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夢舟亭
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夢舟亭 エッセイ     2003/03/21


     なんてやつだ



  どうした?

  うーん……。

 朝、わたしが台所兼食堂へゆくと、浮かぬ顔の弟に気付いた長男がなにか訊いていた。
 わたしが食べ始めても口は動かず。
 ムードメーカーの二男はいつものような陽気な食事にせず、箸の動きも鈍い。

  なんだ、どうした。はっきりしろよ。

  うーん、ぼくね……。

  何なんだよ。

  ぼく……跳べないんだ。

  なにを。

  縄跳び。

  なわとびー!

  うん。みんなで跳ぶ、長い縄のあれさ。来週クラス対抗なんだ。けど……。

  跳べばいーじゃねえか。

  うーん。でも、練習のとき、せんせいがね……。

  センセーが?

  うん。あなたは休んでなさいっ、て……

  なんで。

  いつも一番最初に、縄に足をひっかけるから。……ぼく下手くそなんだ。

  なにおー! 下手だとう? おまえに跳ぶなって、センセーが言ったのか。だぁれだおまえに言ったセン公って。おれ知ってるやつか。

  うーん。W子先生。

  W!? あぁあのばかか。アったくどうしようもねえやつだな。できねぇこと教えんのがセンセーのシゴトだろ。でしょう父さん。

 常日頃はどんな些細なことでも兄弟に優位を示そうとする長男だ。
 ところがそれだけにまた、弟たちに障害が発生すると一瞬にして、下手な同盟国の協調連携以上の、助っ人の意志を現す。
 血を分けた兄弟とは、かくのごとくに理屈など即超えてしまうのだろうか。
 親としては、喜んで良いものか悩んでしまう。

 だからこういう場合、うっかりわたしがうなずいたりできないのだ。
 関ヶ原の家康が、桶狭間のうつけ信長が、進めぇ! と一声発せば万の大軍が攻めて出るだろうが、同じくわたしのうなずきにこの兄弟は猪突行動をとるのではないだろうかと危ぶんだものだ。
 まして人は、そうせよ、という命令に負われた行いとちがって、どうにもこうにもそうせずにいられないという衝動は、気迫がちがう。
 上下十歳違うとはいえ、そうした四兄弟中高校生の頃の息子たちが出入りしていたわが家は、あの頃近所目にどう見えていたのやらと今思う。

 あの縄跳びの一件は、二男が小学生で長男が中学生だったろうか。
 もちろんあのときも先生にご迷惑をおかけするようなことはなかった。
 その代わりに、夕方の狭い庭先で、一方を塀にゆわえた縄が回っていた。
 ちがう、もっと足を曲げろ。遅い。速すぎ。と兄の特訓コーチ声が響いた。

 兄にしてみれば、たかが縄跳びなんかで血を分けた弟がなめられてたまるか、と反応したのだろう。
 裏をバラせば、日ごろはそれなりにいじめ楽しんでいる兄へ、兄弟というものの素晴らしさや結束の大切さを諭していたのだ。
 であってみればその効果は出ていたわけではある。

 数日後。打って変わった陽気さと、朝食のお代わり回数が二男にもどった。
 訊けば、バッチリさと差し出す手の、親指とひと差し指が丸められた。
 縄跳びくらいでめそめそするな、と兄が一気合い入れると、うん、と一声。
 その声の大きさには自信回復と兄への信頼がこもっていた。

 こうして、兄の頼もしさの株は下三人の弟から見ても数段はね上がったのだった。
 下に居るほか二人は、そういう日々の兄弟の熱き絆の様子を逐一見て聞いて育ったのだ。

   *

 ある朝。出かける前のひととき。
 わたしは台所の妻が洗う食器と水音を聞きながら新聞をひろげていた。

 と、電話が鳴る。

  あらおはようございます。ええっ!? すみません……なんのことでしょう?

