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夢舟亭
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エッセイ  夢舟亭    2009年04月01日


   邦画「おくりびと」


 死者を綺麗に整えて棺に納める仕事であることを知らずに雇われる。
 しかしやがてその仕事の価値に自分が目覚めて。
 その仕事を毛嫌いする家族と周囲の人たちを納得せしめてゆく映画「おくりびと」。


 主人公は演奏家だった。楽器はチェロ。
 形だけの音楽家というべきか、親の期待で身につけた芸術の技か。
 属するオーケストラは世の需要を喚起できないで成立せず、解散。
 奏者は失業した。

 そこが若さか、夫婦で安易にも見える故郷へUターン。
 たまたま見た求人案内先を訪れる。
 だが想像した仕事ではなかった。
 人みなに訪れるのが生老病死。
 そのなかでも「死」に関わるとなれば敬遠されるが、それに不可欠な商売「納棺士」だった。

 関わらずに逃げたいと思う男は、少しずつその仕事に目覚める。
 夫の職業に驚いた妻は逃げ出す。
 だが・・けっきょくは、と何かコトが起きるたびに、先が見えてしまう。
 ではこうなるな、と話の展開が読めてしまうのが白ける。

 ほどほどのハッピーエンドが待っているだろうと、見ないうちから結論も話の筋も見えてしまう。
 どうせ先を読めてしまったなら。
 落語のように話し方つまり演技や紆余曲折の妙を楽しむという手がある。

 しかしながらこの映画の妙は私が見るかぎり、見せる俳優は山崎と笹野にかぎってしまう。
 ほかは誰でもいいようなそんな点も私には寂しく物足りないのでした。

 どのような映画も、主人公を引き立てるには対抗馬や社会問題などの、解決すべき難問の設定が要る。
 それが大きくて困難なほど、またその結果に左右される人々が多いほど、主人公の行いは際だってくる。感動にも通じる。
 だから、「だがしかし、それにもかかわらず」という逆転劇にこそ妙味があるわけです。

 この映画の場合「屍を扱う仕事は嫌われる」という前提が克服すべき対象であり壁。


 言い換えると、それだけ、でしかない。
 この高いとも険しいとも思えない山をいかに乗り越えるかという視点で描かれている。

 遺体を清め整え死化粧をほどこす仕事に目覚める元音楽家。
 そこに立ちはだかるものは、自分と他人の「遺体への嫌悪感」だ、という設定です。


 自分の方はすぐに折れた。
 さて家族と周囲だが。

 しかし考えるに、今、それは社会や大人同士が嫌悪し合うほどの職業でしょうか。
 一般の人にもそう見られているでしょうか。

 私は鑑賞の間中この点が気になったのです。

 葬儀に関わること、遺体を扱う仕事を、映画のように毛嫌いするだろうかという意味です。
 私にはそうは思えない。

 となると越えるに足る山はなくなってしまう。

 腐乱死体は遠慮したいとしても、私は地方ほどそうした死人への拒否や嫌悪の気持ちが少ないように思うのです。

 たしかに遺体を汚すことは嫌われる。
 死者への侮辱は遺族への侮辱。
 これは分かります。
 だから遺族への思いやりが欠けているという不満は聞いたことがある。

 でも葬儀のお膳立て役を毛嫌いする人の話は聞いたことがないのです。
 皆が、ありがとうございます、お世話になります、ご苦労さまですと深礼してしまいます。
 大変な仕事だなぁという声さえ聞いたものです。

 だのに映画の最終部分では、主人公の父の屍を安易に扱う葬儀屋が出てきます。
 実際にみんながみんな映画のように遺体を綺麗にしているかどうかは分からないけれど、安易に扱うシーンは実際見られないだろうと思います。

 葬儀社なら「あらぁよッ」とお荷物扱いする葬儀屋などないよと、クレームを付けるのではないでしょうか。
 まして遺族の前です。

 たとえば戦後処理問題で中国から「死んでもA級戦犯は許せない」だからBC級以下と同じ場所に埋葬するなと言われます。
 それへわが国では、AB級の可否はともかく「死ねば皆仏様」。死者は善人に帰るという考え方です。

 それほどに誰もが死者には敬虔な気持ちで手を合わせます。
 もちろん遺族なら死者は穢れるから嫌だなどという思いはない。
 少しでも丁寧に扱って欲しいのですから。

 死者を軽く扱うあのシーンは、後のストーリーの盛り上げになくてはならないのでしょう。
 でここも、見る者を憤りへもっていった先で、待っていましたとばかりに対抗する主人公の見せ場があることが読めてしまう。
 見え透いているだけに白ける。

 全体を通して、かなり都合良い話運びでこじんまりなTVドラマふうに仕上げた感じなのです。
 米国で評価を得たのはどういう点なのでしょう。

 遺体を扱う日本の話はほかにも「死化粧」ほかあったように思います。
 ですから死者や弔い悼むテーマへは誰しも敬虔な気持ちになろう。
 けれどよく考えてみれば、老い、のテーマとともに珍しい作品ではないわけです。



 葬儀を厳粛荘厳にすることが充分可能な富裕層にはさほど気にならないでしょうけれど。
 けして安いとはいえない葬儀一式に含まれていたものが、この映画を境にして別経費として加算されないことを祈ります。

 私的には、無への旅立ちなら、楽器ひとつで一曲、喉ひとつで歌、の送葬も好ましい気がしました。



 話は変わりますが、今どきの邦画ロケ撮影は、なぜに「ヤマガタ」(東北の山形県)なのでしょう。

 山形出身の藤沢周平作品の映画化のせいか「たそがれ清兵衛」、「隠し剣 鬼の爪」「武士の一分」は山形県鶴岡でそのいなか小城は、福島県白河の小峰城を撮った。
 また「スイングガールズ」が山形県置賜。
「蕨野行(わらびのこう)」も山形県朝日だった。
 ちなみに「フラガール」は福島県いわき。これも東北地方。
 どれも言葉は“訛る”ンだよォ。

 それぞれ作品が描く時代も傾向もメッセージも様々ではあるが。
 地方の自然風景やそこに住む人々の心象風景のニッポン素材を、東北に求めているような気がします。

 であるとすれば、今おらが東北地方にニホン人の心のよりどころに値するなにがあるというのでしょう。




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