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夢舟亭
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夢舟亭 エッセイ        2002/02/10   修:2010/06/27
◎当文章はインテル社主催のページにもエッセイ「肉塊」として縦字表示されています。よろしかったご覧ください。 [エッセイ「肉塊」縦字表示]



       肉塊


 道路を行くと四角い壁面にスレート拭きの赤い平屋根。その建物の軒から白地の垂れ幕に並盛り一杯380円とゴシック黒文字が描かれてある。
 カウンターテーブル式の牛丼店だ。
 いまどきは地方でもこのての店が道路脇によく見かけるようになった。
 チェーン店が何社か現れたのはだいぶ前で、それぞれが異なる味を楽しませている。
 相互の値引き競争が激しいらしく、一時は十円の上下が話題にのぼったものだ。

 激しい値下げ競争の理由は、店同士の客獲得競争だけではない。
 欧州から渡ったとなっている牛の伝染病、牛海綿状脳症、俗に狂牛病(BSE)がわが国の牛にも見つかったからだった。
 さらに病原菌が人にも染(うつ)るという不安が客を遠ざけたのだ。
 店はその窮地を何とかしようと値を下げる。
 牛丼はもちろん、牛肉を食べない人もあのニュース報道は当時だれもが知っていた。

 そしていまわが国では口蹄疫という新たな伝染病名が、畜産農家とその消費者を悩ましているようだ。なんとも災難続きではないか。

 ニュースに疎い私が牛丼を口にし始めた理由もじつはあの時の狂牛病話題のせいだった。

   ・

 昼。手近な牛丼店に寄った。案の定、駐車場にクルマは無い。
 一台分ごとに区切られた白線すべてが今し方描かれたかのように真っ白できれいだ。
 その中ほどに停車すると、隣りあわせにもう一台停まった。
 男がひとりが降りてきて私より先に店の入り口に向かう。
 自動ドアを軽快にくぐった彼は、やっぱりねえと呟く。
 なあに、ちゃんと煮込めば、ばい菌なんて死んじまうサ、とカウンターに寄って腰をおろしながら言う。
 椅子四つほど離れて坐った私に、そうだよね、と語りかける。
 私はその三十歳後半ほどに見える声高な小柄男に、だまって笑いかえす。
 白いつなぎ作業着の日焼け顔が笑い返してくる。

 今どきおれたちの口に届くもんなんてサ、何ンかかんかキケンなもの入ってるもんでしょと、男は口とがらせて細辛い声の語尾を裏返した。その声も区切らず、きょうも大盛り、と注文する。
 人慣れした仕事なのか、気さくに声をかけてくる。

 曖昧に応答する私に物足りなさを感じたか、気分も害さずカウンターの中の店員に、おれは食うよ。あれぇ昨日もおなじく言ったなおれと、あごをくゆらして目を細める。
 女子店員はいかにもアルバイトふうに、はい、と生真面目に応え、奥の調理場におうむ返しに品名を叫ぶ。

 私も並盛りと、みそ汁。白菜の浅漬けの小皿をたのむ。
 と、漬け物はほらそこにあるのを好きに取りゃいい。それよりあんた知ってる? と注文の声を発した私をとらえて、また語りかけてくる。
 見れば、頬やあごにそり残しのひげが黒つぶで、頭は天然のもじゃもじゃ髪。機械油の汚れだろうか黒い手指。その指先を前に浮かすと、もう片方の指で示すのだった。

「馬の足の先って、丸いひずめに蹄鉄の輪を打ちつけるでしょ。あれがパッカパッカ音がするんだよね。さて牛の足は、羊や山羊とおなじで、こういうふうに、先が二つに別れているよね。だから蹄鉄は打てない。さぁてどちらの足が農作業に向いてんだろうね」

 私は声なしで、ふうむ、と考える振りをする。と、回答もなしで、ニッと歯を見せた。
 ちょうどそこで彼の手元に置かれた湯気立つ青模様のどんぶり。
 それを片手にもって、一方の手でわり箸を横にして噛み、ぴっ、とふたつに引き裂くと牛丼の具につき刺した。その手で唐辛子をつまんで振りかける。
 すぐにどんぶりを口に付けるとがつがつむしゃぶりだした。

