・・・・ 夢舟亭 ・・・・ |
夢舟亭 エッセイ 2000/06/28 ◎当文章はインテル社主催のページにも小説「鶏」として縦字表示掲載されています。よろしかったご覧ください。 「鶏」縦字表示] 鶏 落語に「長屋の花見」という一席がある。 その日暮らしの陽気な登場人物である長屋の住人、八っつあん熊さんたちを、家主大家さんが、花見に行こうと誘うあの話だ。 なかで重箱に入れた花見のご馳走がでてくる。大家さんの大盤振る舞いだというそれには、玉子焼きと、蒲鉾(かまぼこ)がある。 けれど、それらは偽物。花見のごちそうは代用物なのだ。 玉子焼きは、見かけだけはおなじく黄色いが、じつは沢庵(たくあん)の漬物。 蒲鉾のほうは、塩漬けの白い大根を半円柱に割り切りそろえて、それらしく見せている。 江戸末期ごろだろうそのころ、庶民下層長屋の面々にとって、玉子や蒲鉾などは、日常口にできるような食料ではなかったということだろう。 花見なのだから、偽物である安価な大根の漬け物で、せいぜい気分だけでも盛り上げ、楽しもうというわけだ。そんなだから、お酒のほうもまた偽物。お茶なのだ。 お茶けの酒盛りで、長屋の面々がばかばかしくも、花見酔いの素振りをする。そこが話芸、噺家の聞かせどころ見せどころとなる。 落語の人気は、昭和の中ごろまであったか。この噺の、本物のごちそうと偽物との、ご馳走の落差を、気の毒でありつつ笑えたのもまた、あの辺りまでだったろうか。 笑えるわたしも、昭和の中期の幼いころに、鶏(にわとり)が産むあの白く丸い玉子を口にできるのは、風邪の高熱で寝込んだときぐらいだった。 母が柔く焚いたご飯に、生玉子を溶いて枕元に持ってきた。精がつくからとよそってくれた味は忘れられない。 それが今では、本物の玉子十ヶ入りパックよりも、沢庵漬け一本の方が高価だ。なんと価格が逆転しているのだ。 言い換えると、長屋の大家さんのご招待のほうが贅沢と、価値が反転してしまっている。 スーパーの商品値札を見るまでもなく、これは現代の多くのひとが承知している。もはや今のわれらには、玉子も蒲鉾も贅沢なごちそうという意識は無い。 漬物のほうが高価なのだから、落語家もさぞ「長屋の花見」を演じ難くて、困っているのではないだろうか。 ・ 子どものころ、わが家ではまだ贅沢だったあの玉子を産む鶏を、十数羽飼っていた。 この鶏たちと産み落とす玉子は、父の母である婆さんのものだった。 雛(ひな)を飼い、家の軒下の一角に金網をまわして鶏小屋をくくり造り、朝晩餌を撒きあたえた。すると雛は生育して玉子を産んだ。 それを売って金に換えた。 老人にはいいあんばいの仕事だったのだ。 永い年月の農作業の末、背と腰が真っ直ぐには伸びず、地をなめるような姿の婆さんは、とうとうととと、と口をとがらせて餌撒きに呼ぶ。 すると鶏たちは、こっここと寄ってきて餌をついばんだ。 そうして産んだ玉子の数がまとまると、婆さんは家では食わずに、町に持って行って売った。いま思えば、婆さんの大事な現金収入源だったのだ。 それほどに当時は、玉子は結構な値段だったのだろう。 町から戻ると、孫であるわたしに駄菓子やボンボンキャンディなどを差し出した。 それへ喜んで手を出して貰ってはほうばるわたしを、婆さんはしわの顔をくしゃくしゃにして目を細め、口をうへへと開け残り少ない歯を幾本か見せたものだ。 鶏たちは、二年ごとに新しく雛(ひな)を買って追加していった。 鶏たちが玉子を産めなくなるのが二、三年ぐらいだったのか。産めなくなった老鶏は、どこから来るのか山羊のあごのような長いヒゲを生やした初老のやせ男が、集めにきた。 オート三輪の荷台の金網箱に、放り込まれた鶏たちは、くぇこくっくと鳴いて去っていった。 あのころの幼いわたしを婆さんは可愛がってくれた。それに応えて、わたしも教えられた鶏の世話を、毎日手伝った。 生まれたてのあったかい玉子を取り出したり、残り飯に飼料を混ぜてあたえたり、飲み水を入れ替えたのだった。 