あるいはブリジットバルドォやカトリーヌドヌーヴが髪をうしろへ、足などくんでは何気なく取りだし着火を待つ仕草。
 そうしたシーンに重ねていたフランスと、たばこ。

 私は酒はいけるが、たばこは嗜まない。
 その煙がとくべつ身体に良いとは思わない。
 だから害の程が分析できるなら公示すべきことも規制にも異論はない。
 塩辛い食物と高血圧や胃ガンとおなじに、強煙家と肺ガンの関わりも否定するものではない。

 だけれどもガソリンやディーゼルのエンジン排気ガスの、人体への有害性のほうがはるかに怖いという思いがある。
 またついでにいえば食品の防腐薬品も、食用動物の奇病も鳥類のインフルエンザや魚貝類の生息海域汚染も、植物の害虫駆除薬品洗浄程度だってコンビニ食品類容器の薬品洗浄剤も、たばこの煙よりも気になる。

 いまや食品の実態を指摘しはじめたら、危うさの全容が浮き彫りになって皆でうろたえることになるのではないか。
 それほどに山海の食すべてが、今どうしようもない状態に思える。
 期限表示の違法などは一瞬にすっ飛んでしまうほどの巨影がいたるところに潜んでいるような気がする。

 とはいえ私などがここで食物の安全性についていまさら熱くなるつもりはない。
 人と有害物との関係をいうなら、たばこに限らない、ということをいいたかったにすぎないのであるからして。
 その覆いなど剥がさないでおこう。

 過ぎたるはなにごとも好ましくなかろうけれど。
 酒アルコールにかぎらず、過ぎれば身体の働きに、なにがしかの負担になろうけれど。
 しかしながら古今東西、嗜好のものは、チャップリンが酒について言うごとく、身体にはわるいかもしれないが心にはなかなか良いものなのだ、という言にも思いめぐらす余裕をもっておきたいではないか。
 問題にすべきは量だということだ。


 ところで人間は雑食の生き物だといわれる。
 中国料理を聞いてもそうだが、ほか世界中でいろいろなものを食べているようだ。

 また国内でも今では口にする人が少ないというものもある。
 私も幼いころを思えば、野山のものはスカンボ、野いちご、桑いちご、あけび。餅ぐさ、芹、ふき、わらび、ぜんまい、たらのめ、ほかあれこれ口にした。
 そういえば田んぼの稲の穂にむらがる「イナゴ」。あの佃煮は今も好きだ。
 後足と羽根をもぎとって食べる。
 さすがに黄金の穂を好む虫だけあってなかなか香ばしい。

 でも今遠慮する人は多い。
 料理されるまえの生物の原型をとどめた虫の姿のままは嫌がられるのかもしれない。
 私だっていかに精力がつくといわれても、蛇のあの長ほそい鱗がわかるまま、とぐろ巻きした煮焼きの皿盛りなら遠慮したい。

 食物は、生命を保つエネルギー源だ。
 口にすると胃におちて消化され養分となり、瞬く間に全身に配送されるらしい。
 そしてそれぞれの行き先で身体の一部になってしまう。食べたものが自分自身になるのだ。

 するとそのときまで身体を形成していた古い組織ははげ落ちて外にでてしまう。
 全身くまなく絶えず休まず、新旧の組織が交代をくり返しているというのだ。
 数ヶ月のあとには全身すべての形成物が入れ替わってしまう。
 今この瞬間の自分、身体の全組織の細胞は数ヶ月後すべて無くなってしまうのだ。

 それでも自分としての身体は存在する。
 記憶も受け継いで成長もすれば老化もすすむ。
 不思議なことではないか。
 その代謝が止まることが死だ。


 人生は、酒、おんな、うた。
 そう豪語したのは指揮者レオポルドストコフスキーとか。
 挙げたものを晩年においても楽しみ抜いたかどうかは分からない。
 が、かなり高齢まで現役で指揮棒を振っていたようだ。
 彼の精鋭部隊スイスロマンド管弦楽団のLPを私ももっていた。
 彼はたばこは挙げていないが、酒たばこにかぎらず、何にでもピンからキリまでの上下がある。

 口にして味を楽しむにしたがって、より良いものを望み好む舌になる。
 際限なくカネを貢ぐことにもなるだろう。
 ワインの年代ものなどがよい例か。

 グローバルではない時代には、異国遠国の珍味をカネに糸目をつけないで運び求めたという王侯の話もあった。
 贅沢という不幸がこれだ。
 贅沢は麻薬というゆえんか。
 これに溺れる人、いや楽しむ人というべきか。逃れようともがこうと、一瞬の舌先の心地よさからは離れられないらしい。

 贅沢というものはそれほどに至福の状況なのだろう。
 身体に良いの悪いのといわれてやめられるような贅沢なら、真の贅沢とはいわないのかもしれない。


 民主的になった現代先進の諸国に遺跡や宮殿を観て聞いて読むとき。
 往時の王侯貴族の桁違いな贅沢に驚く。
 広大な敷地と建物の壮麗さはもとより、贅沢のために、とてつもない人手を費やし装備して、カネにものをいわせ贅を尽くしたのを知ると度肝をぬかれる。