 妻が要領を得ないふうに電話をにぎっている。

  すみません奥さん。何かお気を悪くされているようですけど、ちょっと落ちついていただけませんか。えっ。おたくに来てくれって。わたしが? いま、ちょっと手が放せないけど、何か……えっ、とにかく今すぐに、ですか。

 朝の時間は一分でも惜しい。
 時計を見ると、これはいかん。遅刻しそうだ。
 気になりつつも腰をあげ、出勤の玄関に向かう。
 近所の一大事らしいと、追い越して走り出る妻をいくらかの不安をもって見送った。

 しがないサラリーマンのことであってみれば、そうした不安は職場の雰囲気に呑まれて、かき消えるものなのだ。
 また、帰宅のあと聞かされる事後報告のほとんどは、ふんふんと聞いてわたしの出る幕など無し、がほとんどだ。

 しかしこの朝のでき事はいささかちがっていた。
 この朝、食事のあと。子ども上二人は登校して、三男が後に出て行ったらしい。
 家に残ったのはわたしと妻。そしてまだ五歳の四番目の子。

 子ども四人も育てれば、へたな教師より分かるものさなどと日ごろウソぶいていたが、実際は教職のように一人一人を考えた理論的指導はとてもできない。
 それぞれの家が、育て方に差もあろう。
 子どもは大人が精一杯に生活する腰の辺りに猿の子どものようにへばりつき絡まって、育つに過ぎないと、私は思っていた。

 だから、苦労して育てたなどと大層にいうのを聞いても、シゴトなどと言っても、大人は多かれ少なかれどこか楽しんでいると思う。
 扶養している家族に義務を意識したとき男は壮年(おじさん)になる、というのは言い得てるかもしれない。

 この朝のわたしも、残った五歳の子がどこで何をしていたかなど気にしていなかった。
 四人目も、今までの上三人のように同じくやってれば育つ。という馴れた粗雑さがあったのだろう。
 子どもの立場で考えれば、多い兄弟の何番目であろうと何歳だからといっても、身も心も各々は一個の人の仔として育ってゆくのだ。

 そしてニホンの片隅のごく狭い一家庭のなかにも、ときには社会に相通じる出来事が持ち上がり、怠けた親の悩に難問という刺激を与えてくれたりする。
 そこで驚きのショックを与えては軌道修正を強いる。親は子どもから学ぶ。
 家庭は最小の社会なのだというのは真実だろう。


 五歳の子は、すぐ上の兄である三番目の子の様子がおかしいと感じていた。
 それはその前日、学校から萎(しお)れて帰ったのをしっかり見ていたからだった。

 三番目の子は、当時小学三年生。
 目立つ子どもではなく、可もなし不可もなしの、わが子にしては珍しく勉強好き。
 外では人並みに、ケンカもできていたのだろうが社交上手というわけではなかった。

 賑やかな子ども兄弟では、表情が明快で元気な者の話題が優先されてしまう。
 しかしそこは兄弟だ。
 一番下の五歳の子は、日ごろ一番の遊び相手である三男の兄から気をそらさなかった。
 その兄が陰で級友に電話したのを聞いていた。
 下校の道で、四年生のHに蹴飛ばされ、側溝に落ちたのだという。
 その口調と、翌日家を出て行くうしろ姿から、学校に行きたくない思いがあるのを察知した。

 Hってどこのどいつだ。
 向かいの通りの家の子で、わが家によく遊びにくる五年生ではないか。
 兄をいじめるやつは許せない。
 五歳児は小さい唇をかみしめたのだった。

 その朝あの時刻。
 妻へ電話した知人の家は、Hくんの家だ。
 家族が食事を済ませて、出て行くべき人が去ったころだった。
 妻がいう奥さんとは、その家の娘さんで、Hくんの母親。
 Hくんはわが家の三番目の子の友人だが、一歳上。とくに暴れん坊という子ではない。
 してみれば、ふとした弾みの争いだったのだろう。
 しかし年齢差は体格差でもある。
 ちょっとしたいたずらが三男には脅威となったらしい。

 Hくんのお母さんとお婆さんは、家族が出払って一息の茶ばなしなどしていた。
 と、突然。
 開け放された居間つづきの玄関の、引き戸ががらりと開いて、小さなわが家の五歳の四男が現れた。
  あら。Yちゃん。おはようー!
  ほう。ひとりで来たの。いやぁおりこうさんだ。何んのお使い?

 ところがわが五歳の子はあいさつには一切応じなかった。
 大人なれば、つかつかっというところを、わずか五歳の子はにこりともせずちょこちょこっとそのお宅に上がり込んで行った。
 ばかっ! このばか。いじめるな。
 と、おばあさんを、蹴った。

 この知らせを受けて駆け込んだ妻は、状況を聞いて言葉が出なかった。
  なぜ……?

