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夢舟亭
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<この文章は商業的な意図をもって書かれたものではありません>


文芸工房 夢舟亭  エッセイ 2006年10月18日 (修正 2009/05/11)


    ミレー



 都会、というと−−
 モダンでハイセンス。
 着飾った清潔な人たちで賑わっている。
 科学技術による文明の香りがあふれている。
 そういう発展や進歩のイメージでしょうか。


 では、農村は−−
 どこか前時代的のまま。
 閑散とした風情。
 自然美、といえば聞こえはよいが、不潔。
 あまり科学的進歩を感じさせない。


 両者のこうした印象はいつの時代もほぼおなじ。

 そこでどうしても前者、都会の人気が高い。
 いなか者、という蔑視言葉もあるくらいです。

 では芸術において、いなかは用無しかといえば……。
 けしてそんなことはない。

 詩でも音楽でもいなかの風情や山並み風景。
 あるいは緑深く小鳥が鳴く林道などはとても人気が高い。
 いわば芸術には必須アイテム。
 絵画もその点はおなじ。

 先進的人工美より、心和む自然美が好まれる。それが芸術世界。


 そこで私が思い浮かべるのは音楽ならヴィヴァルディの四季。
 とくに私は「秋」のいなかの収穫の楽章がいい。

 時間に余裕があれば最初の「春」の楽章から順に聴いていって、豊穣を祝うところまで進んでこそ、いっそう満ち足りた気分になれる。

 また楽聖ベートーヴェンにも交響曲(第六番)「田園」というとっておきの曲もある。
 いなか気分満喫度100パーセント。

 けれどベートーヴェンの交響曲(第六番)「田園」も、ヴィバルディの「四季」も、わが国のいなか気分というのとはちょっとちがうかな、と思います。
 ニッポンの田園風景というには少々無理があるかな、と。
 ニホンのいなかの定番、田んぼ。
 あれは西洋にはない。

 よく言われるあちらの田園とはニホンでいえば高原や草原にちかいとか。

 そういう意味では秋の季節なら「里の秋」や「赤とんぼ」、あるいは「荒城の月」を、室内楽ふうに編曲などされて奏される方がずっと日本的です。


 さて絵画で、西洋のいなか、というなら。

 ミレーの「落ち穂拾い」や「晩鐘」を思い浮かべます。
 農耕の様子を描くことに半生をかけた彼の農村風景へ向けた視線に共感してしまう。

 もっとも私のミレーへの思いは、単に絵そのものに限っていないのです。
 生き方への敬慕の様な思いが混じる。
 それはロマン・ロラン著の「ミレー」や「ミレーの生涯」(画商である彼の友人といわれるサンスィエが書いたもの)など読んだことにもよる。


 そこでしばらくはミレーへの思いにお付き合いいただきたのです。

 ミレーは1815年生まれ。
 1812年がナポレオンのロシア攻めだから、激動の時代のフランスだったわけだ。
 幼い頃から絵がうまかったこともあり、いなかの期待を背負ってパリに出た。
 そして苦学した。

 だが当時のパリ画壇の風潮に乗れず沿えず、妥協できずに。
 自分を欺くことは長く続かないのは、彼の性格生き方ゆえ。
 けっきょく、身に馴染んだいなか生活に入った。
 それが彼を農民画家と言わしめるに至った経緯だ。
 
 そのため、友人に借金し続け。
 家族妻子を困らせる貧乏生活。
 当然の成り行きといえば、それまで。

 だが、そういうなかで「晩鐘」「種を撒くひと」ほかのいなかの生活シーンである名作を生みだしていった。
 ミレーその人が天才画家とか偉人として称えられたのは、死後なのだろう。

 しかし彼がもしも、貧し窮しに耐えられなかったなら、200年もの後に。アジアのこんな片隅の小市民私などが、その絵はもちろん名を崇めることも、遠くパリのオルセー美術館へまで出向くことも無かったはずだ。

 今もミレーの作品はかの国が生んだ多くの画家が遺した作品とともに、仏国の国宝として、世界から訪れる人々の心に染み入る光を発している。

 絵は「暇つぶしではないのです」と言っていたと読んだ記憶がある。
 上流富裕層のファッションや装飾物ではない。
 またはそういう売り物作りの職人ではありたくない、という思いがあった様だ。

 それが信念となって、生き方に現れて。
 芸術という領域を確かなものにしていったのだろう。

 たしかベートーヴェンも、音楽は貴族の旦那方のお遊びお楽しみにあらず。として取り組んでいたと読んだ。
 その考え方は以前のモーツァルトなどの音楽観との大きな違いであろうと。

 これがミレーやベートーヴェンにとっての、芸術という意味を示しているのだろう。
 ならばこそ、芸術作品というものは富める者貧しい市民の別を問わずに、真剣で崇高な精神活動の成果物と信じる者に光を投げかけうるのだろう。

 ちなみに、1770年に生まれて1827没。57年生きたのがベートーヴェン。
 ミレーは1814年生まれで75年没だから、61年の生涯。
 生き方で共感できそうなこの二人が出合うには、ミレーは遅すぎた。

 いずれにしても、きわめて自分的路を拓くなかで生み出された作品の、その影響力は今にしてなお大きいものがあるのではなかろうか。

 ミレーが見た頃のパリの絵の業界は、いつの時代も同じだろうが売れる絵は面白く奇抜で、ときにエログロっ気が芸術として喜ばれた。
 売れる絵と、描きたい絵。その隔りに目をつむり、描きたくないが売れる絵に流されなければ生活はままならなかった。

