・・・・ 夢舟亭 ・・・・ |
夢舟亭 エッセイ 2002/11/11---2008/10/25 見えないちから ふと秋の空を見上げて。 このところ独り旅をしていないなぁと思った。 クルマで走って、山道から峠にでた辺りで、脇道に入って一休み。 と、ちょうど陽がしずむところだった。 見わたす山並みの一帯が、夕やみにおおわれてくる。 と、ぽつっぽつっと、遠く家灯りがともりはじめていた。 ひとはよく夕暮れの街の灯にふるさとや懐かしいわが家のことを思うという。 ありきたりのそういう一言を知っていてもなお。 黄昏に、独り。 ああ今ごろわが家もあのように窓辺に灯がともって見えるだろうか、と。 あういう気持ちは何んなのだろう。 帰巣本能というものなのだろうか。 もっともらしい旅の目的など放りすてて、今すぐ引き返しまっすぐ帰ろう。 という気持ちがわき上がったのをおぼえている。 ふるさと。カントリーロード。旅愁、思い出のグリーングラス。鐘の音は短調に鳴る。冬の旅。新世界から、などなど。 遠いわが家を思う調べが世界に数多ある。 どれも心のなかからふうっとわき出す郷愁の思い。 その感傷気分は人間皆にある本性です。 住処(すみか)や巣をつくる生物なら。人間にかぎらず夕刻になると巣にもどる。 もどりたくなるようにし向けられてプログラムされているのかもしれない。 童謡ではないが、夕やけのそら彼方に鳴きながらもどるカラスが数羽。 山間のふるさとといわずとも、誰しも見たおぼえのある光景だろう。 夕方の東京駅新幹線ホームから、真っ赤で灼けてしまうのではないかと思える空を見上げたことがある。 そびえ立ちならぶビルのあいだをカラスが何羽か飛んで去った。 ああした光景が目に入るときのこちらも、つられるように家路へむかう気持ちがつよくなるものだ。 またそういうときにホームの通路に小さなアリをみつけたりすると、巣はどこなのか、早くもどりなよと、足をとめて心配したりするからおもしろい。 人家のない通りをうろつく犬や猫にもそういう思いをいだく。 犬は飼い主をまもり、猫は家をまもるなどということばを聞いたことがある。 飼い犬が、置きざりにされて。 どこかへ越してしまった飼い主をさがしあてたなどという話がときにはあるらしい。 何かのひょうしに綱をはなれて。数晩ののちにもどることはわが家でもたまにある。 猫もむかしから飼っているが、そとに出て迷って、数ヶ月のあとにもどってきたことがあった。 もどろうという意志はどこから湧きだすものか。 たどり着くまでの力というものは何なのだろう。 それまでして見つけ出し、行き着く先への思いとは何だろう。 この季節に空を渡ってくる鳥もまた毎年大陸との行き来て、ほぼおなじ時期におなじ河や湖岸におりたつ。 かれらの意志や好みでそうするというのではなく、備わった何かがそうさせるのだろう。 アジア大陸の、はずれにある列島小島群、このニホンも人の手が加わって拓かれてしまっている。 そんな河川ではなく、もっと別なところに住み替えれば楽しかろうと見ている。 だがとうの鳥たちにはどうしようもないことなのだろう。やはり今年もきている。 おなじこの時期には魚も帰ってくる。 先年、鮭(さけ)の河のぼりをみてきた。 海に出て二三年海遊しては、生れた河に必ずもどってくるというのだ。 生まれた河といっても、現代では卵から人工的に孵(かえ)した稚魚を、河にはなすだけなのだ。 それでも、産湯としてつかったその河の水を、自分のふるさとと憶えてしまうらしい。 成魚になっても、何をどう記憶しているのか。迷わずにその河に帰ってくるのだ。 海から1キロほどのその河岸でみていると。 体長1メートルほどの鮭たちは、ごつごつ石だらけの浅瀬を次つぎと流れにさからってくるのだ。 下あごが鍵型のするどい歯があるのがオス。 口もとの上下に丸みがあるのがメスだ。 オスはさかんにメスに追いすがり、からみつく。 自分の子孫をのこすための死の帰行にそうした性をみせる。 堰きとめたコンクリートのごく浅い急流まできたオスがメスを奪いあっている。 長いからだ背の半分も水面からだして満身の力でメスを追っては必死に泳ぎのぼる。 だが河の流れには勢いがあって、流れにもどされてしまう。しかしまた泳ぎのぼる。 また流される。 それでもまた尾びれにあらん限りのちからをこめてひねる。 ついには堰をのぼりきる。 と、すでにべつのオスがお目当てのメスをどこかに連れさっている。 メスなんかまたさがせばいいんだよ。 それを見ていて、川面につぶやいてしまう。 そういいますがね。おれの生命は間もなく終わっちゃうのでしてね。 ひと跳ねすると、何かに突き動かされるようにまた深みを先に向かうのだった。 河岸に捕りたての鮭即売小屋があったので入ってみると、鮭が幾尾もならべてある。 メスはこっちで、オスはあちら。 メスは卵を腹にもつので高価。