 牛丼の醤油と牛肉の風味があまく漂ってきて私の空いた腹が鳴いた。
 すぐに私のどんぶりも運ばれてきたのだった。


   ・


 今なら土用の丑(うし)の日はウナギの蒲焼きが主だろう。
 でも牛の肉の「ウ」もちょっとした贅沢な人気だと聞いたことがある。
 けれど私が育った当時の土用の日、ウの付くものを食う日だねと母にいうと、夕食にうどんを出されたっけ。その頃はたしか母のお手製だった。
 まぁあれもウではあったが。

 母はその時の私に埋めあわせのつもりか、間もなくの日に私の好きなカレーライスをつくってくれた。当時の私の家ではカレーに肉など入れてなかった。
 魚肉のソーセージを入れるほかは、自家製の野菜だらけだ。けれどとても旨かった。
 今どきの固形型の即席ルーを鍋に溶かすのとちがって、カレー粉を煎るのだ。家々独特のカレー味だったのだ。

 そんなふうで、私は寒村の生まれのせいというわけでもないが、あまり肉類は口にしないで育った。
 食えなかった、というのもあるが、とくに牛肉は食わなかったというべきだ。
 私がビーフのステーキや牛肉のすき焼きから、四本足の黒や茶毛の、のっそりとしたあの巨体でモウと鳴く牛を連想できたのは、かなり大人になってのことだ。

 でも、牛という家畜を知らなかったわけではない。それどころか……
 私が育った田舎では、わが家をはじめ近隣農家の多くが牛を飼っていたのだ。

 もの心ついて見た母の姿といえば、朝な夕なに草を刈って運び集めては、それを餌として飼い牛に与えていた。
 水を汲み、藁を与え、家族の食事で残したご飯や芋、野菜もかまわず与えた。
 やっていけないのは春先に芽が出たジャガイモくらいだったと憶えている。

 子牛は村はずれで行われる競り市で購入した。
 育て上げて親牛にして、子牛を生ませてそれを売る。
 オスの子牛は買い落とされると労牛や食肉になるのだ。
 メス牛は値が高い。新しい飼い主の元でまた子を産むからだ。もちろん乳もでる。

 小学生の私は、そうした牛の行方など何も知らずにいた。

 あの頃は、両親に着いて祭りのような競り市に行くのが楽しみだった。
 村と町を繋ぐ本道から折れると、牛と人が近郷から集まる競り市の原までの小道となる。そこは牛連れの人たちで大混雑していた。
 たいがいの家にまだクルマが無い時代だったので、皆がおなじく牛の手綱(たずな)をひいて連れてくる。
 わが家の場合は、家から六キロほどの未舗装つまり土の道を、父が手綱を引き、母と私が連れ添う。
 子牛に話しかけながら並んで歩く母の前になり後になり、心はずむ私はスキップなど踏んで。やがて競り場が見えてくる辺りになると、拡声器からの競り独特の口調が山々にこだまして響いてきた。

 そんな混雑する小道へ競りの関係者や来賓代議士の立派なクルマが通ったりする。
 会場入り口の大文字で描かれたアーチをくぐるところで、クルマに慣れないわが家の子牛が暴れ、道を踏み外したことがあった。
 土手下にすべり落ちた黒い体毛の膝から血が流れた。痛いのだろう啼く子牛。それを押さえつける父。頭にかぶっていた手ぬぐいで、その足の血を拭ってやる母。
 幸いに心配するほどではなかった。

 牛の競り会場に入ると、祭りの日のような人混みと賑わいに、幼い気持ちは浮き立った。
 子牛を売って身軽になった父が、小遣い銭を私に差しだす時、子ども心にも競りの首尾の良し悪しが分かったものだ。そして小遣いが多かった日は私の嬉しさも倍加したものだ。