 今日の贅沢豪勢な食事もあすは普段食になる贅沢の極みがあったのだろう帝国の数々。
 エジプト、ギリシャ、ローマ、トルコ、フランス、イギリス、オーストリア、ロシア・・。
 いやわが国だって、日光ほかに権力者の豪華絢爛な超絶な贅沢の面影はのこっている。

 小市民としては、過ぎた昔にもかかわらず、あれほどの資金をどこから搾り集めたのだろうと思わずにはいられない。
 民衆の不満の突きあげが沸かないで済むはずもなかったろう、と。

 いつの時代もそうなのだろうが、カネは権力の有るところ流れ込む。
 栄華の頂点で贅沢欲しいままにする者へ、無駄を承知で売り込む商売押し売りの輩は絶えなかったようだ。

 現代も政府や所轄官庁にかじり虫が食らいつく。
 むさぼる産業企業の違法営利の数々は永遠に不滅なのだろう。
 うふふ。おぬしもワルじゃのうぉ、と。

 今はわれら庶民へだって、甘い言葉で迫ってくる贅沢商売。
 宣伝ビラや雑誌にコマーシャル。
 贅沢の波は限りなく押しせまる。

 必要かどうかも忘れ、不要な物ばかり買い集め。
 身の周りに溢れる。
 衣食住すべてにわたって、無くても間に合う小物。
 無い方が良い安物の駄作類。
 そうしたものが貴重な資源と労力を浪費して山と造られ。店頭に積みあげられ。
 ひもじいふところへ手をのばす。

 今は無いものはないという。
 だが贅沢品というまぶしい宝物のイメージはない。
 真の贅沢とほど遠いものが、質より量種類でにぎわいを競っている。
 それらを求め、身のまわりに増やすことを贅沢としている。

 思えば、この世を生きるには、何かを売ってカネを得なければならない。
 生きるための苦肉の浅知恵か。
 世のため人のためなどと云うが、人間は悲しい習性に生きているのかもしれない。

 自然のなかで四季折々の動植虫類を食して生きる生物たちの姿が、高貴に見えるのがこの辺りのちがいだ。
 なにせ彼ら生物は、小賢しく知恵などもって、栽培とか養殖とか。道具機械を使った生産や販売で生計を維持するなどは、一切しない。
 身をおおう衣類さえが、生まれたままの着のみ着のまま。
 親に与えられたもので一生間に合う。
 あとは手に入るもので自ら巣をつくり、自分で生み育てる。
 効率とかで協生だ、男女均等雇用と叫んでは、誰かに委託したりしない。

 そしてなにより、彼らの移動手段は人工物が要らない。
 道路も橋も車も飛行機も船も要らない。
 だから自然破壊もなしで不自由しない。
 それどころか、渡り鳥も鯨や鮭などは、煙も騒音もださず電気も燃料もつかわず、行動範囲数千キロという広さは信じがたい。
 耐えられる寒暖や地形高低差も、おどろくばかりだ。
 未開地のそのままに生息する。
 こうしたものが崇高な生き方でなくてなんだろう。

 地上の王と自称する人間が、知恵をめぐらせ痛い目を味わった今。
 真顔で力説する環境保護。
 その理想の姿が彼らにはとうにあるのだ。
 全能なる人間様には100パーセント不可能だろう生活が、である。

 私たち人間は、あまりにも欲ばってモノやカネを得ようとする。
 自分が今生きる分しか食わない。
 自分の手で得たものだけを食す。
 などという奥ゆかしさはまったくない。
 両手にできる分、自分の食い扶持を確保しただけで満足するなどはない。

 一心に貯め込む。
 知恵をはたらかせて集め貯めまくる。
 貯め増やす量は多ければ多いほど良いという。
 貯める量には際限がない。
 そういうことを集団で行う産業企業の活動の売り上げも利益も。
 これでもう充分だという声を聞いたことがない。

 史上最高益といいながら「まだまだ楽観できる状況ではない」と、二十四時間の昼夜。
 労働力を酷使して。燃料も鉱物資源も掘って燃やして。溶かして煙を噴き上げて。
 造るわつくるわ。
 その量を国民の数に換算して国際比較論じるGDP。

 底なしの欲望の者を仏門では「亡者」というらしい。
 がりがり亡者。
 病的でみさかいない強欲の者をいう。
 亡者とは、欲に取り憑かれた狂人のことだ。
 やがてわが身を亡ぼすということになる。

 子どもの頃の絵本によくそうした大食漢の悪魔などがあった。
「ジャックと豆の木」でも雲の上に棲んでいる魔物をジャックは見る。

 今地上生物の魔物というなら人間だろうか。
 この地上をほしいままに贅沢の限りをつくす人類は、ほかの生物が滅亡を願うほどに嫌われていないだろうか。
 先の嫌煙者たちが愛煙家を毛嫌いして追い出したいように、人間さえ居なければという願いはないだろうか。

 そこに気づいたか2050年までに、世界の煙、温室効果ガスの排出量を半減しよう。
 そうしなければ、ほかの生物どころか人類自らの生存すら危ぶまれる危機的未来が待っていると交わされはじめた。





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