 絵に限らず、本来芸術というものはお金儲けに向かないのではなかろうか。
 お金の額と芸術の価値は不定であって。評価する者によって判断は異なる。

 エンターティメント(娯楽)と異なるとした芸術家の意識は、即生活維持の苦労を覚悟せねばならない。
 これは真の芸術家の永遠の悩みなのだろう。
 あのミレーもこの悩みの中で名声に流れ漂っていたことがあった。
 有名なエピソードの一説もそのころにあった。

 その当時のミレーは地方の絵の天才として、期待を一身に浴びて、また当人も自信と希望に満ち溢れて、都パリへのぼった。
 間もなく画壇デビューの官展(サロン)入選も果たした。
 名も知られはじめた。

 しかし、なにか満足しかねる。
 だが食うためには売れなくてはならないという画商の説得もあり、売れ筋の絵を描き続けたという。

 そんなある日。
 ミレーとも知らずに、画店のウインドウ越しにミレーの絵をながめていた男が、嗤って言った。
 おい。見ろよこの絵を。どーしようもないぜ。こいつは墜ちたね。この絵描きはこーんな絵を描くようになっちゃお仕舞さ。ばかなやつだ。せっかくの才能をドブに捨ててやがる。

 売れる絵の空っぽさを見透かされた。
 その時、ミレーの目が醒めたという。

 感じるものあったミレーは、間もなくパリ郊外、バルビゾンに移った。

 そこで見いだしたのが、今われらが目にするいなか風景、農夫たちの姿だった。
 種を撒く人、晩鐘、落ち穂拾い、羊飼いの少女・・が描かれることになったきっかけがそういうエピソードだという。
 ミレー神話だ。
 これは世界画壇の分岐点であったろう。

 しかし、悪魔に魂を売らなかったミレーをその先で待ちかまえていたのは、貧乏神だった。
 きらびやか系絵画全盛の時代に、田舎風景にどんな価値を見ろというのかとささやかれた。
 田舎臭い風景、土臭い百姓の姿には、当然のことながらだれも見向きはしない。

 やがて、何点かは出展して認められ、受賞して称えられた。
 後にまで遺した作品群の創作期だ。
 とはいえ、その絵の意味が理解できるほどに、受け入れられるまでにはまだ遠かったらしい画壇。
 結局死ぬまでマル貧状態だったといわれる。

 それまでして描き遺した作品を、彼の死後、異国の富豪が巨額で買い取り国外持ち出し。価値に気付いて買い戻した、フランス人。
 国宝として国に献上された。
 今、国の宝、国民の誇り、となっているという。

 私が特に好きな絵は、夕べに祈る農民の少女が羊の群とともに描かれてある「羊飼いの少女」。あれもまた買い戻し境遇の、一作。

 数年前、渋谷(bunkamura)にミレー三大作品が持ち込まれたことがあった。
「落ち穂拾い」「晩鐘」「羊飼いの少女」。
 この名画三作の前を、行きつ戻りつの何度も、拝むように見入ったものだ。


 ところで彼の絵のなかの農民の姿を、わが国では、農耕作業労働を愛する晴れがましくも誇り高い農民の姿とすることが多い。

 しかしこれはきわめて誇張であり歪曲した見方であろう。
 あくまでも絵の中は、恵まれない農奴的小作民の、日々の糧にこと欠く貧苦の姿である。
 それを彼なりの視点で画題にしたということだ。

 落ち穂拾いというあの絵だが、刈り取った後の落ち穂を、誰がなぜ拾うのか。
 言うまでもなく、落ちこぼれた穂を拾っているのは、それを許されたひもじい者の明日の食なのだ。

 晩鐘に何を感謝するのか、といえば。
 今日一日、馬車馬のごとき重労の苦の終了の訪れに、よくも保ち堪えたと、わが体力にこそ感謝するのでる。ああ、明日も無事で終えたいものだ、と。

 ほかに、耕しても耕してもまだ続く農地の広さに辟易して、鍬を立ててその柄に顎を載せて、あえぐ男の姿もある。
 希望もない疲労困憊のあの姿こそが、当時の農民の苦しみの図でなくて何だろうか。

 限られた数、ほんの上澄み、上層の、贅沢な生活に明け暮れる富豪貴族に吸い上げられる収穫。
 その配分や自由時間を、働く自分たちに取り戻そうと立ち上がる市民革命。
 そうしたことを起こさざるを得なかった、そこまで至った民衆の怒りの国だ。
 過半数の底辺の人たちの精一杯の生きざまが描かれているのが、ミレーの絵だ。

 だから、ミレーの農民の姿絵を掲げては、貧しい生活においてもなお分相応に素朴で実直に励めなどと言うのは検討違いも甚だしいのだ。
 まして、働かせ、かしずかせるための、その見本として利用などされては、ミレーもたまったものではなかろう。

 だのに、たとえばわが国などで「かのフランスにおいては、この通りに、農民は輝かしくおのれの仕事に誇りも自信ももっているのだ」と、曲解を押しつけては小作農に見せつけてはいなかったろうか。

 思えば、わが国で地主から小作民に農地解放されたのは、ミレーの時代から150年も後の、大戦後1950年代に米軍の指令でようやく成されたのだ。
 どうも人間の歴史は一見する絵の美しさとは異なるものの様だ。

 絵に構図に筆づかいに、感動するのは大いに結構なことだ。
 だがしかし、曲げて解釈してその名画を利用して、どうせ知らぬからと、苦役を貧農に押しつける材料にしようとするなら大間違いだ。
 それは危険でさえある。

 そしてミレーこそが一番嫌うことではないかと思う。

 汚いものは汚く。
 可哀想なものは可哀想に。
 苦しみはあくまで苦しく。
 それを克明に描きるのが名画家の技量であろう。
 であるなら、下手な感傷や政治気を排して、無心に向き合い、そのままを受け取るべきが名画、ミレーの絵の見方ではないだろうか。

 ・・と私はいつも思うのだ。






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