 おなじように競りに来ていた学友たちを見つけては、会場周囲に並んだテント屋台の店をながめ歩く。おもちゃの鉄砲やお面などを買い、追いかけ走りまわる。なかには牛の競りに関係ない家の子も混じっていたのだった。

 草原の競り場全体に、牛の体臭と踏みつぶされた土色の牛糞が臭っていた。
 その中を、大人たちは牛を連れまたは単身で、笑顔であるいは真剣な眼差しで、気ぜわしく行き交っていた。
 そうした臭いと賑わいは、牛を飼う家の子どもの特権のようで、得意になったものだ。


   ・


  もう少しの辛抱だぞ。

  苦しかろうが我慢しろよぉ。

  ほらほら、子牛が出てきた。もう一息だ。

  おお、おお。良くやったな。

  ウンモォ〜。

  うんうん。よしよし。

 しきりに励ます父。お産で苦しむ唸り汗だくな母牛。その身体を拭きなでていたのは母。父母にあれこれ指図されながら動く家族。
 牛舎では、夜おそくまで家族全員の声が交わされ、注目が母牛にだけ注がれた。

 その甲斐あってようやく生まれる。と、子牛はよろよろとして立とうとする。でも簡単には立てない。それでも必死に立ちあがろうとする。羊ほどの子牛はメス牛だった。
 見ているこちらの身体にも力が張りつめてきて、声をかけ励ます。
 やがて子牛は、折れそうな細い四本の足で踏ん張ると、ついに立ちあがった。

 父は、子牛を見守る母牛にでかしたぞというと大きなその牛の尻をぱんぱんと叩いた。
 ひとしきり家族で子牛の性別を褒めてはうなずき合ったり、大鍋で温めた味噌汁をバケツで飲ませた。


 後日、牛親子をわが家所有の山へ連れて行った。山の斜面の柵を巡らせた草原に放す。と、子牛は嬉しそうに駆けまわり親は草を食むのだった。
 牛を放牧しに連れて行くのもそうだが、河原に引いて行き、膝まで浸かって洗ってやるのも子どもが手伝う仕事だった。
 もちろん餌を与えるのは欠かされない大切な子どもの日課だった。
 あの手間が無ければ生き物を飼うことは楽しいことなのにと、今でも時々思うほどだ。
 生き物の健康飼育は、食料の確保と糞尿の始末。そして適度な運動なのだ。これは牛だけでなく、今では人間の健康管理の大切なことだったと知る人は多いだろう。

 わが家では最盛期に、親牛三頭、子牛二頭いた。これはもちろん多い方ではなかった。
 牛も一個の命だから、当然それぞれ性格が違う。食事ひとつ与えても、おとなしく食べる行儀良い牛もあれば、水を与えるだけで直ぐにひっくり返してしまう性悪牛もいた。

 牛舎、馬小屋は、人の住む母屋に連なってあった。
 夏は暑い地方だったので、ほぼ毎日放牧しに連れだした。
 餌である野草牧草が絶えると、餌を運んでいってばら撒いて食わせて、夕方また迎えに行く。
 針金を幾重か張り巡らせた自家製お手製の柵には電圧も通したことがあった。しかし柵の支柱が古くなって折れたり、牛が身体をあてて壊したりする。だから放牧中は、子どもの私がお役目で監視していなければならない。

 けれどそこは子どものこと。家族は遠くの田畑仕事で、うるさい兄も一緒に居ない農繁期になど、遊びにまぎれて目を離したこともあった。
 そんな時、近所の人が、はあはあいいながら草原の丘を駆け登ってきて、牛が畑に入って作物を食ってるぞと叫ぶ。即、柵へ駆けて数えてみる。と、足りない。
 さぁ大変。なにせ逃げたのが親牛となると小さな身体には余るのだ。瞬時に緊張が高まる。
 親牛ともなると、人間といえど子どもなど馬鹿にしていうことをきかない。逃げた先で嘲るように振り返ったりする。それを下手に扱えば、とん馬な闘牛士のように、角を向けられて逃げるしかなくなる。

