エッセイ 文芸工房 夢舟亭
2007年12月29日
餅
今は何んでもある。
とても良い時代だ。
そういう言い方を耳に目にする。
人により、おかれている状況と経験から思えば賛否いろいろあろう。
それでも現在のこの国の物量は、悪いとはいえないと言えば異論は少ない気がする。
食物でいえば、化学物質の研究により食品の腐敗を防ぎ増産を可能にした。
とはいえ鳥獣の不可解な病死もある。
中国はじめ近隣後進国生産により製品価格も低下している。
その分、品質に不安があり、また国内食品業の職場は空洞化した。
昨今は賞味期限の偽りもあった。
ほかにも裏には多くの不安が語られている。
正すべき問題は大いに指摘し、表面に出すべきだろう。私なども大いに知りたいところだ。
先日、中国の食品産業の品質に関する記事で。
最高品質レベルは欧州へ。次いで米国。
残りはわが国でありアジア域への出荷だ、とあった。
そうしたことを含めてみても、広く世界を見渡せばまだまだ高いレベルを確保されている方だと思う。
逆にいえば、世界の状況は、高位の十数カ国を除けば、わが国の数十年前のように食えればまずは良し、の状況ではないだろうか。
わが国は今、一時の経済大国の誉れと国民皆中流という酔い気分はない。
餓死という言葉を聞くようにもなった。
それほどでなくとも廃物から食物を探し食らう様子が報じられたりする。
ボール紙で寒気から身を守る人々も珍しくない。
それでいて、主食の米過剰を回避するには、という政府と農家の生産調整のせめぎ合いが続いている。
作れるものなら作れるだけつくって、欲しい人には内外問わず余るなら与える。
そうした温情はあってしかるべきだと思う。
だが、捨ててでも商売値動きを押さえるのが経済理論だという。
昔ふうにいえば、お天道様に聞かれたら申し訳ねぇ話が、今の世真顔で交わされている。
何でもある、とは言い難かった私の幼いころ。
育った地域の農家は、この季節、収穫が済んで野菜の保管などが終わった人たちは家にこもった。
積雪が多いときは村から町にでるバスは通らない。
となれば、あっさりあきらめた。
ほかに交通手段もなく、皆が雪降り積もるのにはさからわず、あっさり降参した。
積雪にもかかわらず、なんとかして町に出ようとあがく者こそ、いい笑い者だった。
のんきといえばのんきな時代だったのだ。
そうした冬休みに、農家の友人へ遊びにゆくと。
大人たちは囲炉裏や炬燵で暖をとり、口をとがらせ、温かいものをすすっていた。
世間話、うわさ話やざれ話。
あるいは自慢や失敗談。
いろいろ混ぜあわせては、飽くことなくしゃべり合っていた。
わっはっは、と沸く笑い。
見あげれば萱で葺いた天井が煤で黒く、高い。
そのすき間から、軒先のツララん棒が見えた。
解けて垂れているツララの滴に、かまどの煙がからまって。
その向こうには冬景色が灰色にかすんでいた。
話がとぎれると、おいそっちの小僧手をだせやと、お茶うけのつまみにおよばれしたものだ。
と、皆の目がこちらに集まる。
この子はどこの子だ。
ほれ、何某の子で、なんのたれそれだぁよと紹介される。
そういえば、某の隣の、だれかれだがな、嫁はとったかやと、うわさ話は再燃して果てない。
子どもひとりが話の火付けに一役かうことになるのだった。
そうした時に、そろえて出した小さい両手に。
地元で穫れた野菜の漬けものの、たくあんやや白菜が、盛り皿から箸ではさんで、載せられた。
その茶うけの漬け物の、美味しいこと。
家によっては梅干しを砂糖からめてだされた。
当時白砂糖などは高級で黒砂糖が多かった。
近年、カリカリ梅などという小袋入りの実が売られているが、あれより湿りしわののあるものだ。
もちろんそれもまた自家製。
炬燵で温まった胃袋に、ひんやりと流れ込んで美味しかった。
焼酎で渋味を抜いた漬け柿などもあったし、きのこやわらびなど山菜も種々あった。
ほかには、さつまの薄切り干し芋も噛むと甘味がありなかなかにイケた。
イカと人参漬け。ふかし芋やかぼちゃ、干した大根や里芋の茎の煮物などなど。手のこんだ田舎料理もご馳走だった。
勤め人の家の子の私には、家族がいつも居る雰囲気とそれらのお手製お茶うけが、なにより羨ましかった。
店から買い求めたものは、せいぜいが煎餅やアメ玉など。
ときには饅頭や最中などがあったが、冠婚葬祭のもらい物だという。
季節は違うが、青梅、ゆすら、プラム(当地では、はたんきょ、と呼んだ)、グミ、あんず、いちじく。キュウリやナスの漬けた物はもちろんトウモロコシ。
家でとれるものは何でもお茶うけにもおやつにもなった。
皆で遊ぶなかで、友の母や祖母にそうしたものをおやつにだされて食べた味は忘れられない。
密かなそれら楽しみの極め付けは、年明け後の餅だった。
今なら、食べたいときに餅米を研いで餅つき機に入れてスイッチオン。
ふっくらすぐにも食べられる。
そのせいか昨今の子どもに、餅は魅力ある食べ物ではないようだ。
だが当時の餅つきは大晦日に杵(きね)を振り上げ、臼(うす)につき降ろす作業の特別な食べ物だ。
年末の、作業というより儀式だった。
家が建て込んだ集落を通ると、どの家も庭先で男手がドスッドスッと杵を振り下ろしていた。
臼のなかへ白い手をのばしてこねるのは女たち。
終わると、べたつかないように粉をまぶす。
ちぎった数個をまるめては豊穣の礼と祈願に神棚へ。
ほかはひろげて固めて乾かして。老女たちが四角に一枚一枚包丁で切る。
二十枚組みほどに藁で束ねては、一月なかばまで煮たり焼いたりして食べる。
目の前の囲炉裏でたき火や炭火に網ワタシで焼く。
まっ白四角な餅には網の焼けあとがうす黒くつく。
香ばしい匂いをあげてこんがりキツネ色になる。
やがてぷくーっとふくれる。
それに砂糖醤油をつけたり海苔を巻いたり。黄粉(きなこ)をつけたり。
ふうふういいながらかぶりついて、ひっぱると伸びるのびる。
同じ土地のものだろうに、請け負い仕事に頼んだわが家の餅とは味が数段ちがう美味しさなのが、いつも不思議だった。
不思議といえば、数ある友の家それぞれに、餅の焼き方や添えられた漬け物の味が、微妙にちがうのを憶えている。
農家の大人たちが春夏秋に力いっぱい働いて育てた作物が収穫され、手がくわえられておやつにもご馳走にもなる。
そうした様子を常時目にしては、店で買うしかない自家が恥ずかしかった。
今、いなかでも都会的が先進でカッコいいとして。
華やかな宣伝映像に紹介されるコ綺麗な包装商品が店棚に並ぶ。
そのなかから選ぶという食品購入が当然となったのは、いつごろからだったろう。
当時も都会への憧れや都会っぽいものへの欲求はそれなりに抱いていた。
お店から買い求めて包装紙とリボンが結ばれたプレゼントは幼い心をときめかした。
それでも、新年にだされたあのお餅のおやつは、私には特別まぶしく、尊い食べ物に思えた。
そういう風景のなかで誰となく耳にした「もったいない」。
それは家族が一年かけて作った米なんだぞという友の無意識の誇りある言動に現れていたせいなのだろう。
今日、スーパーで切り餅袋を目にしてそんなこと思い出した。
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