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夢舟亭 エッセイ    二〇〇七年 一月 十三日


     右脳


 身体の一番上にある頭。
 そこには脳という器官がある。

 考えたり思ったり感じたり、悩んだりする脳に、指示されながら人間は日々生きている。
 だが、じっさい脳が頭骨のなかにあるという以上の、詳しいからくりはあまり解明されていない、らしい。

 だから自分自身のことなのに、この顔の、目の奥、鼻の裏がわに位置して。
 左右の耳の間にある、脳のことが分ッからな〜い。

 分からないのではあるが、脳の「左脳・右脳」という面白い説があるのを知っている。
 とはいえ私的アナログ論調であってみれば。
 学術的な難しい論文などとはまったくちがう土俵に話を持ち込んでしまうのは、いつものことである。

 ところで喜怒哀楽の感情感知だが。
 喜びを求め、楽しみ。また不意におとずれる出来事によって憂いて、怒り、哀しみを感じるが。
 そうしたもろもろに遭遇するたびに脳は種々反応する。
 その反応すべてを人生そのものとして受け入れられるなら。
 それはシアワセ以外のなにものでもなかろうこと。
 わが脳が、日々を楽しいと「感じる」のは何よりもありがたい。

 そうした感情や感性の動き働きは、右脳がつかさどるといわれ、た。
 ということは、人生を豊かに「思えるか」どうかは右脳しだいということ。

 そういう脳の解明についての説が、ある時期が言い交わされ、持てはやされたということだ。
 右脳左脳の説とは、論理的に数式を解き明かすことを左脳が受け持ち、感性面の活動を右脳が行っている、としたあの論である。

 だがこの説はその後、医学的根拠がないとされ、現在に至っている。

 残念!
 私はこの考え方が好きなのに。

 もっともこの私ときたら、脳医学とか脳生理学など皆目分からない。
 いや医学なることがそもそも分からない。
 どのくらい分からないかといえば、動脈と静脈の役割もかなりあやしい。

 そんなわけで、この左右脳のことも、脳の左側と右側に明確な役割分担はないらしいと、最近聞き知った。
 だから、まさか左右脳の存在を再主張するなどできやしない。

 できないのではあるが・・。
 この脳が、左脳右脳論的な働きをじっさいどこかの部分で行っているのはたしか。
 だから、ここではあえて、きわめて俗な話をすることで、とくに「右脳」論を楽しみたいのであ〜る。


 さて、私も多少の加減乗除(+−×÷)四則計算なら、左脳性能として自信が無くもない。

 また、山深いこの地一帯の、真っ白な積雪の綿帽子にうずまった風景のなかに、昇る朝陽がきらっと輝くのを見ると、一服の絵として観ることができる。
 目の情報が右脳に伝わり、軽い感動のひとつも抱くことができるのだ。

 つまり完璧で高性能とはいわないが、左脳も右脳も一応は首のうえに持ち合わせている。
 いうなれば脳味噌ユーザーのひとりなのである。

 左脳っぽい理詰めの働きも、情緒感情系の右脳の作用も、ともかくこなしている自覚はあるということだ。
 付け加えるなら、私の場合は、右脳のアナログさを「ひいき」しているようなのではありますが・・。

 そんな私的見解をいえば、右脳は生命の喜びの源ではないかと思うのです。
 面白い、楽しい、イイ感じ、嬉しい、愉快だ、好きだ、爽快、美味しい、きれい、恋しい、素晴らしい・・などの直感で満足を感じるアンテナなのだから。

 四肢五体人間1人分を一国とする帝国を治める王として、より豊かに治め(生き)ようとするのが右脳のように思えるのです。
 そのために、少しでも有能で、小ずるい知恵者である左脳を従えて使いこなそう、とすのではないかと。

 だから、落ちついて、冷静に、というときは、大王である右脳を、左脳という賢明な家臣が制している状態。
 ときには、そんな左脳をのけて、右脳大王がバクハツということもあるわけで・・。

 いずれにせよ、人は左右脳の主従関係のバランス点をもって、理知的だとか感情的なやつだとかの、個性や性格をいわれる気がするのです。

 そしてその個性をうまく制御することが、豊かな王国(人生)を築く鍵なのかもしれないと。
 あまりに家臣である左脳が有能すぎると、理知的で自制的に偏り、人間的で豊かな満足感が味わえないということもあるわけで。