 五歳の短い足である。
 物理的な強さはない。老人とはいえ痛みも怪我もなかった。
  だけどねぇ。わたしも永く生きてるけどぉ……こんな子初めて。どういう躾をするとこういう恐い子ができるの。末恐ろしいねぇ。

  まことに申し訳ありません。ごめんなさい。気を付けます。言い聞かせます。
 と恥赤面のなかで、力の限り子の尻を叩いた。


 三つ児の魂百までも。という諺(ことわざ)がある。
 わずか三歳のときに感じた思いは一生涯、その子の生き方に影響を与えてゆくという。

 兄弟仲良くとは誰しも教える。
 しかしそれも行き過ぎると、こういうことになるのだろうか。
 行き過ぎだとか、勝てない闘いは無謀だ、解決の方法がまちがっている。と、言うはたやすい。

 この子にしてみれば、理屈ではない。
 止むにやまれぬ兄への思いなのだ。
 とはいえ小さな身体にどういう血を沸き立たせ、数百メートルの道を単身勇んで歩いたのか。
 日ごろ年長年上の兄たちの腕力は、いやというほど体感していたはずだ。
 五歳にしてみれば、怪獣のごときそれらの力に立ち向かうのは決死かもしれない。

 そういう恐れを超えるほどの決心を、血のつながった兄の半べそ顔が起こさせた。
 さぞ口惜しいことだろうなあ、と思ったという。
 不安をかかえ、重い気持ちを引きずるように学校に向かう兄の口惜しさの背中は、自分の口惜しさそのものになったのだろう。

 兄の仇はいるかっ! とばかりに飛び込んだが、Hくんはすでに学校。
 えいこの際だ、家族もまとめて、と腕まくり。
 足の短さもなんのその。
 憎き兄の仇へ一蹴だった。

 蹴る意味など説明する言葉を持っていやしないのだが、しかし許せない理由は小さな胸にたしかにあった。
 そう言わんばかりの強気の表情は、時間が経った夕方の父の前でもまだ弛めていなかった。
 兄ちゃんの口惜しさをお母さんは分からないんだ。
 でもまさかお父さんは分かってくれるよねという口調だった。

 わが家はジェントルでデリケートな感性の者の集まりとは言わない。
 だが、かといってやくざな一家ではない。
 自称ではあるが、ごく普通の家庭であるつもりなのである。
 チョコレートの件(「鼻 血」として当ページ別掲載)では、心無き子へはしっかりとガツンをするわたしである。

 だがこの時ばかりは叱るより前に、うなってしまった。
 正直言えば、この驚きは感心に近いかもしれない。
 人様に迷惑をかけたことは間ちがいない。
 とはいえこの行動には、幾ばくかの兄への心を見た。
 三分の虫にも五分の魂というではないか。

 その夜のうちに陳謝と釈明に出向いて果たしたわたしと妻。そして下二人の子。
 いじめの事実関係は、Hくんの自供であからさまになった。
 互いの家には、やれやれと一応の関係がもどりはした。が、記憶は残った。
 この驚きの記憶はこの後、良きにつけ悪しきときはなおさら、人の口に上ることを覚悟しなければならない。

 その日の家族会議で、妻の説明を耳にした兄弟はどよめいた。
 そして立ち上がった長男の顔は硬直した。
  なんでおれに言わないかったんだ。あんなばかなんか、このおれが……。
 と言う一方で、このちびはなんてやつだ、という目の光を五歳の弟に注いだ。

 その思いは家族皆にもあった。
 だから今でもこの話題になると中心がそこにゆく。
 以後、数日間。兄たちは、自分のおやつやおかずを分けて、末の弟の皿に載せてやるのだった。
 五歳児の皿は食いきれないほどの山盛りになった。

 この時の家族の言動は、本音が建て前を覆い隠したような反応として、少なからず魂に影響を与えたにちがいない。
 これが数百年も前の武家の子であれば、あっぱれ小わっぱ、となるかもしれないのだ。
 しかし時は西暦の二千年時代である。

 だれにも言わずにそういうコトをしてはいけない。なぜならば……と説いて一件落着とした。
 わたしの平手が五歳児に振り下ろされることはなかった。

 この子が小学に入って抱いた希望(ゆめ)は「おまわりさん」であった。



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