・・・・
夢舟亭
・・・・

<この文章は商業的な意図をもって書かれたものではありません>


文芸工房 夢舟亭 エッセイ   2006年01月14日

    モーツァルトのピアノ協奏曲


 この地上には、とてつもない能力の人が居るものだ。

 その様な事は、たいがいの人が想像できよう。
 しかしながら、その「想像」の程度はかなりの違いがある様に思う。

 数値で明確に表せるスポーツ記録ならともかく。
 また世界共通の価値観おカネ商業売り上げや利益の値ならいざ知らず。
 はたまた手近な例の、テレビ視聴率数値などなら話は早いが。

 実際、算出測定の基準や方法や時代社会動向や地域環境の違いを、と厳密に言うならきりがないのではあるが。
 こと人間の持つ能力というものだけは、掴みがたく測りがたいのである。

 成人式や卒業祝辞で若者には「無限の可能性があります」と贈る。
 世の職種をはるかに超えて「人より上手く出来る事」はいろいろあろう。

 そうした「人より上手く出来る事」の中でも、こと芸術の才、とくに音楽を生み出す能力となると、これは測りがたい。
 測りがたいのに、それは間違いなく存在して、人により雲泥の差があるのだ。

 そこで今回はモーツァルト。
 ベートーヴェンより14才歳上。
 1756年に生まれ。
 なんと35年間というわずかな命。

 その短い炎の時を、数多の楽曲を生み遺しに費やしたその男。
 ・・と分かったふうに書いたものの、遺した全曲を聴くなど簡単にできるはずもない。聴き終えたわけでもない。

 交響曲は40曲を超える。
 ピアノ曲もソナタあり協奏曲あり。
 室内楽構成の弦楽合奏あり。
 ヴァイオリン曲、クラリネットやフルート、ハープの調べと、存在する楽器のことごとくに渡る。

 そしてオペラ曲やレクイエム(葬送曲仏式に言えば枕経でもあろうか)などなど。
 後々までの世界中の音楽ファンに、あふれるほどの名曲を遺してくれた。
 三十歳代の半ばで逝ってしまうまでに……である。

 それなに、それほどの偉業の亡骸遺体は、埋葬場所さえ定かならずという。
 ウォルグガング・アマディウス・モーツァルト、のフルネームの「アマディウス」は、「神に選ばれた者」の意味と聞く。
 その神からの特典は、音楽を生み出す才にのみ限られたのだろうか。

 モーツアァトについて話し交わすとき、近年広く知られるに至った映画「アマディウス」の功績は少なくない、と言われる。

 もっともあの映画は、必ずしもモーツァルトその人柄を好意的に表現しておらず、心からのモーツァルトファンにとっては、神が地に墜ちたほどにも思えるらしい。
 ひゃははははと、ときに卑猥とも俗悪とも見えるモーツァルト青年の私生活と私語の表現描写に、幻滅を感じる人があったことは事実。
 あれが高名なる作曲家モーツァルト先生の性格と生活だとは・・と。

 世界にとどろくハリウッドの映画製作において、モーツァルトを表現するとなれば、それ相当の人物考証があったことだろう。
 だからその何割かに真実を見て良いのかもしれない。

 映画の中で、サリエリという当時一市民から王宮の音楽教師まで昇り詰めた実在の音楽家、努力の人が登場する。彼はあの映画では重要な役である。
 噂に聞いていたモーツァルト青年の、ふざけ遊ぶ姿にあきれて白ける。
 だのに、その青年が書き殴った楽譜の下書きを見て、目がくらむほどの神業を見抜いてしまう。
  ああ……とても及ばぬ高みにある天才だ、と。
 このシーンこそが、映画「アマディウス」の能力差というテーマの核心ではないだろうか。


 さあ、神業を聴いてみましょう。
 音楽素人で初心者である私は、何種類かのモーツァルトの楽曲を斜め聴きした中で、当時発展途上だったと言われる楽器ピアノの曲が良い。
 協奏曲20、21,23、27番をあらためて聴いた。

 そちこちで立ち止まるように目ざめるように聞き耳を立ててしまった。
 単音の響きの美しさに耳が点になるとでもいうほどの震えが走る……。
 これは小手先の器用さをもって編み出したとか、ジョーク交じりに生み出したとかのそんな程度の音の綺麗さではないと思う。

 生み出したそのときその人の曲想が、楽譜も演奏者も楽器も、耳もすり抜けて直接に。天上の楽音の響きとでもいうような想いに至らしめる。
 そのひとつひとつの音は、白黒の鍵盤を叩けば誰でも鳴らせようもの。

 しかしオーケストラの奏する全体の調和に添って、静寂の隙に響く単音一音が、聴く者の心の糸を共振させるに充分なのだから不思議だ。
 この音しかあり得ないではないか、と。

 これらの曲は、死も近い晩年の頃に生み出したのだという。
 さて晩年という言葉は、人生を全うできたとは言いかねる青年の年齢で逝ったモーツァルトに、ふさわしいのかどうか悩む。

 それはともかく、「ひゃははは」の笑い声とこれら天上の響きが、同一人の感性のものというのは理解しがたいのだ。

 しかし、それもまた人間の姿であり、個性という貴重なゆがみなのかもしれない。

 人には本来自由があり、命の限りどんなことを行おうと気遣うことはない。
 とはいえ、行うことが出来て達成するには、それ相応の技量も真剣な行動の継続も必要だろう。
 人は平等だと言う。
 だが努力で超えられないところに才能があるともいう。
 越えがたい不平等の存在を誰が否定できようか。
 努力とは精魂傾ける熱意や執拗な行動だとして、そこを越えた先にある才能が生みだす成果。
 努力が生んだ成果とは次元が違うところにあるもの。努力や頑張りのはるか外にあるものを神業というのだろうか。
 超越した才能には神が宿る、と。

 質の高さが第一であろうことは言うまでもない。
 だが生み出す数量がまた桁違い。
 となれば、一層人智を超えた神業と感じ入るのも分かろう。
 そうしたモーツァルトの生んだ典雅な響きにその様な称賛を捧げる人は多い。

 それにしても聴いたモーツァルトの音楽は限りなく美しい。





・・・・
夢舟亭
・・・・

・・・・
夢舟亭
・・・・




[ページ先頭へ]   [夢舟亭 メインページへ]