鶏は、面白いように毎日玉子を産んでくれては、婆さんとわたしを喜ばせた。 その婆さんが亡くなったのは、わたしが間もなく中学生というころだった。 白装束で寝せられた婆さんの胸のあたりに、地域のしきたりである魔除けの草刈り鎌がのせられ、それへお経があげられたとき、おふくろぉ、と父が低くうなった。 いつもは、婆さんばあさんと呼んでいた父は、目をたっぷりと潤ませていて、ぼとっと雫を落としたのだった。 やがて出棺になって、近所に住んでいた叔父たちは、年寄りは軽いもんだなぁ、ほんとだぁと担ぐと、通夜から飲み明かしの千鳥足で御山の墓に向かった。 鶏はそのまま飼い続けた。鶏たちは、わたしの撒く餌を無心につついては、玉子を産んでくれた。 もう婆さんのこづかい銭になる必要もない産みたての玉子は、食べきれず自宅の食卓から溢れ近所にまで配られた。 お陰で、わが家一帯の大人に、玉子を買い求める必要がないと喜ばれた。 オート三輪に金網の箱を付けた山羊ヒゲの男は、老いたのかその後姿を見せることはなかった。 代わって訪れるようになったのは人間ではなく、裏山の鼬(いたち)だった。鼬は、冬の寒い夜にきまって襲ってきた。 鶏小屋のガタついて弛んだ隙間をこじ開けて入ってきた。 狙われるのは若い鶏たちだった。 翌朝それに気づいて小屋に入ってみると、白い羽根が散っていた。そこから真っ赤な雫が点々と地に垂れて、裏山まで続いていた。 婆さんからの厳しい注文の付かない父の間に合わせ修理作業は、鼬の再度の襲撃を押さえきれず、小屋の鶏はほぼ全滅となった。 残った年寄り鶏をどうするかという父母の相談は、食おうと決まった。 どれから先にするかな。 父は、あの日片づけ仕事でもする様にわたしに言った。 けこけこと、鶏小屋のなかをうろつく残りの三羽。小屋の中に立ったわたしの足もとを行き来する。 飼い増やすたびに付け足し改造で広くなっていた小屋は、最盛期に足の踏み場もないほどに賑わったのに、いまでは広く静かで、与える餌は余るほどだった。 どれでもいいから掴んで来いや。 父がそう言う。 するとその気配を感じてか、くぅえぐぅえこここと叫び、逃げ回る。飛べないのに、ばたばたと羽音ばかりが大きい。 羽根毛を散らして逃げまどう鶏を、追うからには捕まえなくてはならないと、わたしはその仕事を遂げようとする気持ちが湧いてくるのだった。 追いたてて飛びつくように、背後から両手で押さえ込む。と、背中に閉じた白い大羽根から、ほかっと鶏の体温が手のひらに伝って感じられた。 そのまま抱きかかえる。鶏は、首から上を前後に突きだしながら、くくくくと鳴く。頭上の、紅葉のような赤い鶏冠(とさか)の肉片がさかんに揺れる。 鶏を小屋から持ち出すと、すでに父は一抱えもある太い古木を輪切りにした薪(まき)割り用の台を用意していた。 わたしの膝の高さほどの丸太の台の表面は、薪木割りで斧の刃が食い込んだ傷痕でギザギザだった。抱えていた鶏の頭をむずっと掴み、その台にのせる。すると、胴体もしっかり押さえていろよ、と父が言う。 年輪が渦巻いている丸太の台のでこぼこ面に寝せた鶏の首をのばす。鶏は懸命に起き上がろうともがく。わたしはその鶏を、また引き倒す。 押さえきれず落ち着かないわたしに、父は、どれかしてみろ、と鶏を引き受けて押さえる。 そして、ほれ、とあごで促す。その意味をわたしは分かっていた。だから、側に置かれた林の木枝切り落し用の鉈(なた)を、恐るおそる手にする。 ほれ早くしろ、と気ぜわしくせっつく父。わたしは、伸ばして押さえる鶏の白い羽根毛の首めがけて、鉈を振り下ろした。 ぶちっ。 鶏の顔が斬れて落ちた。くちばしをVの字にして目玉を丸く開いたまま地面に転がった。 わたしはぞくっと身震いした。 なぜか父は、鶏を押さえていた手をゆるめた。 すると首のない鶏の胴体は、切り口からびゆっと血液を吹いた。そして、つっつっつっつ・・と、二本足を繰り出しながら、まるで首があって前が見えているように、突き進んだのだった。 さきほどまで聞こえていた声が、けっこけこけこと、聞こえる気がした。 