オスのほぼ二倍だ。 人間のオスとしては、メスの銀いろの下腹には肩身がせまい。 ほぼ生を終えた世代のわたしはあちらの鮭のオスに同情をおぼえる。 鮭の卵とは、いうまでもなく、すじこ。 大粒にばらして、イクラ。 下腹部がふくれたメスからそれをとりだして、炊きたてのまっ白ご飯にふりかけたイクラ丼。 それへ舌づつみをうつ客が数人箸をうごかしていた。 まさか鮭たちは思い描いていたふるさとの河にこうした終末が待ちかまえていようとは、つい知らず。 手みやげで走りこんだ懐かしい自宅のドアかげに刃がひそんでいたようなものか。 命をかけた泳ぐ様を思えば、切ないものを感じる。 地上の王であるわれらは、鮭という魚の本性をたくみに利用して食す。 この先も鮭の子孫たちはおもむくまま生きてなお、人間の支配をふりほどくことはできない。 自身の種に備わった性により、人間が追ってゆけない大海の中にいても、のがれられやしないということか。 もっともそれは、わが人間種族とて口を潤そうとする欲望というちからのなせる行いにすぎない。 食していい思いをしたところで、今日より明日、明日よりあさってと、一日いちにち絶えまなく命の終末にたぐり寄せられている。 見えないけれど確かにあるとてつもないちからに支配されている。 たどり着く時の先という点では、鮭となにほども違いはあるまい。 わるいことに人間は、脳の悲劇とでもいうべきか、知恵などあるから、首につながれた綱の引き行く先を自覚しなければならない分つらい。 綱の長さ、つまり命の時間の枠をのがれて、まさか数百年も生きながらえられないのだ。 わずか数十年の寿命なのだ。 となれば、知らず考えずに、命の旅を夢中に楽しむ鮭のほうがずーっとしあわせかもしれない。 不治の病を告知されるか、されないか、の余命のすごしかたのちがいかもしれない。 命の断片のこの1分1秒は、大地にはぐくまれて宿った命を、大地にもどす日までの旅なのだろうか。 しばしの周遊チケットを与えられ、今日も未知の町にたどり着く。 未知とはいえ、この旅はいやおうなしに、通過しなければならない道程のいくつかがきまっている。 自我にめざめ、反抗心をもち、青春は異性になやみ、夫婦を組み、子どもを得、老いる。 やがて親が逝き見送り。 育てた子や伴侶と死別するときがくる。 停まることもできず、前に歩みつづけるしかないこの道程は、自由じゆうと叫んでも、貧富賢偶聖卑の別なく。大方のところ差はない。 そうした人生の陽がおちてあちらへ旅立つ闇の峠から、わが家をふりかえるとき。 死者となった私がこの世の生を懐かしむひととき。 向こうにともる灯りをどのような思いで見るものだろうか……。 そんな思いが湧いて。 グロテスクに描かれた絵のような鮭の亡きがらが、欠けガラスのようなクズ氷を全身にふりかけられて横たわるそばに寄った。 そしてもの言わぬその一体のとげとげしい口の歯にふれてみようとした。と−− ああ……おれだって思い出すことはあるさ。 あれは深い海だったなぁ。 ついきのうのようだよ。 出会っちまったのさ、あの娘(こ)とね。 忘れられないなぁ。 ふふ。しばらく楽しい日がつづいたものさ。 けれどある朝。 もどる河がちがうの、っていうんだ。 別れぎわに泣かれちまってねぇ……。 仕方ないのね、お元気でなぁんていって……。 へへ、むこうの群のなかに去っていった。 ……なんでおれは着いてゆかなかったのだろう。 ああ、今じゃどうにもならないなあ……………… そして、うぁーというどうにもやるせない声が低くその口からもれて聞こえた。 驚いて鮭から手を退いた。 あとずさって店のそとにでた。 そしてあかるい空を見ようとする。 と、一瞬めまいをおぼえた。 気づくと、からだが小屋のうえまで浮きあがっているではないか。 小屋の全景が眼下にあった。 そしてからだはどんどん高度をあげてゆく。 もがいても、だれも気づかず。 叫ぼうにも声がでない。 まるで映画のスクリーンで、カメラが空中に退いてゆくように。 はるか下に鮭の群れる河が見え、土手の売店小屋が小さくなって、軒の「さけ」の旗の字が見えなくなり。 どんどん上がってゆく。 やがて河口の先まで視界にはいる。 上昇はつづき、河が海に流れこむあたりが見え。 大海原が……。 ついには竜の落とし子のかたちの日本列島が。 そして、まるい地球のよこにそれが貼り付いてみえる。 ついにはイクラの一粒のように地球が暗い空間の奥に小さくちいさく去ってゆく。 うぁーという鮭の声がわが声となって響いてくる。 視点がどんどん退いてゆくと。 やがて地球は遠ざかり、かなたに小さく針先のような光点となる。 それでも離れてゆくと、白くまぶしい星雲のなかにとけこんでしまった。 −了− |
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