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夢舟亭
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文芸工房 夢舟亭 エッセイ     2003/02/22


    ムスメ



  あーったく、付き合いきれねぇよ!

 あの夜。わたしが飲み終えて、さて片づけようかとビールの小瓶と空コップを手に、立ちあがたったとき。
 息子がアルバイトから戻って部屋のドアを開けた。
  うぁあ。おれも呑むかな。

 のれんをあげて台所へ行くと、コップと大瓶一本を栓を抜いてもってきた。
 勢いあまってか、泡噴き瓶口が濡れたその手を犬か猫がするように振って払う。
 と、わたしの向かいにがっくりと腰をおろす。

 この子が四番目で一番下。(エッセイ「なんてやつだ」に別掲載)

  あーったく。あのばかが・・。
 ジョッキ型のコップにたっぷり注ぐと、わたしが持って立って坐って、また置いたコップにも注いでくれる。

  疲れたのか。

  まぁ。それよりジジィがよぉ。

  爺さん。客か。

  あぁ。

 思えば兄たちが巣立って残ったこの子と、こうしてふたりで呑むことは滅多になかった。
 注ぎなおされたコップに手を伸ばしながらふとそんなことを思った。

 高校生活が間もなくで終わろうとしていたその年。
 ひとの髪に興味があるからと専門学校で資格を得る進路をすでに決めて、クルマの免許もとってしまった。

 机にじっとして向かうより、身体を動かしているのが性に合っていると自分でいう。
 四男で独身。身軽なんだからやり直しはいつでも出来る。
 そう妻共々、本人の考えに任せていた。
 もっとも反対してみても、聞く耳などなかったろう。

 子どもたちは順繰りに巣立って行った。
 わたしのさほど多いとも言えない収入ではあるが、家族が暮らせないという時期はなかったつもりだ。
 息子たちには人並に小遣いを渡していた。
 が、それでも足りない分は、それぞれが思いおもいにアルバイト口を見つけて、休日はもちろん平日の夕方も通ったりしするのだった。

 おもしろいことには食べ物の店が多かった。
 寿司店にピザ店。一番後のこの子は、最近改装されたばかりの大衆食堂だった。
 学生がやれることは店員や配達と、限られているのかもしれない。

 店は、蕎麦が旨いから一度来てみろよという。

 どの子もそうだが、一年も通うと自分のシゴトに愛着が湧くのだろう。
 店に対してもそれなりの誇りを感じるらしい。
 みな自慢のひとつもするようになる。
 だから店を替えた話は聞かなかった。

 とはいえ、何んやかや店の様子にからませて母親に不満は話していたらしい。
 顔をあわせることが少ないせいもあるが、同性親だとかえって話しにくいのか。
 わたしがあれこれ訊いても、ああ、とか、まあ、というのが常だった。

 もっとも若者の話題などは、おっさん世代のわたしがつき合えるというものではない。
 機嫌がすこぶる良いときなどに口を滑らすのを聞いても、分からないことが多い。

 その程度のことになぜ怒るのかと思うこともあれば、それはばかにされているのではないかと思うジョークを、喜んでいたりする。
 だからわたしの冗談などは、通じない方が多い。

 今風な細身のこの子は、わが家一番の体育系だ。
 とくに駆けるスポーツが得意。
 サッカーはかなりやったし長距離もそうとういける。だから選手にもなった。
 ときどきそういう友だちを呼び込んでは一晩語りあかす。
 翌朝空の瓶が台所に並んでいた。

 あの夜も、瓶一本があっという間に空いてしまった。
 すると普段と違ってそれなりに口が軽くなり、面白い話をしてくれた。


 最近バイト先の店に、年老いた客が夕食にくるという。

 その夜も三列ほどならぶ店内のテーブル列のほぼまん中の四人席に、独りで掛けて。
 日本酒を酌んでいたのだという。
 混み具合は平日のことでもあり席は半分空いていた。

 十代後半の男の子はたいがいそうだが、あまり大人の理屈を好まない。
 必要にして簡便会話。きょう日の若者の単語会話の、あの通りだ。

 この老客はそういう若者の会話条件からは離れていた。
 老人がこの時間に独り食事に来るとなれば、たいがいの大人は独居かとそれなりに察する。気も遣うだろう。
 だがそこは若者。ほかの世代の客と同等に見る。

  おれをさ、おいそこのムスメって呼ぶんだからよぉ。

  おまえを、むすめ!?

  ああ。

 わたしはまじとわが子の顔を見る。
 髪に凝っているせいか、いくらか長髪ではある。
 親ばかの自慢でもないがまあほどほどに時流の顔もしている。

 だが性を違えるというほどではない。
  その爺さん。歳なんだろう。

  歳なんて分かんねえよ。
  あの呼び方ってネぇ。
  痩せっこけた皺の手なんかひらひらして手招きしゃがんだから。かっなわねぇよ。
  また変んに気取ってやがんのさ。

  年寄りなんて、そんなもんさ。気にしたって仕方ない。

  それだけならいいけどよぉ。

  まだ何かあるのか。

 その老人は、どんなに店が混んでも、いつもそのど真ん中の席に独り座り。
 いつもの、と言っては燗酒と盛り蕎麦を注文する。

 もって行くとまっすぐに左腕を伸ばしてテーブルのふちを握るように手を衝いて。
 注文の品が置かれるのを待つ。
 背筋は伸ばしたまま。
 右の手で徳利の首をつまみ、小さなコップに注いで。それを置くとコップを手に持つ。
 正面を見据えてから、やたら難し顔で、静かに皺口に運ぶ。
 その間、ほとんど首も背も曲げないという。