鶏の胴体は、うずくまって動かなくなった。首の切り口の白い毛羽根を濡らす鮮血が、どす黒く固まってゆくのをわたしは見ていた。 首を撥(は)ねた鶏を羽根身のまま、焚き火の大きな鍋の湯に浸けた。ゆで上がる前に引き上げて羽毛をむしり取る。あっけなく裸の肉の塊りになった。 鍋の湯気や抜いた羽根、肉から鳥の糞の匂いが立ちのぼっていたのを今も思い出される。 父は手際よく鶏の解体作業を続けた。最後には内臓を切り出す。と、肉屋に並ぶ鶏肉の姿と同じになった。 その日の夕食は、鳥汁だった。母の手から、たっぷりよそって出された鶏肉の大きなお椀を受け取って口にしてみれば、それはとても旨かった。 当時としては滅多にないご馳走、肉料理だったのだ。 わたしは、首無し胴体で走り出した鶏の姿をその後も何度か思い出しはした。だがそれで鶏肉が口に出来ないかといえば、そんなことは無かった。 人は生き物を食って生きている。 そうするにはけっして可哀想だなどの甘く優しい感情をもてあそびながらは出来ない。 その日以前から、物の少ない当時の田舎に生まれ育って以来、種々雑多な出来事を見聞きして肌で理解していた気がする。 だからこの手で断ち切った生き鶏の首、開いたままの眼、胴体だけで走り動かなくなった鶏には済まないことだが、食べてみれば旨いものはうまい。 そう感じるのが、物食う生き物、人間である。これが自分の本性なのだと再認識したのだった。 綺麗にパッケージされて飾られたデパートの食品売場。そのショウウインドに並べられているあの食肉も魚類も。みなが、親から生まれ育ち、息して生きてきた。 そしてわたしたち人間の口に届くには、息絶え死ぬ瞬間の、あの赤い血の流れる殺害行為を、誰かが必ず行っているのだ、ということもあの日見通せた。 父も母も、わたしも、普通の人皆が、それを行うことができる手を持っているのだ、と。 思えば、人間はやろうと思えば、信じられないほど危険で恐いことも、あっけなくやれてしまう。それは恐ろしい力だ。やればやれる事は、いっぱいある。 でも、やれても、けしてやるべきでない事もまた多い。だのにその区別は、とても難しい気がした。その区別は、自由に動かすことができる手を持っている自分自身が、そのとき考えて行うしかない。 けれど、人は考えが皆同じではない。恐しいことだ。間違うことの多い人間同士が、怒りや悲しみによって振る舞いが異なってくる。この危うさに気づいて、幼い身がすくんだものだ。 そんな想いに何度か囚われては、夜中に目覚めたりもした。 わたしがそうした意識の通過の年ごろだったのだろう。 「ひとを殺(や)った者の目付きは、そこを踏み越えたときからはっきりと変わるんだ。野獣のような坐り眼になる。だから、見る者が見れば、それと解る」 証拠不十分で、無罪放免となったある死刑囚の、新聞記事をみたとき。大戦の兵として敵に相対し死闘を経験した父が、そうつぶやいたのを聞いたことがあった。 自分の命を守るか、自分が殺されるかとなれば、死ぬ気で相手に一撃を加えるだろう。 また、自分の食べ物は自分の手で捕れとなれば、出来ない者に食物は無い。 そういう形で生きて来た者と、何もかもをどこかの誰かにして貰う綺麗事世界の者は、生き方の気迫がまったく違うはずだ。 そういう父の喩え話に、無言で聞き入ったものだ。 そして、そのような殺った者特有の目付きへの変化が、ひょっとして自分にもあるのではないか。すでに鶏を殺(あや)めた時から、自分もその目付きかも知れない……。 などと、あの後何回か鉈で絶ち切って食してしまって、一羽も残って居ない鶏小屋を見るたびに、思ったりしたのだった。 そうした田舎での思い出の日が、すでに大むかしとなって、とうに忘れてしまっていた。 父は既に亡く、わたしが父の年齢を越えて、わが子さえがあのころのわたしの歳を越えてしまっている。 − 了 − 参考:花風 氏作「にわとり」 |
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