 それでも当時は、よちよち歩きの幼いころから家仕事の手伝いは生活の一部だった。だから、何歳から誰に命じられというでなく、当然のように見よう見まねで憶えてはやり始たのだ。
 近所の人たちも、互いに見るとはなく見ていて、窮地を理解しては対応してくれたものだ。
 この時も、私の家族を呼びに走ってくれた人がいた。
 ところが家族が駆けつける頃には、牛は遊び終えたのか、人間の大人が怖いのか、自分から進んで柵に戻ったりするのだ。
 こういう時、ちくしょう牛のやつめと、人間としての意地が湧くものだ。

 そこで次の日、自由にさせずお灸をすえる意味で、手綱を解かず。放牧原の大木に短く縛り付ける。
 牛は木の周りをぐるぐるまわる。綱がどんどん木の幹に絡まり短くなる。やがて身動きがとれない頭を地面に付けうずくまってしまう。ウンモォ〜とうなる。どうだ、まいったかと、牛の顔を下に見る。人間の勝ちだぞ、と。

 しかしこれも発情期を迎えたオス牛の暴れとなると話は簡単ではない。
 大人だってその暴走の扱いには手を焼く。手の出しようなどまったく無いのだ。
 近くに寄って餌を与えるのだって怖い。なにせ顔の表情もかなり険しくなって目つきは荒々しく変わっている。
 こうしたとき、大人たちが淫めいて交わすメス牛が恋しいのだとかの含み笑う話と、現場の猛々しい状況はまったく別だ。
 人間が油断した隙に逃げて暴走するどう猛さは、自分ではどうにも抑えきれない体内から噴き上がる苛立ちなのだろうか。あの牛体、巨漢が持つエネルギーのすべてが吐き出されるようだ。飼い主といえど、扱いを間違えば大けがをする。
 人間の青春にも訪れる性の目覚め興奮の時期に感じる不安定なのだろう。あれが牛の巨体に宿ったと連想すれば察せられよう。
 どどどっと地響きをたてて、一目散につっ走り、その辺にぶつかっては引っかき傷を付けたりする。それだけでなく、大暴れが過ぎて立ち木や壁にぶち打って、角さえ折ってしまう。牛は血だらけになり、疲れ果ててようやく停まるのだ。

 父はそれまで待って牛小屋に連れ込んで、尻など叩いて冗談など口にしては驚いている家族を和ます。折れた角は、拾って洗い、震えて見守る私の頭に載せた。
 折れた牛の角などは珍しく、空洞の暗い中を片目でのぞく。
 子ども心は、興味あるものへの移り気が早い。動物園で見たサイの太い角もおなじかな、絵本にでていた恐竜もこんな感じかと、おでこに押し当てたものだ。


 親牛が若く元気なうちは順調に子牛が生まれた。
 それを売れるごとに、わが家に大小の農機具が増えて、家中に身の周りの物が増えた。
 大したものだのうと、近所の古老が父母を褒めてくれる。隣近所も、負けじと牛の手入れに一生懸命だった。
 身の周りに品物が増えると生活が豊かに思えてきた。
 白黒テレビが近隣に備わったのもそんな時期だ。大人も子どもも、寄ると見た番組の話になっていた。

 紅葉の河原に集う芋煮会などに、マトン肉を山盛り買い込んではジンギスカンの煙を匂わせ、大人らが大いに盛り上がったのもその頃だ。
 持ち寄った野菜までが、脂身をいっぱい使って焼くと、日頃の淡泊な料理味とは違ってうまかった。豚肉も安く出回り、わが家のおかずや野菜カレーのソーセージと入れ替わっていった。
 牛の肉が一般に拡まったのもその辺りだったろうか。けれどわが家の食膳に出されたことはなかった。


 飼育する牛の、肉量を多くするために、餌をたっぷり与え太らせるようになった。更に肉質を良くするようにと、餌は配合飼料に変った。
 牛にビールを飲ませるだの、音楽を聞かせると良いなどの話も、その頃ではなかったろうか。
 身体が締まり筋肉を鍛える放牧はやめて、運動不足の丸々太った牛が値を上げていった。国内のあちこちで牛舎を増し大きくしては、牛を飼い増やし、人の住む母屋から離して、食肉生産工場と化したように憶えている。