 ときに酒など追加する。
 が、腕を水平に伸ばし、手指で例のごとくわが息子を招き。

  おい、そこのむすめ。

 初めて店に現れたとき。
 熱燗徳利と、蕎麦の二品をテーブルに運んだわが息子は、この老人に一喝されたらしい。

  分からんやつもあるものだ。
  まだ、酒が終わってない。
  蕎麦は、あと。
  そんなことも分からんとは。

 目前に運び置いた蕎麦の盆を払いのけるほどの剣幕だったらしい。
 調理場に戻せということだ。

 血の気の多い若者とはいえ、シゴトだとして堪えた。
 そして店主に相談して事を済ませた。

 しかしその日以来、わが子は気が収まらないらしい。


 思えば、親としての私は、その爺さんにお礼のひとつも言いたいところだ。
 むろん世の中にはいろいろな人が居る、ということを教える反面教師としての役に対してである。

 この話はもう少し続く。

  あのジジィ、飲み終わると徳利をテーブルに倒しゃがんの。
  で、今度は、酒は終わったが蕎麦はまだかっ、てわけ。
  いちいち合わせて面倒みられっかよ。

  ほう。

  じょーだんじゃねえよ。
  高級レストランの、フルコースじゃねえっツーの。

  そう言ってやったか。

  いや。まさか。
  客じゃ、しゃあねえよ。

  それで?

  運んでいったさ。すみません、って。
  そしたらあいつ、何て言ったとおもう。

  何て言った?

  そもそも蕎麦なんぞというものは、ってやがんの。
  あったまにきたんで、おれ言ってやった。
  ソバなんぞというものは何んですか、ってよ。

  なんぞ、ときましたか。

 いかにも老人を真似た息子の口調に笑いがこみ上げ、噴き出した。

  父さんきたねえよ。あーったく。
  そしたらあいつ皮肉も分からずに、震える手の箸でザルにのせた蕎麦をつまみやがんの。
  そばというものはこんな腰じゃいかん、ときたよ。
  そんでタレの碗に突っ込んだ箸を口にして、なめんだよ。

  で、何って?

  そもそも蕎麦食いというものは何とかで、ヤクミがどうで。
  北の味はとかく辛い、ときた。
  あいつアルツだな。フツー言うかなぁ。

  ふふふ。アルツって、アルツハイマーか。
  おもしろいお爺さんが居るじゃないの。
  でもアルツは早いんじゃないのか。

 そこが客商売の苦労どころだと言うと、息子は冗談じゃないよと、がぶ飲みで残りのビールを干した。

 見ず知らずの客が次々入れ替わる店で、わが息子相手に夜毎そうしてひんしゅくのネタにするプライドや知識とは、思えば哀れではないか。
 まさか、物知りでございますねと周りの人たちが感心するとは思ってなかろう。

 それでも知識や経験のひとつも語ってみたいのを、わたしも分からないではない。
 どこにでもありそうな老いの一シーンに思える。
 わが身を振り返れば、なにか寒いものを感じてしまうのだった。

  そう言わずに面倒みてやれよ。
  父さんだっていずれは・・

  じょーだんじゃねぇ。
  父さんまで屁理屈ジジィになるのか。
  ふぇ、たっまんねぇ。

  どうしたって人は歳とるさ。

  んでも、うちは優しいムスメ、居ねぇよ。

  ムスメ!?

  ああ。むすめだよ。あーったく。
  あのジジィどうしようもねぇんだ。

 その夜の店を閉める間際。アルバイト明けで帰ろうとする息子に。
 店主が、たのむよ、と手をあわせたという。

 なんぞ、の蕎麦に手をつけず、もう一本もういっぽんと催促するのへ運んで。
 その老人は寝ぼけ眼となってしまったいつもの席。
 声をかけても、得意の蕎麦講義は出そうにないほど寝ぼけていた。

 その老人を店のクルマで送り届けてやってくれないかというのだ。
 おいてくるだけでいいという店主。
 歩ってゆける距離のアパートなのだという。
 二度目なのだとも、つけ足した。

 あーったくどうしようもない話なのである。

 腕を肩に置いて立たせる。
 と、手を引けばなんとか歩けるようだ。
 だからクルマに乗せず歩いて行った。

 着くとアパートの一階で灯りは点いたまま。
 こんばんは、ごめんください、と入ってもだれも応えず。

 老人は、ムスメむすめと、うわごとの様につぶやく。
 家族は留守なのかと訊いても、ムスメ、を繰り返すだけ。
 ドアを開けてあがり口にすわらせた。

 おれはオトコだ。娘じゃねぇよと言い置いて、去ろうとする。

 と、またムスメという。
 うっるせー、と振りかえる。

 と、老人の指さす先が、自分ではない。
 壁を指している。

 そこには紙切れが、ガムテープで貼りつけてある。
 黒字で、090・・と電話番号だ。

 この電話、掛けるのかと問う。
 と、何度もうなずく。

  しゃーねぇよぉ。
  おれ、かけてやった。
  したらよー……

  誰がでた?

  本当のムスメなのだと思う。
 「お父ちゃんいい加減にしてくれない」ってやがんの。
  お、れ知らねえーっつうの。
  まさかドラマの善いひとじゃねんだから。
  今代わりますからってジジィに電話渡して、出てきちまったよ。
  ……あれさ。まさかぁ、あのまま独りで死んだりしねんだろなぁ。

  なるほど、ねぇ……

 老い先の孤独感がわたしの背筋を通過した。
 そんな冷たさを感じた気がした。

 あの後、息子の口からムスメ呼びする老人のことは聞かなかった。





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