 つまり私的には豊かな人生は右脳の満足の程度で決まるのではなかろうか、と思うわけ。

 私的な言い方をさらに続ければ。
 人生の満足度は、気持ちのもちようだ、とも言いたい。
 気持ちのもちようというより、右脳をいかに上手に騙すか。

 それには「関心や興味の向けどころ」が肝心。
 あるいは「楽しみ方の工夫」か。
 または「喜び癖」や、「珍しがりの性癖」というのが分かり易いかもしれない。

  うむっ!? それって、なに?
  おぅ! いいねぇ〜。
  悲しい話だぁ……くしゅ。
  へーぃ。なるほど。そういうことかぁ。面白い!
  なんともまぁ、切ないじゃありませんか。
 というふうな具合に。

 ところが感情の溢れ度合いは、1000円分の喜びとか、1万円の感動といった万人共通基準がなく、測れない。
 きわめて個人的な尺度で実感するしかないと思う。
 つまりは「気持ちの持ちよう」で異なる。

 風光明媚な山紫水明の鑑賞にはもちろん、一見何気ない山川草木、花鳥風月にも、先出しのこうした言葉を頻発させながら、眺め入ってしまうなら。
 楽しさが湧きあがってくる、ということだ

 愉快さを感じることは、右脳の得意わざである。
 が、欲望として無為に奔放に、拡大肥大させても。
 案外保たないし、続かない気がするのです。

 日常のじっさいは、望んでいても、そうそう愉快な状況に巡り会えるものではない。
 また、訪れても気づかないで、過ぎ去ることがおおい。

 人生は、成るがままそのままでいると、忙しい割に平板で退屈なものになる気がします。
 だから、気持ちを常に楽しく持ちあげて、「その気にさせる工夫」が大切だと思うのです。

 ただなんとなく生息しているよりは、左脳の協力を得て、向学の思いも伴って。
 興味や関心をおおくのものに向ける。

 右脳の感度を高めながら、飽きさせないようにし向けて。
 石ころも、ダイヤに見いだすことだと思う。
 ダイヤだって石ころなのだから。


 見るもの聞くもの触れるもの。
 もの珍しげにチェックし、キャッチする好奇心だろうか。
 同じ事も人より10倍楽しみ100倍面白がれるなら最高だが。

 思えば子どもだって、楽しくも面白そうでもない大人のなかに生まれ育つなら、楽しい生き方が身につくはずはない。

 身のまわりにフツウにおとずれる小さく、ささいな喜怒哀楽こそドラマチックな目線で。
 カメラのファインダーや大型スクリーンから見るように。
 意味ありげに感受する習慣を小さいうちからつけることだと思っている。

 作為的なゴールデンタイムのトレンディものやハリウッドのスーパースターよりも。
 ごく地方の片隅の、AさんやBくんの口から、行動から、見つける目耳。
 どこにでもある感動シーン。
 何気ないのにはっとする一言。
 ふと目にとまった動植物の生態。

 数値の差や、論理性。または権威などを第一に考えては、賢く立ちまわる左脳。
 生き方の主導権を左脳にうばわれた生活をしていると。
 どうしても、ただ正しいだけでじつにつまらない考えに収束してしまう。

 同じ人生なら正確さより、やはり楽しさ指向がいい。
 正しく間違ってはいないのだけど、どうにつまらない人、なーんか魅力のない人。
 そうではなく、多少いい加減でも可能なかぎり左脳優先はひかえて。
 楽しさ面白の右脳型で行きたいと思うのであ〜ります。


 だがしかし。
 そう思ってみても、和式帆掛けの、宝船に居並ぶ七福神の笑顔のようには、なかなか悟りきれないものだ。

 つまり、私的な右脳優先生活論は、現実の裏返しであることも了解されたし、なのだ。

 そういえば古くから語り尽くされた言葉に、日々是好日、という5文字がある。
 このたった5つの漢字の意味するものに、ここまでのなかなか出来ない私的雑言が、近づこうとしている、ということだ。

 好き日をおくるためには、さらに私の苦手な謙虚さと感謝が要るのかもしれない。
 つまり、もっともっと俺が楽しい思いをするためにはと、はた迷惑な物金欲では、日々の豊さは得られないということだ。

 こんなことでさえもわが右脳は楽しめるのだ、という境地だろう。
 そういう意味の右脳優先の考え方は、金銭出費がほとんんど不要であり。
 そしてとっても健康的なのだ。

 それにしてもである。
 理想ではあるが、先人の仏門的、日々是好日の知恵にはなかなかにして及ばないものです。



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