 でもわが家では、兄の農業離れの思いや、家族の労力の限界を考えれば、数頭飼うのがいいところだった。
 工場のような効率良い大量飼育は、利益を生むと頭では分かっていた父だったが、自分の家でやるかといえば、心情的に沿えないものがあったようだ。
 といって半端な飼育に留まっても、手間に見合う売り値競争には残れず。一頭また一頭と、迎えのクルマに載せては送り出すことになった。
 売り払ってしまうことになったあの時期は、国内牛飼育畜産大型化への変化点だったのだと思う。


 あの牛は子どもが出来ねぇくなっちまったしなぁ、と母は言い訳のように見送った後の牛舎で、使わなくなった餌桶をまたひとつかたづけた。隣に残った牛に、次ぎはお前かなぁ、と声かけた。

 こうして、豊春号(とよはるごう)と名の付いたメス親、トヨが、わが家最後の牛だった。
 一頭だけの牛舎で母は、今まで飼った牛たちの思い出を囁きだした。

  農機具の無かったころは牛にクルマを引かせたっけ。田んぼも畑も耕したのなあ。

  牛は、なかなか利口なもんだよ。人のいうのをよく聞いていて。
  なぁんでも分かってるんだぁ。

  牛だって、嬉しいも悲しいもあるんだよ。
  な、トヨ。おらぁには、ちゃーんと分かってる。

  なんてったって、おらたちァ、家族なんだからよ。なぁ……

 母は、明日出てゆくと決まったトヨの身体を綺麗に洗ってブラシをかける手を止めなかった。裸電球のぼんやりとした橙色の光の下で、老牛はじっとして動かず。気持ちよさそうに丸い目で聞いていた。

  いいかトヨハルよ。よく聞け。
  今度は必ず、人間に生まれて来いや。
  そぉしたら、おめえも人間様の都合で死ななくていい。
  わが腹を痛めて生(な)した子も、どこにも離さねぇでいいからな。
  分かったな、トヨ。
  おお分かったか。いいコだ、いいコだ。

  お、そうそう。思い出した。
  ほれ、おめぇが二回目に生した子だがな。そうだ、ひがし町に売ったやつ。
  覚えているべ。ふふっ。あいつな。おなごの仔を生したってよ。
  ああ、母子ともに健やかだとさ。
  おら、ばくろどんに訊いたんだから、間違いねぇ話だよ。
  どうだ。ん、嬉しいか。うふふ。そうかそうか。
  おめえだって、母ちゃんだもんなぁ。わが子の行く末が心配でねぇわけはねえな。
  人間だったら、嫁に出した娘なら、孫連れて里帰りして顔見せるはずよなぁ……

 牛の大きな面玉のその淵から、細い流れが黒艶の体毛を濡らして落ちたのが、小学高学年になっていた私にはよく見えた。
 母の手は牛の乳や下腹を、休まず拭き撫でていた。
 いつ果てるでない静かな語りでその日の牛舎の夜は深まっていた。


 父は高く値がつく子牛を沢山生ませようと、商売気をみせて大枚はたいた血統証付きの牛。豊春号もそんな一頭だった。けれど期待するほどには生まなかった。
 それでも、母がいうところの賢さか、さすが高い牛は違っていた。子どもの私でさえいちばん扱い易いのが分かっていた。
 動きにも体つきや顔形にも、言い知れぬ品格のようなものが感じられた。
 だから自然と最後まで居残ったのだろう。

 翌日。昼前えに、トヨの迎えのトラックがわが家に着いた。
 それまで母に手綱をとられて、じっとしていたものが急に落ち着きを無くして、前後左右に動きまわった。ウンモォ〜と啼きつづけた。

  どうどう。これこれ。
  おめえはなぁ、頭のいい牛だからなぁ。
  そうかそうか。このトラックさ乗ったら、今晩にも死ぬことが分かるか。
  許してけろやぁ。いちばん後まで残したこの気持ちを察してけろなぁ。

