・・・・
夢舟亭
・・・・


夢舟亭 エッセイ   2005年10月01日

    黙祷 ニューオリンズ


 ニホンでは戦国初めの頃となるのか1619年の夏8月と言われます。ミシシッピー河岸のある港に着いた一艘の船から、全身タールを塗ったような色の人間たちが引き出されたとか。
 奴隷売買の始まりのその時から400年もの長い時間の先の、今。その町、ニューオリンズが水浸しのなか大混乱だと聞くのはなんとも心痛む思いなのです。

 ときにはむち打ち引き出された人たちの子孫と、値段を付けながら値切り叫んだ者達の子孫とが、息もひとつにして、鑑賞にたえるほどの芸術としてのジャズ・ミュージックで奏でる現代において。ジャズプレーヤーのすべてが全曲にその頃の先祖の思いをのせているわけではないのでしょう。
 まして近代となればギターに限らず、エレキ調も白人系も多いのが新しいジャズであることはたしか。
 ウイントン・マルサリスなどに至っては、売られる側の子孫であるにもかかわらず、エリート街道まっしぐらのジャズトランペッターであり、かつクラシック界の賞まで得る若者。いやすでに大物です。

 しかしながら、では彼らはもう肌色は問題ではないのか。歴史は曲想にまったく影響を与えていないのか。となればやはり・・

 あの頃へ話を戻せば、生地アフリカで身についた考えや人種の誇り。そういう精神的なものまで否定され捨てさせられ。母国語も許されず。
 生死殺生与奪の権を買い取られた主、白人に握られて。自分の家族のことさえ思うにまかせずままならず。ご主人さまのおおせの通りの一生をおくる労働家畜の身。
 となればこの身ひとつ。
 最後に残るのは叫びしかないではないか。
 叫びはやがて死生観を歌霊歌に託して。
 労働歌が口をついで出れば、死のときが自由への解放だという苦しみは、ブルースとなって。
 やがて、解放という名で自由を得たものの、さてこの身でなにをもって生計をたてようか。本当に差別はなくなったのか・・

 ニューオリンズという町は、言うまでもない新大陸として、歴史的には仏国ルイ十四世かな、の新しい領地としてのニューオルレアン地。スペイン領となり、次ぎにフランスの手へ。さらにイギリスに売り渡された。
 そして独立のアメリカ国に統合されるまで流転の地域だったという。

 その後、スペイン、フランス、イギリスはもちろん、世界人種が行き来、住み着く町になった。
 名ばかりの奴隷解放後、主人無ければ職も無しの黒肌の人たちが、口を腹を満たそうと仕事にありつかんと、ニューオリンズへ流れ込んだも思えば自然の成り行きか。

 そういう経緯で、楽譜も読めない黒い肌の方々の血に母国から持ち込んだ白人の栄養剤である西洋文化を注入し攪拌した音楽。
 その結果として、どこにもない音楽、ジャズが生まれたという。
 けして五線譜の上の音楽学校のある清潔健康な育ちだったというわけではなかった。

 西洋をはじめとする世界各国の人間が出入りするニューオリンズ歓楽街に、酒客のご機嫌をうかがう、今で言う、流し、のような歌い手や珍どん屋や、漫才やたいこ持ちのような人々の思いがジャズになって始まったらしいのだ。

 居酒屋の白人客が遠くふるさとを懐かしむ様々なヨーロッパの歌が、陽気に囃し立てては、にぎやかに歌われたのでしょうか。
 歌い手、踊り手、演奏者はもちろん黒人たちの大人も子どももがそうした余興を演じて、その中にたとえばあのサッチモも、居た。ジャズの生き残りの様な人です。

「酒場には音楽だ、おい小僧何かやってみろ」と声がかかるのを待っては、小銭目当てに、ボロ家で待つ家族のために楽器もなにも無い身で、踊って歌って。居酒屋にたむろする白人の旦那がたのご機嫌を伺い、かつ店のおこぼれに預かって育った。
 そのころの癖としての「黒い顔にこぼれるような白い歯を見せるあのスマイル」が身に付いてしまったと言います。

 客の機嫌をどうにしても取り結ぼう。そうしなければ今夜の家族に食事はない。というほどの背水のショウマンシップといえば、まさに原点ではありましょう。
 この一件ですでに多くのことが伝わってくる気がする。
 当時、そうした子どもがほとんどだったなかで、サッチモ(がま口)のあだ名の子だけがショウマン、芸人、ジャズの巨人になった。とはいえ彼らの多くの似たような生活をしていたということが。

 そんな客たちへの黒人スマイルをしなくなった世代がマイルス・ディビスのころだという。
 これは白人の間で大きな声で言い交わされなかったにせよ、物議をかもした、様です。
 たとえば仕事上の部下が、昨日まで、にこやかで難しいこと言いこなしのお愛想笑いの者が、ある日を境に普通の真顔だけになったら。
 そうでしょうか、お言葉を返す様ですが、というふうになったようなものか。

 それは法律上はおかしくないけれど、しかし当時の社会通念上、白人側にはまだそういうもんじゃないだろう、というものは有ったのでしょうね。キング牧師が射殺されたのもそうむかしではないでし、また黒人参政権は1960年代となれば。

 いずれにせよ、ニューオリンズで音楽としての形ニューオリンズジャズ、デキシーランドジャズとして、シカゴに向かって移動したジャズは、さらにニューヨークの夜の盛り場に出て、ダンス伴奏として大いにアメリカ国内をにぎわせた。華々しくも鑑賞音楽としてステージにも上がった。

 その後、数人のコンボを組んで、真剣な楽器競演のマニアックなバップ時代となる。ことここに及んで、モダンジャズとして話は面白くなり、今日聞かれる名プレーヤーのお名前オンパレードとなるらしい。
 ドラッグまみれのジャズマンの、幻の名盤続出などのジャズ1950年代がそれなのか。

 以上、ハリケーンという暴風雨による大水害として世界中に聞こえたニューオリンズは、多くの人が知るようにジャズ発祥の町。という話はとてもとてもまだまだ書き切れやしない。
 今やクラシック音楽と双璧をなすジャズ。またポップミュージックに多くの影響を与えたジャズ。その話はひとまずこの辺にしたい。

 ニューオリンズの犠牲者に黙祷。





・・・・
夢舟亭
・・・・

・・・・
夢舟亭
・・・・




[ページ先頭へ]   [夢舟亭 メインページへ]