  母のこの一言で、見送る家族と近所のみなの鼻先がつぅんとなった。しわを無理にも鼻に寄せて、押し黙ってしまったのだ。
 今でも私には、トラックの荷台に引き上げようと押したり引いたりする大人たち。牛の気持ちを思いやり、悲しそうに辛そうに、見送る母。そして近所の人たちの複雑な様子がよみがえる。

 男たちが、押したり引いたり脅して、どうにかトラックに載せたトヨは、最後とあきらめたか空にむかって、モォ〜と一声鳴くとおとなしくなった。
 心もとなく、四つ足でふんばるトヨを載せたトラックが、走りだす。荷台でゆらゆらしながら、家の細道を出ていった。
 私は追って走った。
 トラックは本道に出る。向こうは下り坂だ。トラックの車輪が見えなくなり、つぎに荷台が、そしてトヨの四つの足元が。胴体が。そして頭が、坂道の先に沈んでいった。
 辺りの風景が潤んでしまった。

  トヨ。おれは、牛なんて絶対食わねえからな。


 最後の牛、豊春号を売った代金で、父は母念願の電気洗濯機と冷蔵庫を購入した。
 母はそれを大切に使いつづけた。古くなって動かなくなっても棄てられず置いてあった。
 トヨと引き換えたんだもの、とてもとてもおらぁ、と廃棄するのを拒みつづけた。
 その母もすでに九十の歳を数えようとしている。未だ牛肉は口にしない。
 今ではしわ枯れて背も丸く縮んでしまった母は、最近ほとんど口をきかない。呑み込むと危ないので入れ歯をはずしている。

 先日、私の娘が、お婆ちゃんがね……と、遅く帰宅した私を呼んだ。中学生の娘は、私の母によく付き添ってくれている。そのせいか、口数少ない母の言葉が解る。
 その母が、テレビを見ていたら突然両手を合わせて目をつむり画面に拝み始めたのだと言う。

 首も無く足も無い体毛をはがした牛肉の赤身と白い脂肪の塊が、テレビニュースで映ったとき。それは昨今の牛の病のニュースだろうか。何体もが宙づりになっている牛肉倉庫が映ったらしいのだ。
 そのとき、年下の娘のほうが、あれは牛の肉だよね、と指したらしいのだ。
 すると突然、母が、ああ、と目を剥いて見入ったのだという。

 お婆ちゃんが拝みながら、何かいっていた、と言う。
 とよ、とよ、と繰り返したの。お父さん「とよ」って何だろうねと問うのだった。

 ああこの娘たちに、あの肉の塊は、家族のようにして暮らして育て上げた牛なのだ。飼い主との様々な生活の末に別れてきた牛なのだ。そうした別れの場では、大人だって陰で密かに眼を拭いていたのだ。
 牛たち一頭一頭も、おばあちゃんやほかの人との思い出を胸にして、クルマに揺られて買い取られ死んでいったものなのだ。と、教えはした。

 けれど考えてみれば、そういうことはとうに過ぎたむかしの話なのだ。
 今、工場で牛みなが同色の箱に込められ、食料になって出荷されるのが理解できないわが老母は、「牛」と聞くと、いつもトヨハルを思い出して呟く。

 今、効率の極限を追求された末に、草食であるはずの牛は、仲間の屍である骨粉を喰らわされて、太らされ。機械的に命を絶たれた牛の屍は、手足をもがれて。食用の肉塊、商品になる。
 こうした肉の塊が一般人の目にさらされることが珍しくもなければ、屍としての不気味さも感じられることもない。

 そのあげく自分たちのせいでもないのに、奇病を発症すれば、伝染万延のおそれありとして、不良食料品として。生きたその意味も与えられず埋められ焼き捨てられるという。

  牛(べご)だってそんでは浮かばれやしまいのぉ、と近所の古老は真顔になる。

 聞くに忍びないそのことを、古風な思いで悼む私は、トヨとの約束に目をつぶって、昼食に牛の肉の丼飯を選んだのだった。



       < 参考:花風氏のメモ「牛」 >








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